2002/3/3

キム・スタンリー・ロビンスン『グリーン・マーズ』(東京創元社)
大島豊訳 Green Mars ,1994
Illustration:加藤直之 Cover Design:岩郷重力+WONDER WORKZ。
 

  94年のヒューゴー賞/ローカス賞受賞作。近年にわかに増えた火星ものの大本命、ロビンスンの火星3部作第2作目である。翻訳も4年ぶり。昔の諸作とは異なり、最新の火星研究成果を取り入れた点が特徴となっている。
 22世紀初頭、火星独立闘争の端緒となった暴動事件から40年が過ぎた。火星のテラフォーミングは着々と進み、植民者の人口も膨れ上がる。独立派は、隠された拠点で、次の闘争に備えて準備を重ねていた。その一方、地球では国家の力がますます減衰し、超国家的な企業群が、自己の利益を求めて闘争を繰り返していた…。
 今回は、やや小ぶりの構成といえる。前作の主な登場人物は、長命化処置を受けて健在。子供たちの世代には、際立った人物が少ない。お話から見ても、前作『レッド・マーズ』では、軌道エレベータの落下と、帯水層爆破による大洪水という大きなクライマックスがあった。今回、それらに匹敵するような“スペクタクル”は、あまりない。
 むしろ、本書の本当の観点は、次第に生命で溢れていく火星のありさまそのものにある。薄い大気、氷点下数十度という劣悪な環境――そこで「生きる」ことの意味は、火星に住む人々のさまざまな生きざまを象徴する。たとえば、火星独立を巡る代表会議を描く視点と、氷河の狭間で繁殖する植物たちは、同じスタンスで描かれているのである。
 ちなみに、次回作は“イエロー”ではなく“ブルー”(太古の海が蘇った火星)です。

bullet ロビンスン関係サイトの1つ
公式サイトはない模様。比較的詳しい書誌情報があるところ。
bullet ヒューゴー賞受賞作(1994年)
bullet ローカス賞受賞作(1994年)
bullet 『レッド・マーズ』評者のレビュー
bullet 『運河の果て』評者のレビュー
日本で同条件の作品を考えると、これが代表作となるだろう。

2002/3/10

キム・ニューマン『ドラキュラ崩御』(東京創元社)
梶元靖子訳 Judgment of Tears (Dracula CHA CHA CHA) ,1998
造形=松野光洋 カバー写真/カバー・デザイン=矢島高光
 

  ドラキュラものの3作目。前作(1918年の第1次世界大戦)からの続編なので、てっきりヒットラーの第2次大戦かと思っていたのは、評者の浅はかさ。そのあたりを匂わせながらも、40年後の冷戦下、1959年のローマへと舞台は飛ぶ。 今回は、戦後の主役である映像フィクションを潤沢に並べ上げている。『サスペリア』、『サンゲリア』といったイタリアン・ホラー、各種フェリーニや、007のボンドまで登場(しかし、パロディらしく格好だけの無能なボンド)、 趣向としては二番(三番?)煎じなのに、マンネリを感じさせない。
 本書の場合、主人公はドラキュラではない。バンパイアの3人の女性たち、彼女らが吸血鬼殺しの犯人を捜しながら、ローマの奥底に潜む魔物(これも映画が題材)と遭遇する物語である。
 無数の映画ネタが引用される(巻末の注釈を参照。これは労作)。評者も断片的にしか知らないけれど、雰囲気を理解する程度で十分。本質的というより、表面的な対応関係にあるからだ。作者は、オタク的知識を“目的”としていないのである。過剰な薀蓄はむしろ“結果”だ。そもそも、キム・ニューマンのドラキュラは、現代史を置き換えるものではなかった。現実世界にドラキュラという名の楔が打ち込まれ、歪んだ隙間からさまざまなフィクション(ホラー/SF/ミステリ、小説/映画)があふれ出し、史実と交じり合うというスタイルの面白さで出来上がっている (アニメと実写のハイブリッドのようでもある)。何度か書いたが、このサービス精神こそがシリーズの本質といえる。
 なぜ1959年か。前年にテレンス・フィッシャーの映画『吸血鬼ドラキュラ』が公開され、59年に原題でもある「ドラキュラのチャチャチャ」(どんな曲だったのかは不詳)がヒットしたからだろう。
 関係ないけど、この表紙の綴りは間違ってますね。

bullet 作者の公式サイト
本格的な並行世界ものとして、こんな共作も書いている。
bullet 『ドラキュラ紀元』評者のレビュー
bullet 『ドラキュラ戦記』評者のレビュー

2002/3/17

筒井康隆『愛のひだりがわ』(岩波書店)

カバー画・浅野隆広 装丁・坂川栄治+藤田知子(坂川事務所)
 

 著者の作品を貶せるレビュアーというのは、今の日本にはほとんどいないと思われる。それぐらい、筒井作品は存在感が大きい。もともとSFというアングラ分野出身のため、的外れな批判を書かれても、是非を問える読者は少なかったが、今頃そのようなことを書けば無知を晒すだけだ。しかし、たとえ理解者でも、「わが良き狼」とか『馬の首風雲録』などは、戸惑いをもって迎えられた。どことなく間の抜けた登場人物や、暴力はあっても残虐さのないシーン、ストレートな思いの告白や素直な性格、これらは作者の多数派の作品と比べると、微温的に見えて期待はずれと写る。そもそもどう評価していいか分からない。マジなのか洒落なのか不明となる(この点、いまどきの関西SF作家と似ている)。先入観のない読者のみが抵抗なく読めるのだろう。
 本書も、それら諸作に連なる作品である。
 近未来の荒んだ日本。母を亡くした主人公の愛は、父親を探す旅に出る。幼い頃犬にかまれた左腕が不自由だったが、不思議なことに、その左手側には、犬たちや友人たちが必ず愛を守るように従ってくれるのだ。
 著者によると、本書は主人公の成長と同時に、“物語”の成長を象徴する作品である。不幸な生まれから旅に出る冒頭の物語、旅の途中に立ちふさがるさまざまな障害を克服する物語、最後は 、逃げることしかできなかった主人公が別の人格に生まれ変わる物語であり、小説の発展と等価な構成となっている。と同時に、若い読者が主人公に感情移入して、その成長をなぞれるように考えられた児童文学でもある(ということであれば、この帯はちょっと不釣合い)。
 さて、そんな本書の意義は何か。やはり、(まだ訪れていない未来の)不幸な社会であっても、意思を持って生きる人たちは必ず報われる、という著者のメッセージにあるだろう。この未来は、若い読者が実際に生きる時代かもしれないからだ。その点、前向きに生きること=狂気とした、牧野修『だからドロシー帰っておいで』(先月のレビュー)と対照を成していて面白い。考えてみれば、本書は今大人の我々にとって、より悪い陰鬱な世界でしかないが、何も所有しない子供たちには当たり前で自然な世界なのである。

bullet 『わたしのグランパ』評者のレビュー
bullet 『大魔神』評者のレビュー
bullet 『筒井康隆全集1』評者のレビュー
これ以外の過去のレビューはこちら
bullet 『だからドロシー帰っておいで』評者のレビュー

2002/3/24

『SF JAPAN Vol.04(2002年春季号)』(徳間書店)

COVER ART:寺田克也
 

 まだ3回目ではあるが、SF大賞/新人賞を特集する『SF JAPAN』は面白い。前号からB5サイズで持ちにくいけれど、旧来のアニメ雑誌サイズではあるし、「SFアドベンチャー」当時のベタベタの中間小説誌スタイルを払拭、若手から新世代のオッサン層までアピールできる内容となっている。SFマガジン出身(本当は「宇宙塵」)とみなせる山田正紀も、こちらが主流であるかのようだ。早川書房は、「Jコレクション」という新しい日本SF叢書を立ち上げて対抗しているものの、マガジン出身の自前作家はゼロに近いのだから対照的である。
 最初の特集は山田正紀。『神狩り2』の一部を掲載。『神狩り』はこれだけで評価はできないので、単行本を待ちたい。押井守、笠井潔との2つの対談では、28年ぶりに原点(デビュー作)に戻り、続編を書く山田正紀の内面が伺える。我孫子、菅、田中、西澤、牧野ら5作家によるファンクラブ座談会は、(意図不明ながら)山田正紀大絶賛の内容。
 SF大賞『かめくん』については、北野勇作のユニークさが再認識できる。どの評価も“否定形”なのである。たとえば、「ジャンル分けできない、波乱万丈さ破天荒さがない」といった表現。日本ファンタジーノベル大賞(1992年第4回)の選評でも 、同じような表現になっている。「作者の心情は伝わってくるが、いつまでたってもお話が立ち上がってこない」というものだ。すなわち、お話の否定から、北野勇作の作品はスタートしているのである。しかし、なぜか賞をとる。今のところ、「量子論的離散小説」説が有力だが、評者にとっても納得の行く説明がつかない。こういうタイプの作家は初めてである。
 新人賞受賞作である井上剛『マーブル騒動記』は、ある日突然牛が知能を持ったら、というお話。TV局での昇進に野望を燃やすディレクターの家に、知能を持った牛が訪れ、TV出演を要求する(念波で会話ができる)。その牛は、牛の生存権「牛権」を主張するのだが…。
 物語の大半は、牛権のために混乱する社会(屠殺の禁止、牛肉の密売、牛たちの蜂起)といった、むしろ古典的な“擬似イベント”(死語ですが、架空の事件といった意味)風事件が描かれている。狂牛病騒動から、ある程度は連想可能な展開かもしれない。人物描写はやや類型的だが、文章やプロットは上々で、抵抗なく読み進められる (過去3回のSF新人賞でも最高に近いレベル)。選評での指摘もあって、知能化の意味/解釈も書き加えられている。一般読者向けの小説要件は、十分備えているといえる。問題は、SF新人賞としての価値をどう見るかだろう。本書の力点が現実社会の側に強くあって、たとえば、あらゆる動物の知能が向上する、ポール・アンダースン『脳波』(1954)ほどの“空想的な”広がりが希薄だからだ。

bullet 『SF JAPAN 00』評者のレビュー
bullet 『SF JAPAN 02』評者のレビュー
bullet 『かめくん』評者のレビュー
bullet 堀晃さんによる量子論的離散小説に関する言及
bullet 堀晃さんによる井上剛に関する言及
この節の末尾に記載あり。どうも堀さん周辺に受賞作家特異点があるようである。

2002/3/31

リチャード・マシスン『ある日どこかで』(東京創元社)
尾之上浩司訳 Somewhere in Time (Bid Time Return),1975
カバーイラスト:佳嶋 カバーデザイン:柳川貴代
 

 一部ファンの間では、1980年の映画版(ヤノット・シュワルツ監督)や、1995年の宝塚歌劇版が有名。きわめて詳細な瀬名秀明解説も付いており、翻訳でもようやく決定版が出たといえる。時間旅行の方法は、ジャック・フィニイ・ドライブ(『ふりだしの戻る』『時の旅人』を参照)。この時間旅行は過去に向かってのみ作用する。ハイテクは必要ない。その時代の持ち物と服装をして、当時からある建物の中で、過去へ到達したいとひたすら願うだけでよい。ただし、思いが強くなければ、決して過去の扉は開かないのである。
 主人公は、若くして不治の病を負った作家。余命は少なく、自暴自棄に駆られていたが、サンディエゴのホテル・デル・コロナードに滞在中に、一人の女優 エリーズ・マッケナに強く惹かれるようになる。彼女は19世紀のある日に、このホテルで舞台公演をしていた。女優の生涯を調べるうちに、彼は19世紀へと旅立つ決心を固める。ジャック・フィニイ・ドライブで導かれた主人公の恋は、まさに運命のように成就する…。
 フィニイが考案した“思いのタイムマシン”というアイデアは、多くの読者や作家を魅了した。マシスンが本書で描き出した、過去に生きた女性との恋も、もともとはフィニイの短編で見られたものだ(とはいえ、フィニイ自身が偏愛していたのは、特定の人物ではなく過去そのもの)。下記のレビューでも明らかなように、わが国ではグリムウッド『リプレイ』の影響が強かった。しかし、本書のような古典的ロマンティシズムは、いかにも日本人好みなので、今後応用展開が増えるのではないか。いまどき、一瞬のラヴ・ストーリーを動機付ける設定など、そう簡単には生まれてこない。
 なお、下記のホテル写真と、ヒロイン写真を見てから小説を読むことを推奨する。

bullet ホテル・デル・コロナードのHP
本書の舞台となったホテル。演劇の行われたホールの写真もある。
bullet 本書のヒロインのモデル、モード・アダムス(エリーズ・マッケナ)関係のHP
写真が多数掲載されている。
bullet 『奇蹟の輝き』評者のレビュー
bullet 『リプレイ』評者のレビュー
bullet 『Y』評者のレビュー
bullet 『イエスタディ・ワンス・モア』評者のレビュー
bullet 『昭和は遠くなりにけり』その他、時間SFに関する言及
bullet 『時の旅人』評者の簡単なコメント
ここでも書いたが、ジャック・フィニイのアイデアは、長編よりも短編集の方が古びていない。

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