中村融編訳『影が行く』(東京創元社) 翻訳権の切れた作品から、ホラーSFの範疇に含まれると思われる名作を編訳者が独自に編んだものが本書。収録作の発表年を参考のために記すと、 「消えた少女」(1953)リチャード・マシスン 「悪夢団」(1970)ディーン・R・クーンツ 「群体」(1959)シオドア・L・トーマス 「歴戦の勇士」(1960)フリッツ・ライバー 「ボールターのカナリア」(1965)キース・ロバーツ 「影が行く」(1938)ジョン・W・キャンベル・ジュニア 「探検隊帰る」(1959)フィリップ・K・ディック 「仮面」(1968)デーモン・ナイト 「吸血機伝説」(1963)ロジャー・ゼラズニイ 「ヨー・ヴォムビスの地下墓地」(1932)クラーク・アシュトン・スミス 「五つの月が昇るとき」(1954)ジャック・ヴァンス 「ごきげん目盛り」(1954)アルフレッド・ベスター 「唾の樹」(1965)ブライアン・W・オールディス 個人短編集などには、わが国独自のものも少なくない。欧米ではマイナーだが、日本に熱狂的なファンがいる、といった場合である。本書はちょっと違って、編者が独自テーマに沿って、作品選択した点に特徴がある。その昔新潮社が出したオリジナル翻訳アンソロジーに近い。単なる翻訳ではないので、編者の個性に大きく左右される。また年代的に、30年代から70年まで広く分布するため、作品の内容には結構隔たりがある。 中では、標題作の原始的な恐怖感(今読むと、とても南極観測基地とは思えず、どこかの漁村のようである)、ディックの定番的な無限増殖の恐怖、そしてオールディスの洗練された擬似19世紀風ホラーがベストか。もっとも、基本的には、ワン・アイデア・ストーリーが大半であるため、マシスンやトーマスなど、そのオチが古色蒼然とし過ぎたものもある。 |
SFマガジン2000年10月号(幻想の70年代SF)(早川書房) 50年代、60年代に続く時代特集第3弾。「幻想の」とあるが、いったい何が幻想なのだろうか。 大野万紀が評論で書いているように、70年代といえばLDG(レイバー・デイ・グループ、SF大会に集まってくるマーチン、マッキンタイア、ブライアントらのグループ)であり、アンソロジー(ロジャー・エルウッドらが乱発)であり、イギリスSF(ショウ、ロバーツ、コンプトン、ベイリー)だった。60年代SFをリアルタイムで追えなかったわれわれの世代からすれば、同時代=70年代である。 ドラッグによる時間旅行(マーチン)、究極の無関心(ラス)、隣り合う戦争(ウィルヘルム)、数百年に及ぶ戦い(ホールドマン)、保存された観光都市(コーニイ)、過剰な隣人愛(シルヴァーバーグ)。 この時代の作品を読むと、無意識的ないらだたしさを感じる。未達成で欲求不満で、焦燥感にとらわれたようで、しかし答えがないものを。もちろん、50、60年代にしたところで、その時代の支えは、とっくに失われているのだから、70年代だけが不完全とはいえない。ただ、この年代は最初から支柱のない時代だったのだ。 という意味からすると、この「幻想」は、核が不在で存在が希薄な同時代そのものを形容しているのかもしれない。 |
朝松健『魔障』(角川春樹事務所) 著者の作品では、特に自身の体験に結びついた諸作に、尋常ではない雰囲気がある。 標題作は、オカルト本編集者が、魔術師の持ち込んだ「魔道書」を出版しようとしたとき、巻き起こされた奇怪な事件の数々を描いたもの。その設定自体はよくあるパターンといえるかもしれない。周りの人々が自分の悪口、噂を口にし始め、夜中に騒音と不気味な電話に悩まされ、しかし、これは作者の体験した実話に基づいている、というフィクションを超絶したリアリティがオマケにつく。 たとえば『肝盗村鬼譚』が、作者の闘病生活で見た悪夢をベースにしているように、現実を確実に凌駕した異界を感じさせる点が、この系統の著者の作品の特徴となっている。 |
牧野修『病の世紀』(徳間書店) |
スティーヴン・キング『ライディング・ザ・ブレット』(アーティストハウス) 記録的ダウンロードだったオンライン小説(中篇)の書籍版。日本語版はダウンロードでは買えない。ただ、日本での販売元bolでは書籍がオンライン先行発注できるので、普通の書籍と違いが出ている。(ちなみに右記書影は2000部限定版ではありません)。 シェアウェアなどに支払いを行う習慣は、アメリカのほうが日本より進んでいると思いがちだが、実際はそんなことはない。アメリカ人もタダで入手できるものにお金は払わないのである(むしろ日本人のほうが真面目らしい)。金に見合う内容が、具体的である必要があるからだ。キングの成功は、それを可能にするシステムと宣伝力に負うのではないか。そもそも月刊で刊行された『グリーン・マイル』の成功も、新潮社のような目立たぬ装丁とは全く違う、派手でポップな販促グッズや宣伝活動によるものだった。 さて、物語はこうだ。母親が脳卒中で倒れる。息子は夜を徹してヒッチハイクで戻ろうとする。そこで、異様な男に拾われ、1つの問いかけを受ける。 「お前か母親のどちらか1人を連れて行かねばならない。お前はどちらを選ぶ」(連れて行く先は、もちろんあの世である)。 この質問をいろいろ変えてみる。 「お前とお前の子供」 「お前と妻」 「お前と兄弟」 「お前と友人」 答えは? |
井上雅彦監修『帰還』(光文社) |
筒井康隆『細菌人間』(出版芸術社) |
筒井康隆『魚藍観音記』(新潮社) 一方こちらは、主に「小説新潮」や「新潮」などに掲載された、幻想味が強い短編10編を集めた最新作品集。『エンガッツィオ司令塔』がスラップスティックとすれば、本書は深い翳のあるファンタジイ集といえる。 表題作「魚藍観音記」は孫悟空と観音様との情交を描き、ポルノグラフィとファンタジイとの究極の等価性を示している。そして、テレビロケの傍らで正体不明の軍隊が戦争をはじめる「市街戦」、少女の姿をした「馬」、小説の中に住む女性「虚に棲む人」、犬と猫たちのジャズセッション「ジャズ犬」、これらの結末はどこかほろ苦い。最後の「谷間の豪族」には、多くの筒井作品で見られた、無限の広さを持つ日本家屋が登場する。 どの作品も短く、現実との境界線がない。しかも、物語として完結する手前の形で、読者の前に提示されている。そのタイミングは絶妙であり、中長篇で読者に与えるインパクトに相当するといえる。 |