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祥伝社のノベルズフェアから2冊。 メンデルスゾーンから採られた表題『歌の翼に』(ディッシュにも同題の長編がある)は、商店街の楽器店でピアノ教師をする主人公が、生徒や友人関係のちょっとした事件を、論理的に解き明かしていくという音楽ミステリ。小説NONに掲載された連作短編9編からなる。作者はテクニトーンのプロフェッショナル(注)でもあるので、その方面の薀蓄も豊富。お話自体は、生徒である姉弟の嘘騒動、プロを目指す親が作った防音室の謎、楽器店の息子のバンド仲間が悩む淡い恋、教師を頼るさえない中年男の思い、小学生同士ふた組の意地の張り合いと…、楽器店をめぐる人間模様の機微が中心となる。ここに、ちょっとした物理的トリックと、音楽という、ある種論理的枠組みによる種明かしが加わる。ピアノ(鍵盤楽器)は、楽器の中では一番コンピュータに近い。本来アナログで無段階の音を、鍵盤というディスクリートな切口(すなわち、デジタル)で表現するからである。そんなところに、少しSFの雰囲気を感じさせる。人物描写もなかなか見事。ただ、篇中「大きな古時計」の高校生(男子)の心理は、ちょっとかわいすぎて不可解。 『呪禁局特別捜査官 ルーキー』は、2001年9月出た『呪禁官』の続編である。先の作品で、呪禁官養成学校の生徒だった主人公は、ルーキーとして呪禁官(魔法による呪い行為取締官)に就任、しかし、初仕事で元教官の上司を失う。学校仲間も呪禁官になれず、彼は一人職務を果たそうとする。主な登場人物/事物も、(1)魔法的テロ組織サイコムウ(正体は意外な人物)、それを阻止する(2)科学戦隊ボーアマン(前作の敵役復活。なぜボーア?)、(3)不安定で危険な魔法発電所(チェルノブイリ型?)、(4)さらに登場する最強の敵、(5)再び集まる仲間たち、(6)可憐な人形に宿ったXX…と過剰なくらい用意されている。本書の場合、この過剰さのために、主人公対敵の図式が分かりにくくなった。ラストのカタルシスに向けての盛り上げが、拡散してしまっている。まあ確かに他の牧野作品では、こんな手に汗握る展開自体考えられませんが。
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平谷美樹の新作長編。今回はサイキック(いわゆる“超能力”)もの。この分野は競争が激しく(といっても、売れ行きを競っているのではなく、新規性を競っているわけですが)、オリジナルとなるヴァン・ヴォクト『スラン』(1940)から、ゼナ・ヘンダースン、スティーヴン・キングを初めとして、たとえば筒井康隆『家族八景』(1972)、半村良『岬一郎の抵抗』(1988)、少し下って恩田陸『光の帝国』(1997)、宮部みゆき『クロスファイア』(1998)、佐藤亜紀『天使』(2002)と、腕に覚えのある作家は何らかの形でサイキック・テーマを手がけているのである。ところが、超能力とは人を超える力であるが故に、テーマはもうひとつのテーマ“進化”(人類の次に来るもの)をも内包している。たとえば、
アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(1953)やグレッグ・ベア『ダーウィンの使者』(1999)など。類作の多くは、進化まで視野には入れていないが、本書はそうではない。そこが、作者らしさといえるだろう。 ルポライターの主人公の元に、かつて超能力者記事を取材した時に知り合った青年から連絡が入る。かつての仲間を集め、彼らだけの楽園“約束の地”に旅立つのだという。しかし、本物のサイキックたちを探し出すうちに、事態は急展開する。能力を軍事利用しようとする自衛隊の秘密研究所、不法工作を行う手先と、子飼いの能力者たちによる陰湿な追跡。やがて、彼らを抹殺しようとする自衛隊と、約束の地を舞台とした激しい戦闘が巻き起こる…。 ラストは、昔の桑田次郎のマンガを思い出す(『エリート』とか)。また、廃村に隠遁する老人たちの行動や、能力者たちの意識変貌は、もう少し説明が必要ではないかと思われる。 本書は続編を意識した終わり方となっている。単純な続編ではなく、人類敗北後の世界を描く内容となるようだ。『幼年期の終わり』では、次世代人類が進化の階梯を上り、地球を後にする場面まで描かれているが、本書はその手前で終わっている。次作は、去っていったものより、残されたものの運命が主題になる。
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SFとしてはめずらしいUFOもの。意外に思われるかもしれないが、UFO研究家とSFファン/作家とは仲(というか折り合い)が良くない。一般的には、SFファンの多くはUFOを無知蒙昧/反科学のシンボルと見なしていて、UFO現象などは嘘/錯誤だと考えている。確かに、UFO関係の話題はトンデモ系詐欺、妄想、オカルト実話(ファクト)と見られることが多い。それとSF(フィクション)を混同してもらいたくないのである。 キワモノTVクルーが、UFOネタで寄付金を募る新興宗教団体を取材するうち、大統領にすらUFO実在を隠す政府機関から接触を受ける。彼らは反主流派で、秘密を大衆に公表し真実をTVで暴きたいと申し出る…。 初期のUFO=エイリアンの宇宙船説から始まって、人間を誘拐し洗脳する者=アブダクション(誘拐)説、アメリカ政府は墜落したUFO/宇宙人を隠している=Xファイル風陰謀説、実は宇宙人とは関係のないアメリカの秘密兵器=エリア51等軍事基地陰謀説と、このあたりの風説が本書の場合すべて入っている(しかも、訳者による詳細な注釈つき)。加えて、UFOの正体がSF風に描かれているのがユニークだろう。 概要を知る上で勉強にはなる。とはいえ、本書が意外なお話だったわけではない。著者が客観的な研究者ヴァレというせいか、きわめてノーマルでやや面白みに欠けるように思われる。
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はじめてバラード長編『沈んだ世界』(1962)が翻訳されたのは、1968年のこと。海面上昇により都市が水没し、文明を退行させていく世界のありさまは、一見パニック小説のようであるが、類作とはまったく印象の異なるものだった。生命の中生代への回帰、精神を奇妙に歪ませる亜熱帯世界が、肯定的に描き出されていたからだ。評者もバラード独特の世界観にハマッた口(当時の流行)で、長らくSFベストの中核はバラード作品が占めていた。 本書はバラードのエッセイ集である。96年に出て、過去30年間の評論90編を収めたもの。本書の一部は、これまで各雑誌の翻訳などで断片的に紹介されてきた。山野浩一のNW-SF1号(1970)に載った歴史的な評論「内宇宙への道はどちらか?」(1962)も収録されている。60-70年代の初期評論と、90年代のさまざまな書評/映画評が中心。バラードとしては珍しい種類の本である。英国作家バラードの位置付けは、日本でいうと筒井康隆に近いかも知れない。自伝的長編『太陽の帝国』がスピルバーグにより映画化されて以降、メディアの興味はそういった方面に偏っているが。 今改めて、上記「内宇宙―」を含めた評論を読んでみると、当時言われていたメインストリーム文学を意識した部外者的発言ではなく、いかにもSF作家ベースの主張であったことがよく分かる。映画や絵画に創造の原点を置くと主張するバラードは、文字ベースの守旧派ファンから違和感を持たれていた。しかし、小説を否定したわけではない。青年に達するまでに主要な文学作品を渉猟し尽くしたバラードにとって、旧来型(19世紀)文学は明らかに停滞しており、テクノロジー(20世紀)を表現可能なSFもまた、古い類型“外宇宙”に囚われていると写った。前半の主張は、たとえば、小松左京が従来述べてきた内容とほとんど同じである。ただ、20世紀後半の主導者は科学自体というより、テクノロジーの消費者“大衆”なのだから、文字媒体の“外宇宙”をワンパターンでなぞっても、いつかは大衆に飽きられる (事実そうだった)。つまり、「内宇宙―」は、精神というより、マーケティングの戦略だったとみなせるわけである。 他では、最近の書評/映画評も、辛辣なオチが効いていて結構楽しめる。読んでいるうちに、なんとなくバラードが良識派のように思えてきて共感できるのだから、さすがバラードなのかも。 本書の中の自伝エッセイで、バラードは毎年定期的に氾濫する揚子江によって、泥海に沈む上海郊外の街並みについて記述している。亜熱帯の沈んだ世界と、戦争により頽廃した人々(中国人、英国人、日本兵)は『沈んだ世界』の原点そのものである。
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折紙つきの小説というのか、小説つきの折紙というのか、の完結篇。 最後の2巻では、カバーの裏に折紙用ジオラマが印刷されているという趣向で、なかなか凝っています(でも、この洒落って、全国の書店のどれだけが理解できるのでしょうか)。5巻目に収められたのは、異次元空間に押し込められた寮、何もかも呑み込む海、川原で拾ったペットのお話、4編のショートショート、6巻目には旅を題材にしたオムニバス、イモリを題材したオムニバスと、カメリの連作の完結篇が収められています。 こうして読む限り、やはり作者の持ち味は短編にあるようで、5巻目の独立した短編の奇想が優れている反面、6巻目のオムニバスは、逆にオムニバス(関連しあった連作)と思うと、読むほうが悩んでしまいます。離散的、不連続的にして、不確定なる小説、というか、そもそもこの折紙の種類も一貫性などない、小説つきの離散的折紙ですね。
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たしか、井上剛は、京都SFフェスティバル(2002)の座談会でも、応募先は「オール読物」でも良かった、とにかく作家デビューを果したかった、という趣旨の発言をしていたと記憶している。 前作のレビューでも指摘しているように、第3回SF新人賞受賞者である作者の小説は完成度が高く、過去のSF新人賞中最高レベルだろう。反面、追求するテーマが、SFよりも人間中心に偏るため、ジャンルSFに加えるべきプラスアルファに乏しいともいえる。ただ、上記にあるように、作者の興味はそんな狭いジャンルにはない。 幼いころから、両親の愛情に恵まれず育った主人公は、念じるだけで生き物を殺す指「呪いの手」を持っていた。その力は、両親への復讐心/憎悪となって、彼女の中で育まれていく。成人した日に、この2人を殺して、自分も死を選ぶと。しかし、ある日母親が倒れた知らせを受けてから、意外な事実と苦い体験が彼女を襲う…。 サイキックものでも典型的な「神の手」(あらゆる病を治癒する、「奇跡の手」を持つ人物が登場する)。上の『約束の地』でも書いたが、このテーマでは半村良『岬一郎の抵抗』(下町の奇跡と騒がれ、最後は国家に弾圧され…)が有名だし、F・ポール・ウィルスン『触(タッチ)手』(患者が押し寄せ、家庭崩壊のあげく…)とか、もちろん「神の手」を持った普通の人間が幸運なわけがなく、過酷な人生を送るのが通例になっている。それが「呪いの手」となれば、どれだけの悲劇を招きよせるか、という形而下的興味が湧いてくる。しかし、作者の興味は常に主人公の心理状態に置かれていて、揺らぐことがない。脳卒中で植物状態になった母親を看病する家族=父親と娘、同じ病院で苦しむ小学生の患者との交歓、医師との対立等など、個人の周辺のみが一貫して描写されている。主人公の歪んだ人生観の要因が、単に幼少時の体験だけにあるのではなく、「呪いの手」 である点が重要で、これがなければ説得力に乏しかったろう。『マーブル騒動記』同様、ワンポイントでSFアイデアを援用し、それを物語の要に置き、しかも“メインテーマとしない(あくまでも手段)”のが井上剛の特徴といえる。
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