武森斎市『ラクトバチルス・メデューサ』(角川春樹事務所) 過去にも、このような伝染病サスペンスを取り上げてきた。『ダスト』も、その1つかもしれない。という意味では、本書のユニークさがどこにあるかに興味が湧く。 奥飛騨にある新興乳業メーカが開発した、遺伝子組み替え乳酸菌――何の問題もないと思われた無害な菌は、しかし、人の体内に多量のカルシウムを蓄積し始める。人はメデューサに魅入られたごとく、石と化していく…。 雪印事件があったので時事ネタにも思えるが、本書の主眼は老人医療制度や、緊急医療、大学での研究体制など、既存組織への批判をも含んでいる。サスペンスとしての盛り上げにも力が入っている。(主人公らが政府の杓子定規に反発し、独断で行動する件などは、この手のパニック小説・映画の常套手段でもある)。セリフや文章の硬さが気になるが、これは読むうちになれてくる。 ただ、基本的な設定があまりに説明不足である。たとえば、会って数時間の男女が、命をかけてまで思いを寄せあえるのか、とか、同じく数時間で陰謀の大計画を立てる犯人の背景に何があったのか、とか、これらは書かれた内容だけでは納得できないからだ。 |
瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店) 扉を開ける。すると、そこには無限の博物館が拓かれている。 小学校最後の夏休みが始まる日、主人公は、自宅と逆の方向に足を向け、そこで、奇妙な「博物館」を見つけ出す。人影はなく、フーコーの振り子が、フロアに置かれたピンを倒していくだけ。しかし、いつの間にか、彼の前に1人の少女と1匹の猫が姿を現す。少女が案内する無数の扉の向こうには、現在、過去に存在した無数の博物館がつながっていた…。 本書には複数にして1人の人物が登場する。主人公の過去と現在、あるいはフィクションの主人公と作家、そしてまたフィクションの作家と現実の作者。メタ・フクションの構成でありながら、本書は「物語中の物語」を目的としてはいない。 瀬名秀明の小説は、多数のインプット情報から成立している。ただ、いわゆる情報小説にはならず、かならず独自の仮説や展開が現れる。たとえば、ミトコンドリアの復讐や不可知情報のウィルスといった、いわば、定石を外したアイデアに作者のオリジナリティが見えてくる。 今回盛んに問いかけられるのは、「物語に感動する」とは何かであり、冒険の「作為的な物語性」を否定した時に姿を見せる、「真の物語」を追求する試みが描かれている。実のところ、物語を否定しながら、なお物語を描くこと自体、読者にとって韜晦が過ぎる。しかし、一種プリミティヴなエジプトを巡る冒険譚を軸に、フィクションの原点を探る展開はスリリングだ。 扉を開ける。 すると、そこには、無数の物語が存在する。 |
『SFマガジン2000年12月号』(早川書房) 1980年代SF特集号。50年代からはじまった特集も4回目で、あとは90年代を残すのみとなった。 今回収録されたのは、ブルース・スターリング(皮肉なファンタジイ)、ポール・ディ・フィリポ(画家の世界に同化できるドラッグ)、パット・キャディガン(主人公だけにしか見えない“エンジェル”)、コニー・ウィリス(辺境惑星に住む少女)、ジーン・ウルフ(ユニコーンを巡る小品)らである。80年代SFは、サイバーパンクとスリップストリームにあると思えるが、という意味で考えると、本特集は、さらにそのサイドストーリー風だ。解説なしでは、時代特集とも思えない。各作品は面白いので、あえて時代性など意識する必要はないのかもしれないが。 これまでの特集号は、50年代(99年2月号)、60年代(00年2月号)、70年代(00年10月号)である。 とはいえ、60年代以降の特集号は、時代の全貌を捉えるという意味で、ややサンプルが粗い。もっと多様性があったはずなのに、その一面しか特集できておらず、今年一気に進めてしまったのも、せっかくの企画が生きずもったいない。また、時代特集と、文庫や単行本の在庫(入手可能な本)とをリンクさせるなど、営業効果を高める努力もすべきではないか。読めない本をいくら紹介しても意味がない。 |
小林泰三『奇憶』(祥伝社) 祥伝社400円文庫向けに書き下ろされた中篇(150枚)である。 主人公はとことん転落した人生を送っている。妙な思い込みを持っているがために、大学生活で破綻をきたし10年が無為に過ぎた。何事も手につかない。しかし、不潔な下宿で、過去に思いを巡らすうちに、奇妙な記憶があることに気がつく…。 内容は、著者得意の思索ホラーである。主人公が抽象的な謎を追及していく過程で現れる、戦慄の「超」物理的事実。ここでの「超」には、時間や空間、量子論といったSF的アイデアが多彩に込められている。150枚は、新幹線で読むにはちょっと短いが、小林泰三の小説の長さとしては最適と思える。 |
オースン・スコット・カード『エンダーズ・シャドウ(上下)』(早川書房) もう一つの『エンダーのゲーム』、あるいは姉妹篇。 エンダーの視点を離れ、本書の主人公はビーンである。ビーンは、わずか7歳で天才指揮官エンダー・ウィッギンの参謀となる(もとのお話は、『エンダー』のリンク先を参照のこと)。 子供だけで構成された軍隊。何の意味もない過酷な訓練。そしてまた、異様なまでに虐めぬかれるエンダーたち――本書の中身を今日的に見るならば、ほとんど児童虐待のメタファである。 解説で久美沙織が書いているとおり、カードという作家に対する評価は、『消えた少年たち』(行方不明になった子供の物語を、一人称のスタイルで書いた)騒動など、必ずしも好意的なものばかりではない。登場人物である少年たちを、どのような意図を持って書いているかが、常に問われてきた。中途半端な問題意識は、かえって偽善に見られる。本物かどうかが肝要だった。処女短編から始まるエンダーシリーズは、そういった議論を象徴するものである。しかし、カードの描きつづける登場人物の鋭敏な感受性と傷つきやすさは、過剰な情報に晒される現代人そのものとも共通する。エンダーやビーンに対する共鳴は、結局我々自身の中にあるエンダー的苦悩やトラウマとの共感に等しい。 |