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  その他の記録
1985年11月
 サンリオから刊行されていた『最新版SFガイドマップ』に掲載された解説。

SF入門の意味

 本書は、1984年にイギリスで出版されたばかりの、『SFソースブック』 を訳出したものである。基本的には入門書だが、長年SFに親しんだ人にも、十分楽しめる内容になっている。たとえば、古典的な類書にはない、最新の作品が多く取り上げられており、現代のSF情況を知るのに都合が良いこと。また、作家名鑑編では、800人あまりの作家がコンパクトにまとめられ、資料的な使いかたが出来ること。しかも、日本版ではさらに、我国の情況に合わせて、詳細な注釈が付け加えられている。ただし、文庫本という制約上、翻訳では二巻に分けざるを得なかった。本書は、その上巻にあたり、主に作家のエッセイとSFの各テーマ、歴史などが収録されている。出版情況や、雑誌、評論書のリストまで収められ、資料的価値も高い。

 下巻では、作家名鑑が収録されている。我国では、単行本としてSF作家名鑑が出された事がないから、それだけでも大きな意義があるだろう。同じイギリスの 『SFエンサイクロペディア』 は、名称通りの“百科事典”で、内容豊富ではあっても、手軽に持ち運ぶ目的では使えない。本書はポケッタブルの資料、読み物として利用できる。日本版では、二巻どちらも、単独で読めるよう、まとめなおされている。

 さて、以上は公式発表。嘘はないのだけれど、まだまだウラの楽しみかたが出来るのが、本書のミソ。さすがにイギリスだけに、まず、序文のオールディスと、後書きのエイミスとで、明らかに結論が異なる。そのうえ、我国の一般的評価と(おそらく)食い違う作品評など、読者に挑戦する事柄も多い。編註などで補ってはいるが、読み手の立場を問い直す意味で、批判的に読んでも面白いのではないだろうか。

 ところで、“入門”とは、どういう事なのだろう。我国のSF入門の歴史を振り返って見ると、まず福島正実編 『SF入門』(1965) が思い出される。評論書として読め、あまり古びてもいないが、当時SFという言葉自体が知られておらず、蔑視されることも多かったから、内容はSFの可能性に対する礼賛に偏っている。しかし、時代的には、それで良かった訳である。知らせることが、第一義にあった。“入門”の意味は明瞭だった。障害が見えていなかったが故に、見通しは拓けていたのである。やがて、SFが知られるようになってくると、その意味は大きく変貌を遂げることになる。

 福島版SF入門の構成を、簡単に書き出してみよう。

 (1)SFの定義/(2)SFの歴史/(3)SF論/(4)SFの分類/(5)SFのハウトゥ/(6)SF用語辞典/(付録)読書ガイド

 このSF入門の要素を、たとえば、次のように項目分けしたとき、その性質はどのように変わっていったか。

  1. 紹介(カタログ)
     入手不可能(未翻訳)の傑作を、面白おかしくあらすじ紹介する――から、入手可能の多数のうち、どれを捨てどれを選ぶべきかをアドバイスするへ。夢物語の絵本から、現実的カタログへの変化。

  2. 定義(学問的定義)
     まず言葉の表面的意味 (エスエフとは、空想科学小説で云々)、 どういう内容なのかを、知識皆無の一般人に伝える――から、文学上のジャンル、記号論、社会科学など、その学問的意味の追及へ。対象も、ファンではなく専門家、学者、すなわち、アカデミズムへの変化。

  3. 分類(テーマ、ガジェット)
     超能力テーマ、異次元テーマなど、作品の舞台、ガジェット(小道具)がつぎつぎにあらわれ、その新奇性が物語の価値を決めていた時代から、いかに既存のものを組み合わせるかへの、重点の変化。現在では、文体の新奇性など、一般の小説と同様の価値感へと、変わりつつある。

  4. ハウトゥ(創作法、翻訳法)
     過去において、SFが金儲けになるとは、誰も考えはしなかった。しかし、たとえば、アメリカでは、短編小説の市場はSFにしかない。日本で翻訳をしようとすると、SFかミステリの需要が一番高い。情熱だけで成り立っていた時代から、技巧だけで生活できる時代への変化。

 全く同じ項目を上げても、意味にはこれだけの相異が生じている。草創期の昂揚から、安定期の倦怠に、全体が移行していく様子を、窺うことができる。これは、送り手だけではなく、受け手の側にもいえる。既にSFは日常化しつつある。若い世代では、説明抜きで、SF作品を形容詞として使うことが、違和感なく行われている。この現象は、一種のファッションなのかも知れない。けれど、やがて、当たり前の事になるだろう。

 反面、SFをトータルに捕らえることは、ますます難しくなってきている。 近年、(文学・科学のみではなく) マルチメディアに拡散するSFを、文学の領域からだけで、カバーすることは不可能である。これだけ多数の評論が出ても、既存の方法論によって、SFが語り尽くせない理由はそこにある。そういう難しさが、かえってアカデミズムの興味を引く面もある。ただ、読み手である我々からすれば、韜晦な専門用語で語られるSFは、そもそもの原始的な奔放さからは、ほど遠いものとしか映らない。そこに、ジレンマがある。

 ところが、逆にSFを道具にすると、“現代”が語れてしまうことがある。
 坂村健『電脳都市』(1985・冬樹社)という本がある。この本は、一見“コンピュータSFに関するエッセイ”の体裁を取っているが、実際の主体はむしろ“SFを媒介にしたコンピュータ”にある。 (同時に刊行された同著者の専門書『電脳建築学』(共立出版)を参照)。 すなわち、SFはここで一つの道具として扱われているのだ。絵空事とそしられていたことを思えば、大変な矛盾ではあるけれど、現実を補強する道具が、SFなのである。曖昧に広がっているようでいて、ある一面では、現代の事象と見事にフェーズが一致する。それが、日常化したSFの特徴といえる。

 ここに、読み手の立場から見た、SFの二つの方向が提示できる。

 一つは、厳密な実証に基づくアカデミズムによる、分析対象としてのSF。二番目が、先に述べた、道具としてのSFである。前者は、さらに専門化、細分化されていくことだろう。ただ、これは本書の目的とする“SF入門”とは、既にレベルの違った問題である。あえて結論付けるなら、現代のSF入門に、“定義”は含まれないということか。一方、後者には入門の余地が残されている。道具であるからには、種類と用途、入手方法を知る必要がある。SFを知らないものは少ない。しかし、正しい(!)使用法を知るものは、さらに少ない。もちろん、正しさは一通りのものではなく、さまざまに解釈できるものである。その“さまざま”の提示手段が入門になる。 (これらとは別に、ハウトゥとしてのSFがある。しかし、純粋のテクニックが主流を占めている点など、一般のハウトゥ物と、ほとんど変わりがない。ここでは、別物と考える)。

 入門の変質については、先でも述べた。ただ、必ずしも、変貌の総てが悪いわけではないのだ。どんなSF入門でも、まず作品を対象に、種類を数え上げていくだろう。絶対量が膨大で、複数のガジェットがひしめく最新SFに、どんな分類が通用するのか。いまだに、時代別でも、作者別でもなく、テーマ別分類という遺物が (非難を浴びながらも) 生き残っているのは、小道具と舞台装置が、道具としてのSFに、大きな位置を占めているからである。しかし、そこで述べられる作品は、互いに重複し合っている。独立してはいない。結果的に、過去と違った、多様性が浮き彫りにされる。

 情報量の多さが、歓迎されたことがあった。けれど、今、そのポジティブな面を強調する者はいない。自由に検索可能な形で、何もかもが見えている訳ではないからだ。調べる方法はあるのに、どう調べてよいのかが、知られていない状態にある。それなら、実状はゼロとそう変わらない。SFに限らず、欲しいものを手に入れる手段が、混沌としている。これからの入門の目指す方向に、具体的な検索法の紹介が、新たな道具の一種として、必要とされるだろう。

 結論。

 現代のSF入門は、<分類>編と<紹介>編からなる。<分類>編では、SFの道具性を重んじた、ガジェットによる分類で全貌が解説される。その時々の社会の要求により、分類は自在に変わっていく。<紹介>編では、リファレンス(参照)の仕方を中心に、求める作品の入手法がまとめられる。これもまた、時代に応じて、アップデートされるべきだろう。

 以上は、極めて単純な、一つの例である。 文字を書く、本を読む――過去から、ほとんど変化することなく続いてきた、この行為自体、ドラスティックに変質しつつある。ワープロの普及は、文筆活動を明らかに変えてしまった。タイプライターが当り前の、欧米でさえそうなのである。やがて、“本”という媒体が、なくなるのかも知れない。出版社も、現状の形ではなくなるだろう。けれど、そんな情況でも、最小限のデータで、最大限の内容(単純な情報量ではない)を伝えようとするなら、文字を越える情報伝達手段はない。だとするなら、文字をパラメータとする小説、現代の位相にもっとも近いSFは、ますます日常化しつつ、生き残っていく。そして、複雑化、高踏化していくSFに、常に活力を注ぎ込むためにも、“道具”の解説であるSF入門の意味が、絶えることはないのである。

 以下では、我国で刊行された評論、入門書を著者別(五〇音順)に掲載した。なるべく、代表的な単行本を上げるよう務めた。ただし、ここにあげたものは、刊行された総てではなく、中には入手困難な物も含まれる。

  • 荒俣宏
     別世界通信(1977)月刊ペン社 *筑摩文庫で再刊
     世界幻想作家事典(1979)国書刊行会
    『別世界――』は、代表的な幻想文学の作品を対象に、その世界を論じたもの。作品紹介も含むが、大半は翻訳が出ている。世界幻想作家事典 は、一部SF作家を含む作家名鑑。

  • 石川喬司
     SFファンタジア全七巻(1977〜79)学習研究社 共著
     SFの時代(1977)奇想天外社 *双葉社文庫で再刊
     IFの世界(1978/83)講談社文庫
     夢探偵 SF&ミステリー百科(1977/81)講談社文庫
    『SFファンタジア』は、テーマ別メディア別にまとめられた、ヴィジュアルなSFムック。やや統一に欠けるが内容豊富。『SFの時代』は、黎明期からの著者の評論をまとめたもので、貴重な時代証言を含んでいる。あとの作品は、初心者向けのエッセイ集。

  • 石原藤夫
     S-Fマガジン・インデックス 全三巻 (1967/85)
     S-F図書解説総目録 (1969/82)
    いずれも、SF資料研究会刊行。資料集としては、データ的にもっとも完備している。解説総目録の新版(82年版)では、索引編が未刊。

  • 伊藤典夫(編)
     世界のSF文学・総解説 (1978/84)自由国民社
    あらすじ中心の内容で、紹介点数が多く幅広い。その性格上 (文学のカタログ的内容を目指したもの) 主張は直接現れないが、SFの地平を見渡す道具として有効。

  • 大宮信光
     SFの冒険 (1984)新時代社
    雑学的ともいえる広汎な領域から、SFの様々な一面を探り出す試み。基本的には、テーマ別分類によるSF入門書。

  • 笠井潔
     機械じかけの夢・私的SF作家論 (1982)講談社
    “SFの副業的読者”と称する著者が、主に社会科学的立場からSF作家を論じたもの。啓蒙を脱した、我国では初の本格評論書。

  • 川又千秋
     夢の言葉・言葉の夢 (1981/83)ハヤカワ文庫JA
    原型は73、74年に雑誌連載されたもの。その時代背景を反映させた独自の視点から、SFが論じられている。基本的には、SF周辺を含む作家論。

  • 小松左京
     小松左京のSFセミナー (1982)集英社文庫
    初心者のためのSF入門。比較的最近の日本SF界が、コンパクトに取り上げられている。SF論の一部も含まれる。

  • 筒井康隆
     SF教室 (1971)ポプラ社
    年少者に対する入門書は、ほとんどない状態だが、本書は貴重な一例。ただし、現在では入手困難である。

  • 中島梓
     道化師と神・SF論序説 (1983)早川書房
    『文学の輪郭』(1979)でデビューした著者の、単行本化された初の本格SF論。日本SFの現状に始まり、SFの可能性までが広範囲に取り上げられている。

  • 野田昌宏
     SF英雄群像 (1969/84)ハヤカワ文庫JA
    スペースオペラの作家、作品はアメリカでもあまり顧みられることがない。本書は、そういった作家に焦点を当てた好著。著者には、他に類書が多いが、文庫化された本書を代表例として上げた。

  • 福島正実
     SF入門 (1965)早川書房
     SFの世界 (1971/76)三省堂
     未踏の時代 (1977)早川書房
    前二者は、SF入門書の古典。SF界のパイオニアである著者が、啓蒙的意味を込めてまとめたもの。歴史的価値は高いが、残念ながら絶版。後者は、黎明期の日本SFの情況を記した回想録。著者は、この他にも多くの入門書を書いた。

  • 横田順彌
     SF事典 (1977)広済堂出版
     日本SFこてん古典全三巻 (1980〜81/85)集英社文庫
    後者は、江戸、明治期など、これまで体系的な調査が及んでいない領域を、広範囲に渉猟した労作。他に例のない研究資料となっている。 SF事典は、新書という制約下で最大限内容を精選しており、有用である。

 個人作家論としては、北宋社から刊行されている、研究読本シリーズがある。そのうち、SF関係は次の通り。

  •  あぶくの城 フィリップ・K・ディックの研究読本 (1983)
  •  吾が魂のイロニー カート・ヴォネガットJRの研究読本 (1984)
  •  モダンホラーとUSA スティーヴン・キングの研究読本 (1985)

     これらは、主に、標題となった作家に関する(複数の書き手による)エッセイ集であり、内容的に“評論”とは言いがたい。

 また、資料集としては、各年に出たSF(活字から、映像まで)を網羅した、

  • 日本SF年鑑(1981)海外SF研究会/(1982〜85)新時代社

がある。

 その他、 別冊奇想天外4『SF評論大全集』(1978)奇想天外社 は、本文中でも一部触れたが、海外の未訳評論が一部紹介されている。また 同12『SFゴタゴタ資料大全集』(一九八〇)奇想天外社 には、各種の叢書やシリーズ等のリストが掲載されている。

本文中で未紹介だった海外評論
 日本で独自に編まれたものや、フランス関係の評論をまとめた。

  • カイヨワ、ロジェ
     妖精物語からSFへ Images,Images(1966) 三好郁朗訳(サンリオSF文庫)

  • ガッテニョ、ジャン
     SF小説 La Science-Fiction(1971) 小林茂訳(白水社クセジュ文庫)

  • サドゥール、ジャック
     現代SFの歴史 Histoire De La Science-Fiction Moderne(1973) 鹿島茂・鈴木秀治訳(早川書房)

  • メリル、ジュディス
     SFに何ができるか What Do You Mean, Science? Fiction?(1972) 浅倉久志訳(晶文社) 日本版オリジナル

 英米とは別に、フランスには独自のSF観がある。そういう世界を、垣間見せてくれるのが、前三冊の評論集。サドゥールのものは、(英米の)雑誌からSFの歴史をたどるという、ユニークな試みである。『SFに何ができるか』は、『年刊SF傑作選』(創元推理文庫)の編者であるメリルの、評論を日本で独自に編纂したもの。我国の評論書では、もっとも初期に出ており、影響も大きかった。

 なお、海外の未訳の評論については、本書の場合、出版社までは原典でも明記されていないが、パリンダー『SF・稼動する白昼夢』 (勁草書房) の参考書目に詳しい。注文等を計画される方は、そちらも参考にされたい。

(注:この解説では掲載書の本文で説明のある、英米の既訳評論書については触れられていない)

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