2000/09/02

中村融編訳『影が行く』(東京創元社)
 翻訳権の切れた作品から、ホラーSFの範疇に含まれると思われる名作を編訳者が独自に編んだものが本書。収録作の発表年を参考のために記すと、

 「消えた少女」(1953)リチャード・マシスン
 「悪夢団」(1970)ディーン・R・クーンツ
 「群体」(1959)シオドア・L・トーマス
 「歴戦の勇士」(1960)フリッツ・ライバー
 「ボールターのカナリア」(1965)キース・ロバーツ
 「影が行く」(1938)ジョン・W・キャンベル・ジュニア
 「探検隊帰る」(1959)フィリップ・K・ディック
 「仮面」(1968)デーモン・ナイト
 「吸血機伝説」(1963)ロジャー・ゼラズニイ
 「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」(1932)クラーク・アシュトン・スミス
 「五つの月が昇るとき」(1954)ジャック・ヴァンス
 「ごきげん目盛り」(1954)アルフレッド・ベスター
 「唾の樹」(1965)ブライアン・W・オールディス

 個人短編集などには、わが国独自のものも少なくない。欧米ではマイナーだが、日本に熱狂的なファンがいる、といった場合である。本書はちょっと違って、編者が独自テーマに沿って、作品選択した点に特徴がある。その昔新潮社が出したオリジナル翻訳アンソロジーに近い。単なる翻訳ではないので、編者の個性に大きく左右される。また年代的に、30年代から70年まで広く分布するため、作品の内容には結構隔たりがある。
 中では、標題作の原始的な恐怖感(今読むと、とても南極観測基地とは思えず、どこかの漁村のようである)、ディックの定番的な無限増殖の恐怖、そしてオールディスの洗練された擬似19世紀風ホラーがベストか。もっとも、基本的には、ワン・アイデア・ストーリーが大半であるため、マシスンやトーマスなど、そのオチが古色蒼然とし過ぎたものもある。
アートディレクション:吉永和哉,造形:松野光洋,撮影合成&デザイン:岩郷重力+WONDER WORKZ

2000/09/09

表紙イラストレーション:鶴田謙二 SFマガジン2000年10月号(幻想の70年代SF)(早川書房)
 50年代60年代に続く時代特集第3弾。「幻想の」とあるが、いったい何が幻想なのだろうか。
 大野万紀が評論で書いているように、70年代といえばLDG(レイバー・デイ・グループ、SF大会に集まってくるマーチン、マッキンタイア、ブライアントらのグループ)であり、アンソロジー(ロジャー・エルウッドらが乱発)であり、イギリスSF(ショウ、ロバーツ、コンプトン、ベイリー)だった。60年代SFをリアルタイムで追えなかったわれわれの世代からすれば、同時代=70年代である。
 ドラッグによる時間旅行(マーチン)、究極の無関心(ラス)、隣り合う戦争(ウィルヘルム)、数百年に及ぶ戦い(ホールドマン)、保存された観光都市(コーニイ)、過剰な隣人愛(シルヴァーバーグ)。
 この時代の作品を読むと、無意識的ないらだたしさを感じる。未達成で欲求不満で、焦燥感にとらわれたようで、しかし答えがないものを。もちろん、50、60年代にしたところで、その時代の支えは、とっくに失われているのだから、70年代だけが不完全とはいえない。ただ、この年代は最初から支柱のない時代だったのだ。
 という意味からすると、この「幻想」は、核が不在で存在が希薄な同時代そのものを形容しているのかもしれない。
朝松健『魔障』(角川春樹事務所)
 著者の作品では、特に自身の体験に結びついた諸作に、尋常ではない雰囲気がある。
 標題作は、オカルト本編集者が、魔術師の持ち込んだ「魔道書」を出版しようとしたとき、巻き起こされた奇怪な事件の数々を描いたもの。その設定自体はよくあるパターンといえるかもしれない。周りの人々が自分の悪口、噂を口にし始め、夜中に騒音と不気味な電話に悩まされ、しかし、これは作者の体験した実話に基づいている、というフィクションを超絶したリアリティがオマケにつく。
 たとえば『肝盗村鬼譚』が、作者の闘病生活で見た悪夢をベースにしているように、現実を確実に凌駕した異界を感じさせる点が、この系統の著者の作品の特徴となっている。
装画:山本ゆり子、装幀:芦澤泰偉

2000/09/16

装画:日向泰介,装幀:神埼夢現

牧野修『病の世紀』(徳間書店)
 『人間みな病気』という内容。この場合、病気とは、肉体的原因があるにしても、精神の病のことである。
 国立予防医学研究所、そこは世間に公開されない伝染病を研究観察する組織である。彼らは米国IRNIの傘下にあり、まだ治療法も確立していない奇病の調査を行っていた。人を妄想に駆り立てるウィルス、味覚を先鋭化する寄生虫、殺人幇助ウィルス…。しかし、彼ら自身にも奇怪な運命が待ち受けていた。
 サイキック探偵は昔あった。これは、奇病探偵小説といえる。この世にない病のおぞましさは、さすがに牧野修。これまでの著者の作品とは違って、登場人物は、弱者の側ではなく体制側にいるが、何れも歪んだ性格の持ち主であり、それが故に破滅する――という意味では、「巨大な悪の影に挑むヒーロー」風カタルシスはあまり望めない。構造的にはそのようなお話なのですが。

スティーヴン・キング『ライディング・ザ・ブレット』(アーティストハウス)
 記録的ダウンロードだったオンライン小説(中篇)の書籍版。日本語版はダウンロードでは買えない。ただ、日本での販売元bolでは書籍がオンライン先行発注できるので、普通の書籍と違いが出ている。(ちなみに右記書影は2000部限定版ではありません)。
 シェアウェアなどに支払いを行う習慣は、アメリカのほうが日本より進んでいると思いがちだが、実際はそんなことはない。アメリカ人もタダで入手できるものにお金は払わないのである(むしろ日本人のほうが真面目らしい)。金に見合う内容が、具体的である必要があるからだ。キングの成功は、それを可能にするシステムと宣伝力に負うのではないか。そもそも月刊で刊行された『グリーン・マイル』の成功も、新潮社のような目立たぬ装丁とは全く違う、派手でポップな販促グッズや宣伝活動によるものだった。
 さて、物語はこうだ。母親が脳卒中で倒れる。息子は夜を徹してヒッチハイクで戻ろうとする。そこで、異様な男に拾われ、1つの問いかけを受ける。
 「お前か母親のどちらか1人を連れて行かねばならない。お前はどちらを選ぶ」(連れて行く先は、もちろんあの世である)。
 この質問をいろいろ変えてみる。

 「お前とお前の子供」
 「お前と妻」
 「お前と兄弟」
 「お前と友人」

 答えは?
装丁:阪田啓,装画:藤田新策

2000/09/23

カバー造形:韮沢靖,協力:ART STORM,カバーデザイン:奥沢潔(パークデザイン)

井上雅彦監修『帰還』(光文社)
 異形コレクションの第16集。同一編集、同一装丁ながら、出版社が廣済堂から光文社に移った第1作目となる。
 ホラーで帰還がテーマとなれば、連想するものは、死者の帰還、(呪われた)故郷への帰還、SFならば時間を超えた過去への帰還、宇宙から異形と化したものの帰還、ファンタジイならば思い出や幼い頃の甘い記憶への帰還…と、無数の連想が可能だろう。24人もの競作であるため、いくつかのアイデアに重複は見られるが、さまざまな「帰還」が楽しめる点は間違いがない。ジャンルミックスな面白さは、従来からの特徴といえる。
 ホラーでの友成純一、SFでの中井紀夫、ファンタジイでの本間祐あたりが印象に残る作品。

2000/09/30

筒井康隆『細菌人間』(出版芸術社)
 「少年サンデー」や「ボーイズライフ」に掲載された少年物を採録した、めずらしい中・短編集である。ファンジン「未来趣味」でも、少年雑誌に掲載された多くの“読み物”が、単行本未収録のまま埋もれていることが指摘されていた。
 コミック誌「少年サンデー」では、その昔、小説連載があり、SF作家がたくさんの作品を執筆していた。想定読者は小学校高学年程度なので、今のヤングアダルトと比べても、一段階子供向きに書かれている。表題作「細菌人間」(1966)は、隕石の落下にはじまり、『盗まれた街』風の展開の後『ミクロの決死圏』で終るというお話。
 一方の「ボーイズライフ」は、中学生から高校生を想定した、読み物中心の雑誌だった。星新一が読者公募のショートショート(千字コント)寸評をしていたことで有名。「10万光年の追跡者」(1965)、「四枚のジャック」(1965)は、評者も確か読んでいるはずなのだが、今回読み返して覚えているのは後者だけだ。当時小学生だったせいもあるかもしれない。
 「中二時代」の「W世界の少年」(1966)や、「中三コース」掲載「闇につげる声」(1966)は、同時期の筒井作品と変わりがない文体で書かれている。これら5つの中短編は、少年誌特有の制約の元に書かれたものなので、本書のような専門的なコレクションで初めて違和感なく単行本になりえたのだろう。

装幀:森下年昭,装画:泉谷淑夫
装画,装幀:南伸坊 筒井康隆『魚藍観音記』(新潮社)
 一方こちらは、主に「小説新潮」や「新潮」などに掲載された、幻想味が強い短編10編を集めた最新作品集。『エンガッツィオ司令塔』がスラップスティックとすれば、本書は深い翳のあるファンタジイ集といえる。
 表題作「魚藍観音記」は孫悟空と観音様との情交を描き、ポルノグラフィとファンタジイとの究極の等価性を示している。そして、テレビロケの傍らで正体不明の軍隊が戦争をはじめる「市街戦」、少女の姿をした「馬」、小説の中に住む女性「虚に棲む人」、犬と猫たちのジャズセッション「ジャズ犬」、これらの結末はどこかほろ苦い。最後の「谷間の豪族」には、多くの筒井作品で見られた、無限の広さを持つ日本家屋が登場する。
 どの作品も短く、現実との境界線がない。しかも、物語として完結する手前の形で、読者の前に提示されている。そのタイミングは絶妙であり、中長篇で読者に与えるインパクトに相当するといえる。

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