1988年2月
大森望の結婚式記念ファンジンに寄せた文書(注:本文中で言及される「未来」というのは、大森望の本名)。未来世界から来た男
最初に、おめでとう、といっておかねばならない。
恐ろしい予感がするからである。
私が・の存在と出会ってから、もう十年以上の歳月が流れている。当時・は、男なのか女なのか、正体の知れない汚い字を書く高知人だった。おそらく、オービットを申し込む、手紙の類いだったのだろうと思う。まだ、・の本質は窺い知れなかった。後になって、高知は・の一族と、・の高校生ファンジンによって、制覇されていたことが分かるのだが。
やがて、・は京都のとある大学に入り、KSFAに顔を見せるようになる。さて、問題はここから始まる。・は、壊滅状態にあったSF研を再興し、中間子を復刊する。これは、幻魔の陰謀である。集った者たちの姿形振舞いを見れば、明らかなのだ。また、・は、コンベンションは星群祭のみという、清浄で無垢な地に、京都SFフェスティバルなるものを興す。これは、幻魔の深謀遠慮である。この時、日本のファンジン関係者は、総て・の手中にあった。・の知らぬファンジンはモグリであったし、・の知らぬ、いや、・の関係しないゴシップは、そもそもなかったといわれる。これは、幻魔の恐ろしさの一端である。・は、大学を留年もせずに出てしまう。・を失った眷属たちは中退、放校の後、滅びていった。これは、幻魔に魅入られたものたちの哀れさである。
しかし、その後も・の活動範囲は拡大するばかりであった。・は、東京のとある出版社に入り、文庫を担当する。すると、これまで清純無垢だった文庫は一変、魑魅魍魎ルディー・ラッカーその他が涌き出る恐怖。出版界のスキャンダルには、いずれにも・の影が見え隠れする。これを幻魔と言わずして、何を幻魔というのか。幻魔の脅威をいちはやく告発した某水鏡子は、SF界から消されつつある。しかし、けれども、まだ・の暗躍は続く。昨年は、遠くイングランドの片田舎にも出現し、素朴で無垢な一部英国民を驚愕させ、世界の幻魔たろうと画策中である。
その・が結婚するのだという。私は、真の恐怖を覚えずにはいられない。この事件の裏には、何事が隠されているのだろうか。
最近、私は・が、一部の閉鎖社会だけではなく、あらゆるところに潜んでいるように思えてならない。たとえば、京都国体のマスコットは“未来君”と呼ばれている。総てが幻魔の陰謀なのである。この現象を“トレーン、ウクバール、アボース・ミクルス”と呼ぼう。
世紀末は、もう、間近い。
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1988年9月
ファンジン(当時)「TALKINGHEADS」に寄せた原稿。ファンジン編集者からの一言というようなページだった。
ファンジン編集者とは
「自分で団体を主宰するよりも、雇われ編集人のような形で職人的喜びに浸り……」
というのが、ファンジン・メイカーの定義であるなら、なるほど自分はその類いではないかと思う。遍歴は(ネオ)NULLに始まる。引き続いての、神戸大学SF研刊行物各種
(ただし、その一部) 、KSFAのノヴァ・エクスプレス(二代目編集人)、日本SF年鑑(初代)、ノヴァQ(継続中)、DAICON5プログレスと、一貫性のないこれら総ては、ほとんど“巻き込まれ型”編集人の罪と栄光である。それも“請われて”ではなく、“なりゆき”だった。この間に、十五年が経った。
時の流れとともに、ファンジンの形態も大きく変わっている。
旧来の総合(創作、翻訳、評論の混在)から、細分化(創作専門誌NULL、翻訳専門誌の海外SF全集)、
やがて、紹介・レビュー専門誌(ノヴァE、Qなど)という新しい(今では珍しくもなんともない)スタイルの誕生まで。印刷は、活版から写植、ガリ版(ロウ原紙をヤスリに乗せ、鉄筆で切って、謄写版で一枚ずつ刷るのです)
からオフセット、手書きからワープロ、印刷機からコピーマシンへと変遷した。活版は、最低部数が一千部だった。ガリ版は、百部刷ると原紙が破れてしまった。種々雑多である。それぞれ一度は、何らかの形で手がけたことになる。進化とはいえないが、最近になるほど、手間と経費は削減される傾向になっている。たぶん、次にやるときは、キーボードをたたくだけの、DTPを使っているだろう。
“巻き込まれ型”と書いた。自らファンクラブを作り、ファンジンを創刊したことがない、ということである。従って、純個人的に、自費出版はしたことがない。他人のお金か、団体のお金で出してきた。よーするに、ええかげんなのである。場合によっては、周囲のXXを買いながら、予算より中身と体裁を重視した。できる限り起伏に富んだもの、しかし、内容は専門的範囲に絞られた方がいい。SF年鑑のようなものが最高。資料があり、書評があり、解説記事があり、でたらめなそれらすべてが、けれど全体として一つの内容を主張する。要は、アンソロジィである。ただ、優秀な原稿がそろったからといって、書き手に偏りがあっては面白い本にならない。対立する見解、予想外の切り口、関連記事が必要だ。
当然のことながら、レイアウトや掲載順序によっても、印象は大きく異なる。きれいすぎても、汚なすぎてもいけない。どちらも、読む気をなくす。ファンジンの場合、中身さえよければ、見てくれは問わないという立場があった。これは、少なくとも自分の好みではない。売るつもりがあるなら、外見の印象も重要だろう。常にファンジンは、見た目と中身との、相乗効果であると考えている。ファンジンを出す目的は、主催団体の性格によって、そもそも大きく異なっている。だが、その結果出版される印刷物は、読み手にとって、一冊の冊子にすぎない。その冊子から、総てが読み取れなければ意味がない。――あえて、理想を述べれば、であるが。
とはいえ、ワープロコピー誌の時代になってから、何百部も印刷して売り歩く必要がなくなった。作る感覚は、昔のガリ版時代と同じである。お金がかからないから、限られたユーザー相手で十分、一般読者は意識しない。ただ、そんな時代でも、制作者のレイアウトセンスや編集方針という美学は残る。プロジンを、使いふるしのコピーマシンで複写したような印刷と、読者一桁が予測されるマイナーなコラムが、最新プライベート・ファンジンの究極の姿だろう。
ノヴァQは、もう四年間空白が続いている。間のサイバーパンク騒動で、情勢は大きく変わった。そうでなくても、どさくさに紛れて、THATTAという、時代の申し子的ワープロ・コピー・プライベート雑誌が出ている。ガリ版時代の伝統を受け継いだ
(註・文庫編集長はガリ切りの達人だった)、THATTA文庫
などという、無気味なワープロジンもある。業界ファンジン「新少年」というのもあった。同じ形式では出しにくい。存在意義などと、エラそうなことはどうでもいいが、出すからには恰好をつけておきたい。ワープロ雑誌の世の中なりに、似合いのスタイルはあるだろう。
不幸なことに――あるいは幸運なことに――自分で編集したファンジンに満足できたことがない。印刷された最初の一冊を見て、こんなはずではなかったのだが、と途方に暮れる。先に書いた条件が、そもそも満たされないからだ。ええかげんな話である。
満足したとき、それがたぶん、最後の編集になるのだろうけれど。
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1992年8月
巽孝之氏のファンジン「科学魔界」に寄せた原稿。
昭和関西ファンダム衰亡史
(70年代〜80年代)
関西ファンダムは、人々の誕生と滅びの歴史から造られている。対立と抗争、隆盛と衰退がないまぜとなって、30年におよぶ時代を形成している。このすべての時を語れるものは、もはやだれもいない。おそらく第二世代の桐山長老や青木社長、川合ソラリス・マスターあたりが、残された最期の証言者なのだろう。けれど、かれらが絶える日も、そう遠くはない。
いま、ここで述べるのは、1973年以降の興亡である。それ以前、黎明期を概観すると以下のようになる。
1960(昭和35年)
「NULL」創刊(筒井兄弟)
1961(昭和36年)
「パラノイア」創刊(田路昭)
1962(昭和37年)関西SFファンのつどい開催(以降三回つづく)
1964(昭和39年)第三回日本SF大会開催(DAICONT)/関西大学SF同好会発足(68年まで)
1965(昭和40年)「タイムパトロール」創刊
1966(昭和41年)京都大学SF同好会「中間子」創刊/超人類(後の星群)発足(高橋正則)
1969(昭和44年)大阪大学SF研究会発足(山本義弘)
1970(昭和45年)SFフェステイバル開催(青木治道)/京都大学SF研究会発足(安田均)/同志社大学SF研究会発足(桐山芳男)
1971(昭和46年)第十回日本SF大会開催(DAICONU)/関西大学SF研究会発足
1972(昭和47年)神戸大学SF研究会発足(米村秀雄)/創作研究会(後の北西航路)発足(藤木真琴)
[註]同じ大学で同好会、研究会があるのは、大学SF研内の消長を意味する。たとえば、京大などは、同じ「中間子」であっても、時期によってまったく別ものとなる。
60年代前半は、NULLとともに時代が動いた。ここから、巨匠作家が多数輩出した。やがて、彼らがファン活動から去っていくと、しばらくの空白が広がった。ここに、はじめて、純粋ファンダムの素地がつくられたのである。
パンパカの誕生
70年代、最初に覇権を握ったのは、パンパカ教団とよばれる宗教団体であった。大阪大をはじめ、関西大、同志社、京都大など、あいついで結成されたSF研は、教団員による宗教政権である。ファンダムから産まれ、ファンダムにのみ奉仕するという階級社会が誕生した。この世代からは、喫茶ソラリス(78)と青心社(79)、ずっとあとになって、ゲームのSNEなどが派生した。
大会は、各時代の覇者が催す権力誇示である。DAICONUは、超人類やパンパカ教団など、関西ファンダムの結集で行なわれた。政治論争がもちこまれた、唯一の大会でもあった。だが、大会は失敗に終った。何をもって、大会の成功/失敗とみなすかは、議論のわかれるところである。とはいえ、厳しい責任追及の嵐がおこったことが、当時の記録からうかがい知れる。
パンパカの全盛は、74年のMIYACON(京都)に極まる。これは、初期ファンダム型大会の、最後のものとされている。
創作系ファングループの台頭
ネオ・ヌルが成立したのは、1973年のことである。ネオ・ヌルは、もともと75年のSHINCON(神戸)のための組織だった。スポンサー筒井康隆+パンパカ系実行グループという構成である。一部無名の地元ファンが加わったが、彼らは後のDAICON5になって、ふたたび大会に復帰することになる。SHINCONは、当時最大規模の大会だった。この反動で、関西では、6年間大会空白時代がつづく。また、会誌「NULL」からは、かんべむさし、夢枕獏らが育ち、全国規模の創作同人誌に発展した。大会後も2年にわたって継続し、一時代を形成した。唯一、編集長に難点があったと伝えられる。
これとは別に、筒井倶楽部、ひきつづき日本筒井党が、全国規模の作家ファングループとして現われている。
一方、星群は京都に本拠を築いた。74年以降、15回におよぶ星群祭を開催するなど、隆盛をきわめた。石飛卓美から井上祐美子まで、多くの作家も産んだ。しかし、80年代末期に都落ちし大阪に下った。万物流転、諸行無常、色即是空。一説によると、風水学上の問題があったとされる。
もっとも特異な集団としては、創作研究会がある。ラジオの深夜放送(DJ眉村卓)チャチャ・ヤング(70〜72)から産まれたもので、密度の高い創作誌を出していた。代表は南山鳥27。ファングループというより、文芸同人誌に近いが、もともとSFの影響下にあった。後に、西秋生らの風の翼が分裂、80年代末期から活動は停滞状況に陥る。この会のメンバーではないが、チャチャ・ヤングからは、谷甲州らが出ている。
ゼネプロの帝国
さて、80年代の覇者、ゼネプロの萌芽は、78年のASHINOCON(芦ノ湖)にあらわれていた。武田&岡田コンビは、当時から、大阪芸人として名を売っていた。まず彼らは、SFショー(79)で、ゆるやかな同盟組織である関西大学SF連合(関S連)と激しく抗争し、主導権を確保する。つぎに、DAICONV(81)を、パンパカの残党らをまきこんで開催する。だが、これは失敗に終った。何をもって、大会の成功/失敗とみなすかは、議論のわかれるところである。とはいえ、厳しい借金地獄に陥ったことが、当時の記録からうかがい知れる。ゼネプロはこの大会以後、パンパカ教団の残滓をも切り捨て、ついに関西SFの覇権を握るのである。
ゼネプロの絶頂期は、DAICONW(83)である。これは、前コミケ時代最後の巨大大会とよばれる。ゼネプロはすでにプロ化していた。V以来のオープニング・アニメは、後に東下りをした、アニメのゼネプロ(注:ガイナックス)に直結する。
最期の都市型大会
しかし、光あるところに影がある。ファングループ連合会議議長までを手中に収めたゼネプロに対し、反乱勢力(星群のはぐれものや、神戸の芸人など、流しのSFファンを中心とした集団)が勃興した。既存のグループやベテランが集うという、通常のパターンはとられず、大半が寄合い所帯の素人団体だった。彼らが主催したSFフェスティバルUNICON(85)は、大方の予想どおり失敗。100名の合宿所に、200名をつめこんだためといわれる。しかし、翌年のDAICON5(86)は分科会形式の大会としては、最大規模の成功を収めた。これは、昭和最後の都市型大会である。彼らの残党は、そののち何回か大会復活を試みたが、結局成功はしなかった。70年代末期から続いた、大会を中心とする関西の熱気は、以降鎮静期を迎える。
覇者たちの盛衰
30年におよぶ関西の歴史で、覇者たちは多くがプロとなって、ファンの世界から去っていった。そうでなくても、若人がつねに集い、新しい血を供給しつづけるファングループは少ない。おおよそ10年までで寿命がつき、それを越えると急速な老化がはじまる。老いたまま、絶えるまでつづいていく。その典型が、関西海外SF研究会(KSFA)である。74年発足、変らぬ過去をよく保存している。心のふるさと、生きている化石たち、また第2ファウンデーションとよばれる。ついに若返ることなく、くち果て滅びさるまで生きのびていくだろう。(編註・詳細は、ノヴァ・クォータリィ60号をお買いもとめください)
関西ファンダムでは、大会はつねに斬新さをともなっていた。ファングループからは、つねにプロや個性的タレントがあらわれた。そして、他にみられない対立抗争をくりかえした。その衰亡の歴史には、SFの歴史が重なりあう。関西こそがSFの源泉であった。やがて、最期のSFファンが葬られるのも、この地であることだろう。
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