94/06/04
トニー・ダニエル『戦士の誇り』(早川書房)は、アイデア倒れという点で、『レッドシフト・ランデヴー』並みである。宇宙を渡るカヌーとインデアンのイメージを越えない。ということで読書人レビューの対象から外さざるをえない。
ところで、大森先生(翻訳講座)の指摘による、新聞記者=レポーターとか、ビニール袋=プラスチックの袋とかの、無神経な訳がさっそく出てきて、こまったもんだ。だからといって、もちろん一冊全部の訳が悪いというわけでもないけどね。
94/6/5
大森先生やらがやっている、ファンタジイ大賞の下読み料の高さに驚愕する。ホワイトハートはいくらですか。他人の文章を読むことで、自分の言語感覚をほぼ完全に犠牲にするとはいえ、これだけで喰えるのならやりたいものだ(誰だってそうかも)。
94/06/11
NIFTYの一部で盛んなファンタジイ論争を覗いて思うこと。今日氾濫するお手軽ファンタジイ・ノベルに対立させて、指輪物語が正統派ファンタジイの基準(世界観から、バックグラウンドの正確な裏付けまで含めて)だという主張がある。なぜ、この水準の作品が生まれないのか、粗製濫造なのか。需要と、製造コストという出版業界的視点で答えるのが現実的なのだろう。それが悪いと言うんじゃない。
しかし、ファンタジイ大賞でいう(選考委員の)ファイタジイは指輪物語ですらない。たとえば、各委員絶賛の『イラハイ』なんて、今日のファンタジイという表現から見た場合、もっとも遠い作品になる。
実は先月、菅浩江『氷結の魂』(徳間書店)をレビュー用に読んだ。残念ながら筆者の感性では論評できなかった。宮崎アニメの『太陽の王子ホルス』を思わせる佳品なのだが、この主人公の性格と行動に、どうしてあれだけの人望が集まるのかがどうしても納得できなくて、違和感が残ってしまう。これをどう見るか。NIFTYでの評判を見る限りでは、評者の感受性不足なのだろうが。
今日、新梅田シティの空中庭園(屋上開放型の展望台)に登る。一人壱千円は高い(てのは、いつものいいぐさ)。
94/6/12
キングの『ニードフル・シングス』(文藝春秋)は、スラプスティック+スプラッターで、クライヴ・バーカー風ではある。
これが、阿鼻叫喚のスプラッターでなく、パイ投げだったなら完全にコメディだったろう。でもキングのユーモア感覚は、たぶん読むに耐えまい。
94/6/19
スミス『ショイヨルという名の星』(早川書房)は、記憶の追体験、記憶の決定版といった印象を残す。どれも、かつて読んだか、聞いたか、話したかで新しいものはない。スミスのこれらの作品には、我々の時代体験が(個人的に)強く結び付いていて、あまり客観的な読み方はできないのである。たとえば、冷房のない教養部の教室だとか、謄写版だとか、鉄筆だとか、ボールペン原紙だとか、わけのわからん連想が沸いてくるのですが、あなたはそんなことないでしょう(あたりまえか)。
94/06/25
カード『地球の記憶』(早川書房)は、これまでのカードに比べて格段に退屈である。お話がかなり人工的なのである。モルモン教小説だからでもあるまいが。評価は完結を待ってから。