野尻抱介『ピニェルの振り子』(朝日ソノラマ) ソノラマ文庫のレビューは久しぶり、というか本来評者の守備範囲ではないが、なるべく取り上げていく方向で考えたい。 宇宙SFで定評のある筆者が、(昔の)男の子の世界では定番だった“昆虫採集”に挑んだシリーズ。19世紀の世界から、人々が何者かによって運び去られ、遠い宇宙の惑星に植民させられる。彼らは、やがて宇宙旅行の手段を当時のテクノロジーレベルのまま獲得し、星ぼしの植民地支配に乗り出す。主人公は、とある植民惑星で、有閑階級向けに昆虫を集める採取人だったが、偶然、貴族の貿易船に乗り組む博物学者と図版画家(図工)の少女と出会う…。 設定はファーマーのリバー・ワールド風(人類のあらゆる時代から、人々が無限に流れる河のほとりに連れ去られる)。新奇な宇宙生物を巡る博物誌といえば、山田正紀『超・博物誌』(1980)(またはここ)を思い浮かべる。本書は、少年の願望に、作者自身の夢を重ね合わせた内容である。共感を覚えるが、19世紀の博物学者の執念を感じさせる描写(博物学者ではないが、ウォレスの『マレー諸島』(筑摩文庫)等に見られる執拗なまでの探究心)がさらにあれば、深みが増したのでは。 |
スティーヴン・キング『骨の袋』(新潮社) 標題「骨の袋」とは、作中でトマス・ハーディの言葉として述べられたもの。血肉のない、骸骨を覆うだけの袋と化した人を(象徴的に)指す。 ロマンティック・サスペンス作家の主人公は、ベストセラーの末尾に顔を出す、いわば上の下に相当する小説家だった。彼には大学時代に知り合った妻がおり、何の不満もない生活を続けていた――ある日、その妻が急死する。途端に小説が書けなくなり、そのうち、生前妻が探っていた秘密が一つ一つ明らかになっていく。やがて、彼は父親を無くした若い母娘に出会うが…。 物語の舞台は、例によってメイン州ダークスコア湖。そこには、<セーラ・ラフス>と呼ばれる別荘がある。今回は、呪われた館風であり、映画『ポルターガイスト』を思わせる展開となる。100年前の呪われた事件が、主人公の妻や、若い母娘、醜悪な老富豪らと絡み合って、しだいに全貌をあらわすのである。 通例のキングの作品との違いは、主人公の作家像がより本人に近いこと。ライターズ・ブロック(書けなくなること)の意味を、より作家的観点から示してくれていること。一方、亡くなった妻らがゴーストとして味方するなど、主人公の救いも用意されている。癒しを求める読者向きでもある。 |
菅浩江『永遠の森』(早川書房) 博物館惑星は地球にあるあらゆる事物を収録・保存する組織である。主人公は、そのなかで専用データベースと直結するインターフェースを備え、さまざまな部局の矛盾する要望をコーディネートする(ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』に出てくる、情報総合学者エリオット・グローヴナーのような役割)。とはいえ、本書で描かれるのは、実は展示品の奇妙さにあるのではない。主人公らは、展示や調査などさまざまな問題の中に、傷ついた人の心そのものを見つけ出そうとするのである。精神に病を負った人にしか聞こえない調べ、正体不明の人形に込められた思い、ホログラムを写す着物の探索、天才舞姫のフィナーレ、宇宙で見つかった謎の砕片、ナノテクで創造された森の秘密(標題作)…。 前作『雨の檻』以来、SFファンの琴線に触れるという意味では、菅浩江に相当する作家は他に例を見ない。本書で顕著なのは、登場する人々に対する作者の共感である。誰もが心の片隅に持つ、挫折や哀しみに対して、菅浩江はあくまでも優しく慈しみを持って接する。中では、やはり標題作がアイデアと物語のバランスもよく、ベストか。 |
秋山瑞人『猫の地球儀』(メディアワークス) 1月/4月に出た本。話題作を今ごろ読む。 遥かな未来、トルクと呼ばれる巨大な円筒状の人工天体では人類が死絶え、代わって猫たちが世界を支配している。そこでは閉鎖社会を維持するため、宇宙飛行の概念さえも処刑の対象とされる――という設定は、しかしあまり語られず、本書では「焔」と呼ばれる孤独で豪腕な猫と、やはり孤独なスカイウォーカー(宇宙飛行士)「幽」との愛憎・対決物語が主体を占める。猫同士がロボットを使って戦う、格闘シーンがクライマックス。 結局、あとがきで語られる猫世界のガリレオや、ロケット・ボーイ的な部分が希薄なまま終るところに本書の弱点がある。手足の使えない猫にロボットがつく設定はよい。とはいえ、猫であるが故の世界、猫的世界のありさまが少しも明らかでないのが残念(説明不足はジャンル上やむを得ないとして、ビジュアルな描写がほとんどないのが気になる)。まあ、ソウヤー『占星師アフサンの遠見鏡』(恐竜が支配する世界のお話)もまったく評価できなかったので、本書を論ずる立場にはないのかもしれないが。 |