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DAICON5、その会場

 2000年の第39回日本SF大会Zero-conでは、リレー座談会「SFの20世紀」や、原画展「SFアートギャラリー2000」など多数の分科会企画が開催され盛会だった。しかし、これらの企画のいくつかは、DAICON5で行われた、大会25周年リレーパネル(4部構成)や原画展「ファンタスティックアート原画展」などを、コンセプトとして継承したものと見なせるだろう。さらに、ハリー・ハリスン、J・P・ホーガンといった2人の海外ゲストや、40名近くのアメリカ人参加者を交えた、ワールドコンを予兆させる大会だった点も特徴といえる。DAICON5は、そのように都市型分科会方式を完成させた大会だったのである。

DAICON5最初のパンフレット(兼ポスター):不動産広告風の案内状となっていた。この時点では後の公式ロゴマークはできていなかった。

 「SF大会の内容は器で決まる」というのは、残念ながら現在でも真実である。どれだけ立派な企画があっても、それを実現できる器が重要だ。たとえば、オーケストラを入れるためには、音響施設が十分なホールを確保しなければならない。SF大会の場合は、逆に器に合わせて企画をきめることも多かった。演劇のように舞台を隠してしまえるほどの大道具を作る予算など、どの大会でも確保できないからである。いかに会場を活かすか、会場の雰囲気と企画とを一致させるかが課題といえる。

 大型のホテルならば、たくさんの宴会場(分科会会場)を有するから、大会には向いている。しかし、リゾートや地方都市の大会はともかく、コストの高い大都市のホテルでは、その使用料を満たすだけの参加者を見込むこと自体がリスキーだった。ホテルは宴会で利益を出す。単なる会場貸しでは儲けにならないため、割増を要求される。宿泊込みという選択もあったが、85年の段階では、ホテルの宿泊費込みで大会を実施した場合、参加費用が高くなりすぎるという問題もあった。一方、市民会館の大多数は、適切な数の会議室を持っていない。バブル前後(今でも)、ほとんどの公営施設は大ホールさえあればよい、という単純な発想で器を作っているからである。

 DAICON5で検討した主な会場は、

bullet豊中市民会館(予約が煩雑)
bullet都ホテル上本町(予算的に参加者4000名要)(注1)
bullet吹田市文化会館(新築施設)
bulletピロティーホール(手狭:DAICON3会場)
bullet厚生年金会館(結婚式が優先される:DAICON4会場)
bullet青少年会館(施設が古く手狭:DAICON2会場)
bullet京都国際会議場(所在地が大阪府外となる)
bullet大阪城ホール(16000人収容のアリーナしかない)

吹田市文化会館パンフレット(当時)

 最終的に選ばれたのは、3番目の吹田市文化会館(通称メイシアター)だった。選択の最大のポイントは施設が1985年に竣工したばかりであること、大中小のホールや集会室、練習室など9会場が確保でき、9並列の分科会が可能なことである。薄汚い施設では、やはり雰囲気が盛り上がらない。新しい会場が参加者へ与える効果は、SHINCONでも経験済みである。

 こうしてUNICONの混乱が残る85年の8月末、会場の予約は完了した。テーマも、第25回という区切りのいい数字から、「日本SF―その成果と未来」に決定した。事務局は大阪市内のマンションを新規に借り受け、ようやく状況は落ち着いたかに見えた。ところが、そこで考えもしないトラブルが発生する。今になってみれば、このような事態を想定しなかった、実行委員会の運営姿勢そのものを問題にすべきなのかもしれないが。

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注1:大阪上本町の都ホテルは、都ホテルグループ中のメインに相当する、高層の大型ホテルである。これも新築直後であり、会場の見栄えでは申し分なかった。ただし、ホテル側の対応はあまり芳しくなく、「SF大会」に対する不信感も強かったようである。とはいえ、8月末というのはちょうどホテルの閑散期にあたるため、後になってホテル側からの打診が何回かあった。今後、大都市での大会を考えるならば、ホテルの需給関係も含めて、相手の「足元につけこむ」姿勢も重要だろう。

 

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