参加者獲得までの長い道のり(2) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大会参加者は思うようには伸びなかった。特に、オープニングアニメのないDAICONということで、アニメ関係へのアピールが薄く、活字以外の媒体へいかに売り込むかが課題とされた。そこで、アニメックやスターログ(注1)といった専門誌に、エッセイ風紹介記事を連載するというスタイルでプレゼンテーションが行われた。当時のアニメ誌は紙面の大半が評論やエッセイのような記事中心だったため、このような企画が通ったのである。映像系企画は、その後活字系と拮抗するぐらい数も内容も充実していく。
広告も、UNICON当時より厳しくなっていた。何度も繰り返し各種雑誌媒体へお願い状を出している。下記を参照。
大会参加者数は、月200名づつの申し込みのまま、なだらかに増加するという状況だった。最終的な予算が確定できたのは、ようやく4月が終わってからである。都市型大会でも合宿参加が基本だったので、まず1500名分の合宿枠から埋まっていった。海外参加者は、当日参加でカウントしている。また、招待者は合宿費を含めて無料(ゲスト=企画出演者という考え方。一般ホテルを利用するようになってから、宿泊費は自己負担が原則となった)、一般スタッフは参加費相当を負担した。
スタッフは3月以降に急激に伸びた。大会では募集ビラをプログレスに添付して、集まった参加者を次々とスタッフにしていった。サービスが悪いと事務局まで文句をつけに来た参加者は、全員スタッフに就かされた。批判者を味方に取り込むという伝統的方法である。迷惑なように聞こえるが、孤独なSFファンは、内心喜んでいた(と思う)。
注1:どちらも現存せず(スターログは出版社を変えて出ているが、SFに対するファニッシュな温かみはなくなった)。アニメックには、DAICON4前後にゼネプロ通信などが連載されたこともある。 |
注2:当時の大ホールチーフを務めたT君は次のような感想を寄せている(スタッフ向けアフターレポート集から一部抜粋)。 | |
「DAICON5スタッフ募集」のダイレクトメールがTの元に届けられたのは昭和60年(1985)の冬も近い11月の半ばであった。大会の参加回数も既に片手では数えられなくなっていながら、まだスタッフというものを経験したことのなかったTは、その手紙を前に少し考え込んだ。
(もう最近ではSFもほとんど読んでいないし、大会に参加するのも今回が最後かもしれない…)
そして12月1日、スタッフ説明会の席にTの姿があった。この時期(大会まで10ヶ月もない)での新規参加スタッフであれば、どうせ当日は会場を走り回る下っ端だろうと思っていたのである。
その年の暮れ、大晦日も近い某日、Tの元に事務局から一本の電話が入った。
「Tさん、おめでとうございます」
「え、何のことでしょう」
「我々の協議の結果、あなたはめでたく大ホールのチーフに決定致しました」
「ひええええっ!」
余りに意外な展開となったTはうろたえた。スタッフになってまだ1ヵ月足らず、過去にスタッフの経験も無く舞台のことなど何も知らない男に、そのような仕事が回ってくるとは夢想だにしていなかったのである。
翌昭和61年より、Tの事務局が通いが始まった。実際にTが企画部の仕事に手を付け始めて驚いたのは、何より企画がほとんど進行していないことであった。
(この時期にこの様な状態で、本当に大会ができるのだろうか…)
Tがそう考えたのも無理はなかった。この時期、昭和61年2月に作成された大会当日のタイムテーブルをみてみると、既に50以上の企画が上がっていたものの、どのようなゲストを招待するのか、どのような内容でどのような演出をおこなうのかは、ほとんど白紙の状態であった。そしてなんと驚くことに当時の大ホール企画といえば、オープニング、エンディング、コスチュームショウを除けばパネルディスカッションと授賞式しかなかったのである。これが数々の紆余曲折を経て、当日の如き映像企画の目白押しとなったのであるが、その経緯についてはTも多くを認ろうとはしない。まあとても一口では語り尽くせぬ苦難の日々が続いたであろうことは想像に難くない…。