8月24日(土)/25日(日) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
UNICONのタイムテーブルは以下のようなものだった。出演者については、当時の記録が散逸している関係で一部正確ではない(アフターレポートは出せなかった)。尚、ホールの司会には西川公則と井上祐美子があたった。 UNICONオープニングショウで歌うTARAKO
摩耶ケーブルを待つ参加者・ゲスト 合宿所である摩耶ロッジは、ケーブルカーとロープウェイを乗り継ぐという山の上にありながら、会場から1時間程度と、 まずまず手近にある。夜景も絶景であり、そのこと自体は好条件ともいえた(注3)。
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TARAKO、桂春輔らマニアックなショーをプロモート。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
翻訳家ゲストの豊富さは大会史上屈指(名前が出ていないが、黒丸尚、風見潤氏らも参加している)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
会場と合宿所の条件面では、フェスティバル史上でも良好な組み合わせ。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
予算的には失敗。予定参加者400〜500名に対して実数は250名あまり(注5)。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
端的に言えば、UNICONは3つ(あるいは4つ)のフェスティバルを同一会場で実施したものと等価であった。一般向けの大会と、パネルディスカッションを中心とするセミナーとでは、参加者の求めているものが当然異なる。これはメインホールのショーであっても同様である。当たり前なのだが、コンサートと落語は参加者が異なる。という結果から、次の法則が生まれる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初心者とマニアは相容れない。従って、相容れなくてもすむように分離すればよい。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホール企画は1種類ですべてを満たせない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
趣味の企画は同系統のものを複数用意する必要がある。 すなわち、特定ファン向けの企画を作るなら、その種類のものを大会全日分準備する必要がある。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多種類の企画を成功させるためには多数の参加者が必須。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
衣食住、食住が満たされなければSFファンといえども怒る。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
もう一つ、運営上の法則として、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スタッフの役割はスタッフ自身には分からない(自主管理・臨機応変というのは便利な言葉だが、管理責任を放棄した言葉でもある) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参加者数未定の段階で、企画予算を組むと赤字になる(主催者は楽観的な見通しを出しがちである) |
注1:英保未来=大森望、村山裕=白石朗 注2:8mmで撮られたアマチュア特撮映画 (MWP:マジカル・ワンダー・プロジェクト製作)。当時として最高のクオリティだったもの。 『マーシー』のパンフレット 注3:1時間では遠いではないか、という意見もあるが都会とリゾート両方楽しめるという意味で近いのである。もともとこの合宿所は定員120名、大目に見ても190名程度が限度である。そこに参加者190名とスタッフ、ゲスト計50名以上が加わり、寝るところがない状態となっていた。「死の合宿事件」と呼ばれる。幸い山の上のため、暑さで死ぬ人は出なかった。原因は、参加者の大半が合宿を希望したこと、大会運営費が不足したため、定員オーバーでも参加を断ることができなかったことにある。また、会場に通じる唯一の道路、六甲ドライブウェイにローリング族が出没し、当時は夜間2輪車の通行は禁じられていた。機材運搬中のスタッフが捕まる騒動もあった。 注4:スタッフの沖田郁雄の働きかけで、内藤陳氏(日本冒険小説協会会長)が参加する予定だったが、仕事の都合で不可能となった。ただし、合宿所摩耶ロッジにまでわざわざ姿を現し、義理堅いことを見せてもくれた。 摩耶ロッジの内藤陳。右は高橋章子(=三村美衣)。 注5:赤字額はおよそ50万から100万で坪井委員長が負担。正確な額は不明。 |
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