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ニュー・ウェーヴ(NW)SFがリバイバルしている。国書刊行会の未来の文学などは、まさに幻のNWそのものだ。しかし、NWと等価な作家といえば、バラード以外に考えられない。実は、我々が思っているNW的イメージの多くは、バラードが描き出した世界に由来している。 主人公は1人の環境運動家に惹かれるようになる。中年の女性医師だった運動家は、フランスが核実験を再開しようとしている南太平洋の無人島で、アホウドリの保護を訴えていた。警備兵とのトラブルから一躍ヒーローとなった主人公は、さまざまな出自の賛同者とともに無人島に篭城をはじめる。 エキセントリックな女性医師、ハワイの独立を夢見る男、社会貢献で名を残したい引退した資産家、意志薄弱で状況に流されていく主人公と、まさにバラード的な登場人物のオールスターキャスト。舞台は放棄された(60年代の)核実験の島で、崩れかけた掩蔽壕や錆び付いた監視塔と、サンゴ礁を有する野鳥の楽園とが強烈なコントラストを見せる。運動はやがて方向性を見失い、終末的な虚無に飲まれていく。これまたバラード的な原風景だ。 ただ、バラードは懐旧のみの作家ではない。本書に描き出された“核”や“環境”へのシニカルな視点は、今日/今現在でも有効である。それこそが預言者と呼ばれ、今なお一般読者から支持が得られる理由なのである。
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田中哲弥の最新短編集。学園ものというテーマで統一された、5つの短編が収められている(3編は電撃hp、1編はSFマガジン掲載)。といっても、メヒラス(メフィラス)、ペガツサ(ペガッサ)、キユラソ(キュラソ)、イカルス、メトロンと続く学園の名前がウルトラマンやウルトラセブンに登場するxx星人から取られている以外に共通点はなく、オムニバス形式でもない。こういう不統一さが作者最大の特徴なのだろう。 ミッションスクール(2001):学生たちがみな秘密の使命(ミッション)を帯びている学園の闘争 ポルターガイスト(2001):恥ずかしい思いが物理的なパワーになって表出したら ステイショナリー・クエスト(2004):文房具をもらいに総務に向かった生徒たちが遭遇する大異変 フォクシーガール(2006):あらゆる悪の集団をすべてひきつける少女の秘密 スクーリング・インフェルノ(2006)*:学校が沈む! ひたすら逃げ場を探す主人公たちの運命 *書き下ろし スラップスティックというにも、ずいぶんシュールで自由連想的な展開だ。「ステイショナリー・クエスト」の迷宮世界や、「スクーリング・インフェルノ」などでは、全く予測不可能な世界が描かれている。少女や学園を書きながら、萌えでもロリでもない(ひょっとするとギャグでさえない)ユニークな作品であり、カテゴリ化を拒否している。やっぱりそうなると、SFしかないということか。
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NASAの現役科学者である著者による最新火星SF。近年、火星を描く小説はフィクションというより、ノンフィクションになりつつある。それだけ、ブラッドベリ『火星年代記』(ファンタジイ色が強い)からは遠くなっているのだが、本書の冒頭は、“火星探検”時代を思わせる滑り出しになっている。 人類初の火星着陸はブラジルの宇宙船だった。しかし、2人の乗組員は帰還できなかった。2回目はアメリカのチームだったが、無菌状態に紛れ込んだ雑菌の蔓延ですべての乗員を失う。3回目には、もはやアメリカ政府の支援はなく、民間公募と外国の資金を集めての混成チームが結成される。2人のアメリカ人、カナダ、ブラジル、タイ人そして抽選で選ばれた民間人。だが、彼らの前にも重大な事故が待ち受けていた。 ということで、本書の表題に至る。事故で帰りの手段を失った彼らは、未使用のブラジル船を目指して、南半球から北極へと火星縦断を果たす。そこには、途中横たわる巨大なマリネリス峡谷など、さまざまな困難が待ち受けている。 さて、本書のポイントはハードな科学的設定というより、人物描写にあるだろう。過去の経歴を隠すアメリカ人船長、ブラジルの女性飛行士も暗い幼年時代を持ち、民間人も実は…、という問題だらけの乗組員。これら乗員の秘密と、現在とがカットバックの手法で交互に挿入される構成となっている。それぞれの人物の性格付けは詳細。とはいえ、実のところ、彼らの悲惨/後ろめたい半生と、火星でのサバイバルとの有機的なつながりがあまり感じられないのである。大冒険の結果であるこの結末も、ちょっと消化不良では。
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若島正による、日本オリジナルのアンソロジーである。テーマは「ニュー・ウェーヴ」(NW)。これは実際、国書刊行会の未来の文学叢書全般を総括するテーマかもしれない(例外はあるが)。NWに対しては、さまざまな解釈が出てくる。当時(1960〜70年代)を生きたSFファンからすれば、SF観そのものであったりする。本書の場合、その原点に遡った“ルーツ編”といえるだろう。 ベータ2のバラッド(サミュエル・R・ディレイニー)1965:数世紀を経て目的地に到達した船団から失われた植民宇宙船ベータ2の秘密とは 四色問題(バリントン・J・ベイリー)1971:四色問題が解き明かす、社会のあらゆる規範に連なる真相 降誕祭前夜(キース・ロバーツ)1972:ナチス支配下のイギリスで迎えるクリスマスの夜 プリティ・マギー・マネーアイズ(ハーラン・エリスン)1967:スロットマシンにとり憑いたマギーの意識 ハートフォード手稿(リチャード・カウパー)1976:1冊の古書に封じ込められた時間旅行者の手記 時の探検者たち(H・G・ウェルズ)1888:田舎町の廃屋に、異様な風体の男が移り住んでから生じる異変 ウェルズ、エリスン以外は本邦初訳 ディレイニーの作品は、エースダブル(表紙からでも裏表紙からでも読める、チープなペーパーバック)から出た初期作品、ベイリーはウィリアム・バロウズそのもの(奇想SF作家のベイリーはバロウズ信奉者だった)、ロバーツはイギリス風の重厚な改変歴史もの、「プリティ…」は一部実験的手法が見られるものの、エリスン独自の幻想味が際立つ。カウパーはロバーツと同様のある種の歴史もので、ウェルズはそれと呼応する作品。『タイムマシン』の原型でもある。NW発祥の地イギリス(ベイリー、ロバーツ、カウパー)と、同時代のアメリカ作家(ディレイニー、エリスン)だが、NW的なものの原初の形態を明らかにしたという点が本書の成果になる。つまりは、NWの持っていた若さ、パワーを感じさせるのである。
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ハードSFで知られる著者の第1短編集である。本書も文芸書の編集部ではなく、講談社サイエンティフィックから出ている。進学塾の講師や大学教授を務める傍らということで、兼業作家でもある。ハヤカワSFコンテストの努力賞に入ったのが1983年(この年は入選作なしだった)、デビューが84年なので既に20年のキャリア。ノンフィクションには著作が多いが、小説の単行本は本書が初めてになる。 超網の目理論(1989):宇宙に張り巡らされた網の目の意味とは スミレ(1996):彗星の核に投射された人のDNAが生み出したもの 豊饒なる空孔(1993):未知の天体の洞窟で、飛行士が見出した別の宇宙 神の仕掛けた玩具(1993):不幸な生まれから生命維持装置と一体化した天才科学者が探索する異星の物体 モネラの断想(1990):時間旅行する知性を持つ微生物が見た、画期的理論の起源とは 白い飛翔体(1990):巨大な竜の化石の眠る惑星が、新しいサイクルに入ったとき とけい座イオタ星系における有機知性体の研究(1989):人工知性が解明した有機知性体の秘密 エルティブーラの黙示録(1999):相対論と対立する絶対時空理論を提唱した主人公が復権したとき これらの作品の多くは、<辺境惑星開発機構>という共通設定で大まかに分類できる。とはいえ、シリーズといえるほど厳密な結びつきが感じられない。7つの短編が、それぞれワン・アイデアをベースにした作品であるからだろう。もちろん、アイデアのみではなく、例えば「モネラの幻想」では、京都の風景と世阿弥の能舞台という趣向も込められている。物語のドライブ力がアイデアを越えていない点がやや残念だが。
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本書は、もともと別々に書かれた短編を、2つの書下ろしと8つの挿話(インターミッション)で結ぶことにより、1つの物語としたある種のオムニバス短編集である。人間が地球の支配者でなくなった未来、1人のアンドロイドに捕まった少年に語られる7つの物語、という体裁になっている。 宇宙をぼくの手の上に(2003):ウェブ上のSF創作サイトの仲間が殺人を犯す。サイトマスターは物語で彼を助けようとする ときめきの仮想空間(1997):仮想空間の街で知り合った男女が、その本当の姿を知ったとき ミラーガール(1999):鏡の中の友人(人工知能)と会話する少女は、やがて大人になるが ブラックホール・ダイバー(2004):ブラックホールを監視する人工知能の下に一人の女性飛行士が訪れる 正義が正義である社会(2005):常に怪獣が現われ、ヒーロー/ヒロインが退治する世界と現実との絆とは 詩音が来た日(2006)*:老人介護施設に配属された、アンドロイド介護助手の心の成長の記録 アイの物語(2006)*:アンドロイドが知性を得てから、創造者たる人間たちに何を主張したのか *書き下ろし 仮想現実/ヴァーチャルでハードの存在しないもう一つの現実や、人工知能/人間とは異質な知性のあり方が、繰り返し登場する。中では書き下ろし2編が、全部で470頁の本書の凡そ半分強を占めており、それが本書のテーマを明確にしている。もともと何らかの意見を作品中で述べることが多かった作者だが、今回はメッセージ性が特に際だっている。とはいえ、それは奇異な中身ではない。異質な知性(異質な他者)との共存を、共感を持って伝え得るのは政治や暴力ではなく、フィクション(物語)の力だというピュアでベーシックな主張なのである。
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