中村融・山岸真編『20世紀SF(3)1960年代』、『(4)1970年代』河出書房新社 今週は、1960年代の第3巻、1970年代の第4巻。 先の2巻を見ても分かるように、本アンソロジイは、既成概念や常識に捕らわれない視点という、SFの代表的な特性に焦点をあてている。もちろん、既成概念/常識は、時代によって大きく変遷するし、批判精神がメジャーなものであったかは議論の余地がある。そのあたりは最後に論じることにする。 1960年代は、ヴェトナム戦争と、いわゆるカウンター・カルチャーの時代だった。第2次大戦後の社会は、早くも硬直化しほころびを見せ始めた。60年代になると、作品に初めて“個人”が登場する。というより、個であること自体がテーマとなりえた、と言い換えていいかもしれない。第3巻の冒頭に置かれるのはゼラズニイ「復讐の女神」である。テロリストを追う3人の男たちは、マッチョな英雄ではなく阻害され孤立した天才、追われる側も冷酷な犯行の裏に悲しみをはらんでいる。この巻のテーマは「異界での孤立」だ。物語で描かれるさまざまな事件の果てに、主人公は一人取り残され、(多くは解決を得られず)途方にくれる。結末に置かれたヴァンス「月の蛾」で描かれるように、誰もが仮面をつけた社会での犯人探しに、答えのない孤独感が象徴される。 1970年代は、60年代に産まれた、正負さまざまな物事(フェミニズムからカルト宗教まで)が成長/悪化した時代である。ヴェトナム戦争は75年に終結、一方アフガン侵攻は79年から始まる。60年代のテーマは、より拡大された「遍在する孤独」となり、あくまで個人に閉じていたはずの孤独感が、集団や小社会、性、人種、人類といった概念に拡張されていく。個人のコミュニケーション不全である“孤独”は、結局のところ、あらゆる社会階層で普遍的に存在したのだ。 たとえば、ティプトリ―「接続された女」で、誰も知らない醜女が、誰もが知るネットワークの美女の正体だった。60年代のウィルヘルム「やっぱりきみは最高だ」が、あくまでも女優個人のお話だったのに、ここでは構造が多層化されているのである。 この3、4巻を見ると、編者がこの2巻を互いに共鳴しあうように構成していることが分かる。 60年代の「檻」(閉じ込めるもの、ストレートな意味での檻)と、70年代の「夏」(永遠の繁栄を象徴するが、本書では閉ループの夏)。冒頭に置かれた、叙事詩的なゼラズニイと、荒っぽい御伽噺ティプトリ―。あるいは、巻末に置かれた、異世界ファンタジイのヴァンスと、同様ながら寓話色を色濃く出したマーティン。これらの、本質的なテーマは同じかもしれない。 2つの時代を共通に結びつけるのがラファティである。40/50年代での共通作家がスタージョンやブラッドベリだったのに対して、60/70年代のラファティは、マッドな奇想作家として、(マイナーながら)時代を象っている。
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中村融・山岸真編『20世紀SF(5)1980年代』、『(6)1990年代』河出書房新社 一大アンソロジイの最終巻となる、1980年/1990年である。1940/50、1960/70とペアで読むことができた先の時代と同様、この2巻でもテーマはお互いを補完する位置にある。 1980年代は、解説にもあるようにサッチャーとレーガンの時代、保守主義の時代である。日本ではバブル全盛期だったが、英米では深刻な不況が進行していた。初めて、後の世代の年収が先の世代より下がるという現象が現れ、あらゆるものの権威が揺らいでいた。そんな中で社会の保守化は当然だった。一方、コンピュータの小型化と低価格化、一般大衆への普及は予測外の出来事だった。ギブスンのサイバー・パンクは、その現象に対するSFからの答えといえる。しかし、本巻のテーマは「異形の愛」である。拠りどころをなくした人々は救済を求めた。その解が、人との結びつき、それも、従来とは異なる結びつきだ。ナノテク、遺伝子操作、カルト宗教の果てに産まれる奇妙な愛情表現。 1990年代、アメリカでは湾岸戦争以降の一極主義、空前のITバブルという(文字通り)“仮想的な繁栄”の時代を迎える。リアルより、ヴァーチャルが社会を左右した。本巻のテーマは「見果てぬ故郷」。テリー・ビッスンの「平ら山を越えて」で明示されるように、既知の故郷は失われた後だ。80年代の“愛”と同様、90年代の“故郷”も人々の拠りどころ、帰り着く場所なのである。ただ、ここで1950年代では見えなかった未来が見えてきた。『幼年期の終わり』で垣間見えた新人類は、我々の理解を超絶した存在だったが、90年代に描かれる新人類(たとえば、イアン・マクドナルド「キリマンジャロへ」)は、異形のものでありながら、我々の明日としてシームレスにつながっている。 さて、ここで6冊を振り返って、テーマを再整理しておこう。各巻の解説では、年代別のSF動向が概説されている。特定の年代から収録する以上、時代動向を全く無視した作品はありえない。しかし、テーマ性を重視したため、かえってSF界の動向よりも、時代が希求する空気が明瞭に見えている。
これを1冊の本として考えてみると、1巻目が「起」、2巻目が「承」、3、4巻で「転」、5、6巻で「結」となる。4巻目が山場となる。結末となるはずの6巻目は、テーマが絞りきれていないためかやや散漫。壮大な展開に比べて、結末に難といったところか。総じて、各巻ともにダレ場がないのが欠点かもしれない。長編小説では、重い場面と流す場面のバランスが重要である。アンソロジイにもよく似た工夫が必要になる。ジェットコースター・ノベルでも、クライマックスばかりではない。気を抜く瞬間がないと、読みにくくなるからだ。
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牧野修『呪禁官』(祥伝社) 9月に出た本。ネット上でも牧野ファンは多いので、もはや旧聞かもしれません。 魔法と科学の役割が入れ替わった、と聞いてフリッツ・ライバー『闇よ、つどえ』を思い出すようでは、古生代の遺物かも。ポール・アンダースン『大魔王作戦』は、さらに徹底していますが、翻訳が出てからもはや18年が経過していますね。というくらい、このテーマは古いものです。最近では、古橋秀之のブラックロッド3部作などで、魔法の日常化が『大魔王作戦』風に書かれています。 とはいえ、本書はちょうど魔法が科学に取って代わりつつある世界を描いているので、誰でも違和感なく読み進められます。ここで書かれるのは、何も科学対魔法の戦争ではなくて(一部そんなシーンもありますが)、古代からの魔界の甦りに対抗する魔法警察の戦いがテーマです。主人公は、警官である呪禁官の候補生、落ちこぼれのルームメイトと共に、巨大な敵と戦うわけです。 これまでの『病の世紀』との違いは、主人公たちの病気度が下がった点。勉強はできるけどケンカが弱い少年とか、デブで意気地なしでも憎めない少年、過去の刃傷沙汰を暗い陰に持つ少年、あるいは、公務で死んだ呪禁官が父親だった主人公と、結構まともな登場人物でしょう。異常性格者が目立たない分は、魔法世界設定のペダントリイでカバーされています。これならば、シリーズになる(できる)ようですね。 それにしても、笹川吉晴の推薦文「立て、文系のつわものよ…」は聖歌のパロディなのでしょうが、やっぱり謎(呪文か?)。
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ニール・ゲイマン『ネバーウェア』(インターブックス) 7月に出た本。 大都会ロンドンで2流の会社に勤める主人公は、あるとき道端に倒れた少女を助けてしまう。それから、彼の周りに異変が起こり始める。彼自身の存在が人々から忘れ去られ、ふと気が付くと、ロンドンでありながら別の世界、“下の世界”の住人となっていたのだ。彼と少女、カラバス侯爵と名のる男、豹のような女ボディーガードらは、地下世界で堕天使探索の旅に乗り出す。 作者はコミック『サンドマン』の脚本で知られる。もともとダークなイメージがあるが、本書の場合はユーモアの彩りが添えられていて、スプラッタホラーとも異なる都会ファンタジイとして読める。本書で描かれるように、主人公が生きていた現実と、ありえないはずの非現実の差は極めて薄く、重なり合っている。実際、舞台は百貨店のハロッズや、地下鉄の廃止された駅だったりする。ダメ男だった主人公は、同じロンドンの裏世界で初めて生きる意味を見出すのである。あらゆるところに扉を開く能力を持つ少女と、堕天使との出会いのシーンは色彩感にあふれ、上記『呪禁官』のクライマックスを思わせる。結末も予定調和とはいえ、心地よい。
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大原まり子『超・恋・愛』(光文社) 著者の恋愛小説集(97〜99年の雑誌掲載作)。といっても、もちろん、いわゆる“恋愛小説”が入っているわけではない(と断らなければならないところが、単純には読み解けないこの作者の複雑さ)。 「書くと癒される」では、心のわだかまりをノートに書くフリーターの主人公と、短歌を書く変わったサラリーマンとが出会う。あぶく銭はあるが空しい生活をするサラリーマンとスナックの女が、時空をさすらうような話を交わす「ワンダラー」。崩壊した世界で、ロックスターと同棲する主人公「踏ミ越エテ」。オカルトおたく、SFおたく、お嬢様が遭遇する破滅的状況「不思議聖子羊の美少女」。盲目の異種族の娘が“見る”お屋敷の怨念「13」。「サイコサウンドマシン」は、もともとラジオドラマの原作だったもの。主人公が精神を癒す装置にかかり、秘めていた過去を思い出していく。 大原まり子の描く人々は、本来の社会の中では、おそらく恋愛関係を持ち得ないような人物ばかりである。なぜなら、出会うこと自体を恐れるからだ。しかし、物語の中で、ありえないようなコンタクトを果たした結果、彼らは癒しを受けられるようになる。世にも奇妙で、それでいて世にも安らぐ(なんて表現があるか)、不思議な一瞬を味わえる。
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