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8月24日(土)/25日(日)

 UNICONのタイムテーブルは以下のようなものだった。出演者については、当時の記録が散逸している関係で一部正確ではない(アフターレポートは出せなかった)。尚、ホールの司会には西川公則と井上祐美子があたった。

UNICONオープニングショウで歌うTARAKO

24日 会議室(小) 会議室(大) ホール
11:00

よいこのSF1
ガイダンス篇

 
11:30
12:00  

あなたにここにいてほしい
TARAKO

12:30
13:00

マニアのSF
(1)短編SFを読む
(2)現代SFを斬る
英保未来/村山裕/小浜徹也/今村徹(注1)

最新SFの世界
小川隆/今村徹

13:30

来賓挨拶

14:00

安田均のゲームゼミ
(1)RPG入門
(2)PBM入門

現代におけるSF入門とは
眉村卓

14:30
15:00

よいこのSF2
海外SF入門篇
大野万紀/正信美香

映画「マーシー」
MWP(注2)

15:30
16:00  

製作者講演
水谷しゅん/青木治道

摩耶ケーブルを待つ参加者・ゲスト

 合宿所である摩耶ロッジは、ケーブルカーとロープウェイを乗り継ぐという山の上にありながら、会場から1時間程度と、 まずまず手近にある。夜景も絶景であり、そのこと自体は好条件ともいえた(注3)

口演中の桂春輔、オリジナルの新ネタまで用意してもらった。


25日 会議室(小) 会議室(大) ホール
11:00   ブックレビュウ・ライヴ
福本直美/高橋良平/水鏡子/岡本俊弥
アニメーション現場の声
永野護
11:30 鳥図明児の
お絵かき教室
12:00 来賓挨拶
12:30 よいこのSF3
大宮信光
SF作法・翻訳作法
宮脇孝雄/鎌田三平/井辻朱美/森下弓子/
高橋良平
小説におけるSF意識
堀晃/山高昭/大野万紀
13:00
13:30 SF料理教室
14:00 面白くなければ
死ぬだけ
鎌田三平/山田順子
(注4)
日米におけるSF入門の相違
伊藤典夫/英保未来他
14:30 SFをやめる部屋
プランニング・ハリマ
15:00
15:30   桂春輔に花束を
桂春輔
16:00
16:30
17:00 クロージング

 

(右)UNICONネームプレート
 24日(赤)/25日(青)/ 合宿(黄)という区分け

(左)UNICONスタッフ集合写真
 大半はDAICON5にも参加した。
 今までUNICONは失敗であったという認識が参加者、スタッフともにあったため、この大会の意味について語られたことはあまりない。しかし、改めてUNICONという大会を振り返ってみたとき、いくつかの特徴がみえてくる。
bullet TARAKO、桂春輔らマニアックなショーをプロモート。
bullet 翻訳家ゲストの豊富さは大会史上屈指(名前が出ていないが、黒丸尚、風見潤氏らも参加している)。
bullet 会場と合宿所の条件面では、フェスティバル史上でも良好な組み合わせ。
bullet 予算的には失敗。予定参加者400〜500名に対して実数は250名あまり(注5)
 端的に言えば、UNICONは3つ(あるいは4つ)のフェスティバルを同一会場で実施したものと等価であった。一般向けの大会と、パネルディスカッションを中心とするセミナーとでは、参加者の求めているものが当然異なる。これはメインホールのショーであっても同様である。当たり前なのだが、コンサートと落語は参加者が異なる。という結果から、次の法則が生まれる。
bullet 初心者とマニアは相容れない。従って、相容れなくてもすむように分離すればよい。
bullet ホール企画は1種類ですべてを満たせない。
bullet 趣味の企画は同系統のものを複数用意する必要がある。 すなわち、特定ファン向けの企画を作るなら、その種類のものを大会全日分準備する必要がある。
bullet 多種類の企画を成功させるためには多数の参加者が必須。
bullet 衣食住、食住が満たされなければSFファンといえども怒る。
 もう一つ、運営上の法則として、
bullet スタッフの役割はスタッフ自身には分からない(自主管理・臨機応変というのは便利な言葉だが、管理責任を放棄した言葉でもある)
bullet 参加者数未定の段階で、企画予算を組むと赤字になる(主催者は楽観的な見通しを出しがちである)

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注1:英保未来=大森望、村山裕=白石朗

注2:8mmで撮られたアマチュア特撮映画 (MWP:マジカル・ワンダー・プロジェクト製作)。当時として最高のクオリティだったもの。

『マーシー』のパンフレット

注3:1時間では遠いではないか、という意見もあるが都会とリゾート両方楽しめるという意味で近いのである。もともとこの合宿所は定員120名、大目に見ても190名程度が限度である。そこに参加者190名とスタッフ、ゲスト計50名以上が加わり、寝るところがない状態となっていた。「死の合宿事件」と呼ばれる。幸い山の上のため、暑さで死ぬ人は出なかった。原因は、参加者の大半が合宿を希望したこと、大会運営費が不足したため、定員オーバーでも参加を断ることができなかったことにある。また、会場に通じる唯一の道路、六甲ドライブウェイにローリング族が出没し、当時は夜間2輪車の通行は禁じられていた。機材運搬中のスタッフが捕まる騒動もあった。

注4:スタッフの沖田郁雄の働きかけで、内藤陳氏(日本冒険小説協会会長)が参加する予定だったが、仕事の都合で不可能となった。ただし、合宿所摩耶ロッジにまでわざわざ姿を現し、義理堅いことを見せてもくれた。

摩耶ロッジの内藤陳。右は高橋章子(=三村美衣)。

注5:赤字額はおよそ50万から100万で坪井委員長が負担。正確な額は不明。

 

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