その日まで(承前) | |||||||||
DAICONの歴史はあまり幸福なものではなかった。
DAICON4は破格の大会である。オープニング・アニメは完成度を高め、アマチュアの域を凌駕していた。大フィルによる生演奏、会場内は独自の“通貨”が使用され、コスチュームショーも(主催者側で)予め各種着ぐるみが準備されている周到さだった。都市型、ショー型の大会だった。大阪厚生年金会館を占拠(注2)した参加者は総勢4000名を数え、それだけでも史上最大規模である(今日までこの数字は破られていない)。ところが、大成功は反面DAICONという名前に対するさまざまな感情を呼び込むこととなる。
DAICON4は、ショー型に徹した反面、企画の種類は多様といえない。作家のファン、翻訳小説のファンにとっては物足りない大会となった。DAICON5を主催するなら、さまざまな意味で大成功だった前大会で、「なかったもの」を希求する試みになるだろう。後にスタッフとなるメンバーの大会像はそれぞれ違っていたが、過去に囚われない点では共通していたのである。 DAICON3と4の中核スタッフは、血族意識が強く(大会スタッフではよく見られる現象)、それがゼネプロやGAINAXの母体となっていった。大会委員長となる山根のもとに、「わたしたちが作り上げたDAICONを壊さないで」という趣旨の電話が寄せられたりした。山根自身には、旧スタッフと対立する意識はなかったという(もともとDC3の関係者だった)が、初期の頃「オープニング・アニメ(OPA)をしない大会」を強調した理由に、「OPAとショーのDAICON」への反発があったことは確かだろう。冗談めかした(インタビュー風の)文章で山根はこう書いている(DAICON通信No6)。
この発言は、当初彼が考えていたショー型大会とは、ややニュアンスが変わっている。坪井の考えに近いものになってきていた。 もう一人、DAICON5立候補に関係した人物に小浜徹也がいる。彼は、今年(2000年)のファンジン大賞で柴野拓美賞をもらったことでも分かるように、ある意味でファンダム・ネイティヴ(注3)な思想の人といってよい。断片的な文章にこのような表現がある(DAICON通信No2)。
このようにして、さまざまな思惑を抱えながら、最初の大会準備会(定例会議)は1984年8月26日、昼下がりの梅田で開催された。
注1:DAICON3はその立候補からして不幸なものだった。当時関西学生SF研究会連盟 (関S連)の辻睦彦、武田康広らは大会開催ルールを知らずに勝手に日本SF大会を宣言(下記広告)。当然、この大会は幻のものとなり(第18回はMEICON3と決定済み)、替わって第4回SFショーが行われた。SFショーは星群の協力の下に行われ、菅浩江らとゼネプログループとの結びつきもその際に形成されたものといえる。ただし、SFショーは成功とは言えず、これ以降星群による大会主催はなくなる。なお、DAICON3の苦難の道は続く。翌年のMEICONで正式立候補するも投票でTOKONに敗退、2年後にようやく開催権を得るのである。
注2:といっても実は貸切には出来ず、一部の部屋では一般の結婚式が行われていた(通例の厚生年金施設と同様、結婚式場も含まれるため)。不幸なことである。 注3:分かりにくい表現だが、要するにファンであること自体に意味を見出し、ファンやファンが作り出すもの(ファンジンや大会、セミナー)や、活動そのものを積極的に評価しようとする立場。これを単なる研究者的な見方ではなく、ファンダム活動を実践しながら行えることがネイティヴたる所以である。この考え方は、普通の大会参加者にとって、行動自体を勝手に規定されるようで納得がいかないように見える。ただ、小浜が言いたいのは、単純に、こっちの方が楽しいし面白いよ、ということなのである。 |
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