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その日まで

 その日まで、筆者が関わったイベント系の企画はほとんどなく、唯一あったのが1977年10月16日に開催された「SFセミナー」である。実行委員長寺尾公博、筆者はプログラム(論文集)作成と、当日の進行役。参加者は少なかったが、柴野拓美、堀晃、安田均さんらが参加した。セミナーのプログラムは以下のようになっていた。

bullet  アドヴェンチャーSFとしての「恋人たち」(寺尾公博)
bullet  ル・グイン論(戸田清)
bullet  SF試験(参加者全員受験の記述式問題)(注1)
 ペーパーバック即売
bullet  サミュエル・R・ディレーニイの小説(米村秀雄)
bullet  日本SF歴史年表(桐山芳男)
bullet  SFの深化と矮小化―袋小路のアメリカSF(水鏡子)
bullet  ゼラズニイとヴァーリイの間―現代アメリカSF概観(大野万紀)

 よく知られるように、この形式は東京のSFセミナーにそのまま引き継がれて、今日の姿となった。“最初”に価値があるとするなら、記憶にとどめる意味もあるだろう。
   SFセミナー1977で当日配布された論文集(本文は手書きオフセット)SFセミナー1977で当日配布された論文集(本文は手書きオフセット)

 時代はめぐる。80年代に入ると、SF大会は大きく変貌していく。

bulletTOKON7(1980)東京 (実行委員長:佐々木宏)参加者1300
bulletDAICON3(1981)大阪 (実行委員長:武田康廣)参加者1500
bulletTOKON8(1982)東京 (実行委員長:大宮信光)参加者1500
bulletDAICON4(1983)大阪 (実行委員長:西垣寿彦)参加者4000
bulletEZOCON2(1984)北海道 (実行委員長:見上正行)参加者800

 SHINCON以来伸び悩んでいた参加者数は、一気に1000人を突破した。東京、大阪と大都市圏を往復するたびに巨大化も進む。このころはまだコミケは一般的ではなく、ファンジンを即売できるスペースとしてSF大会を利用するグループもあった。ワープロは普及していなかったが、オフセット印刷のコストも下がり、ビジュアルな形態の同人誌が大量に出回り始めたのである。大会のプログラムも多様化した。82年のTOKON8では、2日間で66の企画が大小7会場で開催されるなど、パラレル化が日常となった(注2)。また、DAICON3では完全な手作りアニメ(注3)が上映され、オープニング・アニメブームと、後のGAINAXを産み出すきっかけになった。

 このように、大会が同一地域間でピンポンのように連続して開催できたのは、スタッフの継承性があったからである。たとえば、TOKON7の実行委員長佐々木宏氏は、ずばり

 SF大会の面白さは参加することより運営することである

と述べている。イベントには、本来ならばSF読者が交歓を深めるとか、専門家が研究成果を発表する場を持つなど、固有の目的がある。しかし、SF大会の場合、開催すること自体が目的となるのである。中身は問われない。アマチュアが主催する大会では、出演者が参加者を100%楽しませてくれるという保証などない。観客の側は、常にリスクを持つ。一方、主催者からすれば、大成功であっても失敗であっても、イベントを実行したこと自体に達成感が感じられる。という意味で、運営したほうがよりリスク(不満)が少ないのである。イベント当日の独特の雰囲気(緊張感)は、またそれを味わってみたいと思わせる、ある種の快楽刺激物質=エンドルフィンともいえる。ただし、参加者が1000人を日常的に超える大会では、さまざまな問題が生じてくるようになった。

 SHINCONが終わってから9年、ネオ・ヌルの活動やSFセミナーからも7年が過ぎた1984年8月のとある日、当時星群で活動していた坪井貞一、山根啓史、高橋章子(当時:後の筆名は三村美衣)らから、大阪でSF大会を開催するという話が持ちかけられた。奇妙なことに、大会立候補をEZOCON2(北海道)で済ませたというのに、組織的な裏付けは何もないのだという(注4)。この3人の大会観は、そもそも全く違っていた。

 坪井が主張する大会はこうである(組織内連絡誌「DAICON通信」より)。

 SF大会はSF大会であって、決してアニメ大会やマンガ大会ではない。(中略)社会に出ても結婚しても子供が出来ても、ファンジンに作品を書き、SFのイベントに出席し、そして読む、という筋金入りのSFファンがもっと増えなくてはいけないのだ。(中略)SF大会はそういう人たちの来やすい、そして満足できるイベントでなければいけないと思うのである。

 それに対して山根が主張するのは、ファンを公言しない一般ファンを含めたイベントであって、SHINCONの流れを汲む大会である。反面、SFファンダムとの付き合いは、坪井よりも山根の方が深かった。本当の意味で、一般のファンを見据えた立場とはいえなかった。事態を複雑にしたのは、彼のDAICON3・4に対する個人的なわだかまりだった。山根はアンチ・ゼネプロ(当時)で、大会を進めようとしていたのである。

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注1:ここに収録しようと思ったが、結構な分量があるので別な機会に考えたい。SFの基礎教養という意味では、今やってみても面白いはず。とはいえ、SFセミナー当日は、何で試験をSFの集まりに来てまでやらなきゃいかんのだ、といった表情の人もいた。それぐらい本物の試験と似ていたのである。数年前の京都SFフェスティバルでも、同様の企画が「SF共通一次」として実施されているが、合宿企画なのでホンバン並みの緊張感はなかった。

注2:この大会では、印刷物のクオリティも高かった。編集をスタジオ・アンビエントなどのプロが担当/指導したためである。プログレスレポートの表紙に新井素子、大原まり子、菅浩江らのポートレートを起用するなど斬新(大胆)な編集方針だった。余談だが、当時はこのようなポートレート風写真に、あえて挑戦する作家もいた(下記)。

TOKON8プログレスレポート3号では、菅浩江が虎縞ビキニのラムちゃんスタイルで登場。読者も驚愕したが、この写真を送りつけられたアンビエント編集部も困惑したという。

月刊マザー創刊号(83年7月):グラビアページで、大原まり子が作中の異星人に扮するという趣向。この雑誌は確か創刊号のみ。コスプレ経験作家は、賞が取れるという伝説を産んだ。

注3:大量のスタッフをアニメ製作に動員。徹夜続きで家に帰れない未成年スタッフの親が、悪いことにかかわったのではと憂慮する騒ぎになった。関係ないが、筆者のヨメも、アニメーション技術の専門家として参加。

注4:大会が巨大化することに対応して、立候補は2年前からできるようになった。すなわち、2年間の準備期間が与えられるわけである。

 

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