2001/2/4

スティーヴン・キング『ザ・スタンド(上)』(文藝春秋)
 昨年11月に出た本ながら、何というか読み始めるタイミングを逸してきた(という状況は今でも同じですが)。スパイダー・ロビンスンは、かつて、「こんな本は買うな」と酷評した。その文脈は不明ながら、何となく分かるような気がする。
 アメリカ軍の生物兵器研究所で、致死率99%のインフルエンザ類似のウィルスが漏出する。厳重な警戒態勢が執られたものの、感染率も極めて高く、アメリカは数日のうちに壊滅に向かって歩み始める…。
 というアイデアは、1978年の発表時でも既存のものだった。小松左京の『復活の日』(1964)を出すまでもない。しかし、本書でキングが描こうとしているビジョンが、いわゆる破滅もの、破滅後ものとはまったく異なるものであることは、この上巻を読んだだけでもおおよそ推測ができる。
 まあ、とにかく人が死ぬ(たぶん、この点に、スパイダー・ロビンスンは反感を抱いたのだろう)。病院で、牢屋で、ニューヨークで、田舎町で。最後に残されたのは、犯罪者、聾唖と知恵遅れの青年、妊娠したティーンエイジャーと、おたくの少年、ロックンローラー。けれど、彼らの夢の中に奇妙な共通の光景が見え隠れる。1つは玉蜀黍畑の老女(上巻の表紙)、もう1つは暗黒の死神(下巻の表紙)。強迫観念にとらわれる人々のありさまは、キングの諸作の集大成とも読めるものだ。以下、下巻につづく。
装幀:藤田新策

2001/2/11

装幀:藤田新策 スティーヴン・キング『ザ・スタンド(下)』(文藝春秋)
 ようやく下巻。
 本書は、もともと確たるテーマを掲げずに(1200ページ)書かれたとされる作品。物語はSFに始まり、破滅後の世界の再建から、一見、神の代理人マザー・アバゲイル(老女)と、悪魔の代理人フラッグとの戦い(最終戦争)という黙示録的なテーマへ移行するように読める。読めるが、意外にもそれはサブテーマとしか思えない。悪役のおたく少年も、思ったほど悪辣には描かれず、そもそも、究極の悪魔のはずのフラッグさえ、悪魔性の徹底という意味で、物語の焦点にはなっていないのである。
 ここまで書かれた多数の主人公たちは、あまりに性格が際立つために、むしろ“抽象化された”異界の存在の影を薄くしている。お話の配分(重点)は、発端に30%、主要な人物たちに60%、結末に10%程度となる。結果的に、テーマは希薄になった。ただ、そのことが、本書の魅力を薄めたわけではない。キングの面白さは、ある意味でデフォルメ化された人間模様そのものにあるのだから。少なくとも、「ザ・キッド」(アメリカン大阪ヤンキー)とか「ゴミ箱男」(火付け男)とか、こんな人物が書けるのはキングだけだ。

2001/2/18

デュアル文庫編集部『少年の時間』(徳間書店)
 デュアル文庫オリジナル・アンソロジイ。「少年」という言葉に、青春小説と時空的拡がりを加味したテーマ・アンソロジイでもある。
 さて、しかし少年とは、上遠野浩平にとって、特殊体質の戦闘兵器であり、菅浩江にとって、(ネットおたく)少年と(愛玩ロボット)犬であり、平山夢明にとって奴隷クローン、杉本蓮にとって(ソラリスの海のような)子供の無意識である。西澤保彦にとっては、父と幼馴染への鬱屈した感情に変化し、山田正紀には社会や体制に対する深く抑圧された反発心と見える。千変万化な点は、評価できる。
 巻末にある「ハイブリッド・エンタティンメント」座談会(大森望、西澤保彦、山田正紀)では、ミステリでもSFでもホラーでもない本書のような作品と、従来の諸作とは、何が異なるかが論じられる。大森はジャンルの歴史的経緯から解き明かそうとし、山田は少数派だった感性が“今”になって大勢を占めた結果だとする。ただ、一番分かり難いのは、そのような論議が、なぜ本書に掲載されているかである。おそらく、本書を読み進めた読者は、ここに最大の違和感を覚えるのではないか。本来ならば、前書きにもっとストレートな趣旨を書くべきなのだろう。
COVER ART:寺田克也
ILLUSRATION:前田真宏 北野勇作『かめくん』(徳間書店)
 この作者の作品を読むのは、ファンタジーノベル大賞優秀賞『昔、火星のあった場所』(1992)以来である。この後、角川書店から『クラゲの海に浮かぶ舟』(1994)が出ているものの残念ながら未読。小さなエピソードを無数にちりばめて書く手法は、受賞作とよく似ている。堀晃さんの表現を借りるなら、量子論的拡散手法となるのだろうか。
 木星での宇宙戦争兵器として開発された、ヒューマノイド(しかしカメに似ている)が、なぜか失業し下町のボロアパートに転居してくる。記憶を甲羅に封印しているために、彼には過去の記憶がほとんどない。感情の起伏もなく、思いもまたのんびりと通り過ぎるのみ。そんな日常が点描の形で、描き出されている。
 作者はカメ好き、本書の日常描写も関西人の作者と重なる部分がある。とはいえ、冒頭と末尾に(これまたさりげなく)書かれた、兵器としての悲哀については、もう少し点描の中でも触れたほうがよかったと思われる。やや離散的に過ぎた。

2001/2/25

ロバート・J・ソウヤー『フラッシュフォワード』(早川書房)
 ソウヤーの時間もの。CERNに設置された巨大なハドロン衝突型加速器による実験は、“全人類”の意識を21年後の未来に、数分間だけ送り込んでしまう。彼らが幻視した未来は避けがたい運命なのか、それとも変更可能な蓋然性に過ぎないのか。そもそも、個人が自身の未来を変更できるのだろうか。
 ソウヤーの作品は、アイデア本体というより、それに付随する人間ドラマに焦点が向くことが多い。本書でも、21年後に殺されることを知った物理学者や、事件の副作用で娘を亡くした恋人との関係を悩む、CERNの科学者など、人間模様に重点が置かれている。ただ、その部分を強調すればするだけ、SF的なビジョンとの乖離が拡大する。たとえば、結末に置かれたステープルドン的黙示録と、人間ドラマとの並置には相当な無理を感じる。
カバーイラスト:加藤直之,カバーデザイン:ハヤカワ・デザイン
イラストレーション:水玉蛍之丞,デザイン:小倉敏夫 SFマガジン編集部編『SFが読みたい! 2001年版』(早川書房)
 昨年から始まった、SF版「このミス」は、形式を継承して今年も刊行された(表紙の色は変えた方がよいと思います)。日本SFでは、昨年が『クリスタル・サイレンス』、今年が『永遠の森 博物館惑星』で、純SF(ハードSFという意味ではない)への希求が根強いことを感じさせる。
 ベストの詳細は同書をご覧いただくとして、面白いのは座談会「2001年、SF解放宣言!」である。最近、発言の機会が増えた山田正紀と、SFクズ論争仕掛け人鏡明()、調停者兼アジテータ大森望による、現代SFを縛る呪いを読み解く試み。鏡は、SFは“未来”(日本SFは“未来”を掲げた小松左京に始まる)を失ったことにより停滞したと述べ、山田はそこに人への回帰による復活を提唱してきたわけだが、座談会では、むしろ、ここ10年の作家山田正紀の迷いの吐露に注目すべきだろう。一見、SFはマニア向けの専門的書物(表紙参照)に見えるが、実際は広範な読者を対象とした大衆小説のスタイルで書かれている。SFが抱えているテーマの喪失、影響力の枯渇問題は、実は大衆小説としてのビジネスの失敗とも、密接に関連しあっているはずなのである。この類の小説を広げるためには、個々の作家の努力だけでは足りない。
 それにしても、大森望の写真は、なんだか白髪になった70年代の川又千秋みたい。

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