2007/1/7
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凡そ1年前(正確には2005年の11月)から、スティーヴン・キング未完の大長編ダーク・タワーの刊行が再開された。そもそも角川書店から最初の『ガンスリンガー』(池央耿訳)が出たのが1992年のこと。以降96年にII、97年にIII(この巻から風間賢二訳)、2000年にIV(原著は97年)が出て以来、5年間刊行が止まっていた。しかし、原著が2004年に完結したことを受け、しかも、その機会に原作の手直しも入ったこともあって、最初の巻を含めての全面改訳が行われ、1年がかりで2006年12月に完訳となったわけだ。そもそも22年もかかって(しかも長期の空白がある)書き継がれたシリーズなのだから、(たとえ書き直しが入ったとしても)お話が完全に一貫するわけもなく、読み手に混沌を感じさせるという(半ば意識的な)効果も併せ持っている。
評者も一気に全16冊紹介と思ったものの、今回はそのうちの前半3部(5冊)のみをまず紹介する。
第1部(I)はガンスリンガーの登場編。最後のガンスリンガー(拳銃名手の意だが、本シリーズでは象徴的な地位/役割を指す)であるローランドが黒衣の男を追跡する。ここでローランドの非情さと少年ジェイクとの最初の出会いが描かれる。
第2部(II)はガンスリンガーと旅の仲間との出会いが描かれる。ケチな麻薬の運び屋エディと、対照的な二重人格を持つ不具者スザンナが、それぞれ自身を確立するまでが、中間世界と現代(60年代/80年代)とを繋ぐドアを介して語られる。
第3部(III)は、ジェイクが再び登場する。ジェイクは自らの運命に従い中間世界へと抜け出る。そして廃墟となった巨大都市ラドで、彼らをビームの指し示す目的地へと導く邪悪な知性を持つ列車と出会う。
キングのファンタジーの多くは“純粋”なものではない。どこかで現実世界と結びついている。第1部はマイナーなSF雑誌(といっても、SF界では老舗)F&SF誌に掲載された関係で、最初こそ現実味に乏しかったが(またそれ故に、一般読者には理解しがたい作品だったが)、次第に作者の既存作品や原初的なテーマと共鳴するようになる。キングのテーマは科学的というより、宗教的かつ(キリスト教から見て)異教的である。<カ>と呼ばれる宿命と、虚無的な世界観は、(訳者も指摘するムアコックに似てはいるが)既存のSF/ファンタジーでは読めない特異なものといえる。
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2007/1/14
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さて、中盤の第4部と第5部である。第4部までが3〜6年ごとに書かれ、第5-7部はさらに6年後に一気に書かれたものなので、本当ならば1-4、5-7と紹介するのが正しいのだろう。
第4部(IV)は、第3部の終わりで閉じ込められたロボット列車(モノレール)で、壮絶ななぞなぞ合戦を打ち勝った一行が、カンザス州の州都にたどりつくところから始まる。しかし、そこは疫病により人口のほとんどが死滅した別世界のカンザスだった。そこで、ローランドは自身の少年時代の恋と絶望の体験を語る。その後、彼らは現出したエメラルドの都で、かつての敵と遭遇する。
第5部(V)は、再び暗黒の塔への旅路を急ぐ彼らが、豊かな農村を通り過ぎようとする時、助けを求められるところから始まる。村には、20数年に一度<狼>と呼ばれる盗賊の一味が現れ、子供たちをさらっていくという。ローランドたちは村人たちを訓練し対抗しようとするが、村には意外な秘密があるようだった。一方、一行の中にも不協和音が生じ始めていた。
気がつくポイントとして、第4部で『オズの魔法使い』がそのままのイメージで登場する点、第5部に西部劇(マカロニウェスタン、『荒野の七人』/『七人の侍』)が比喩でもなんでもなく、原型のイメージのまま採用されている点などがある。そういう臆面のなさが、ある意味非常にキング的なのである。キングはよく実在する固有名詞(例えば商品名や商標名)を、物語の中で効果的に使用する。ありえないフィクション(キングの場合ホラー)を読者の身近に寄せるという意味がある。これと全く同じことをファンタジイでも実践しているのだ。読者が周知の設定で書くことにより、お話を“接地”させようとしているのである。プロフェッショナルなSF読者の中にはその歪さ(中途半端な創造世界)を嫌う者もいるけれど、少なくとも一般的なキングの読者にとっては、この方が親しみやすいと思われる。
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2007/1/21
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完結編、第6部と第7部である。ここで注目されるのは、作家スティーヴン・キングが物語に登場することだろう。
第6部(VI)は、第5部で村人の災厄を救ったのもつかの間、妖魔の子供を宿したスザンナが、ドアを抜けてニューヨークに消え去るところから始まる。後を追うローランドらは別の時代1977年に飛ばされ、敵の待ち伏せに遭う。一方、彼らはそこで売れない作家スティーヴン・キングと出会い、驚くべき“物語”との関連を知る。
第7部(VII)は、妖魔の子の誕生から始まる。その子は父殺しの宿命を背負っている。ビーム世界の秩序の破壊者たちとの死闘、1999年に事故死するキングを救うためと、仲間は一人一人倒れていく。やがて、ローランドの行く手に暗黒の塔へと続く道筋が見えてくる。
キングの自伝的な小説論『小説作法』には、(主題以外に)自身がアルコールに溺れたり、麻薬中毒にまで至る様子が描かれている。まさに作家の重圧に負けていた時代があったのだ。これは本書に登場するキャラハン神父や、エディという主要登場人物と重なり合う。また、本シリーズを2000年に再開するきっかけは、1999年に瀕死の自動車事故に遭うことだったのだが、第7部ではこのエピソードが(事実そのままに挿入されており)大きな役割を果たしている。
以上からも、なぜキングがこのシリーズを最重要と看做すのかが分かるだろう。人生の中で、常に見え隠れしてきたガンスリンガーの物語が、そのまま自身の半生と直結するからである。これはフィクションを客観化/抽象化するメタ・フィクション(キング自身大嫌いな表現と述べている)とは全く正反対の手法で、ある種破天荒な“私小説”となっているのである。
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2007/1/28
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コニー・ウィリス『最後のウィネベーゴ』(河出書房新社)
The Last of the Winnebagos and other stories,2006 (大森望訳)
カバー装画:松尾たいこ、シリーズ造本設計:阿倍聡、ブック・デザイン:祖父江慎+安藤智良(コズフィッシュ)
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ウィリスの中編集である。12編を収めた短編集 Impossible
Things(1993)から、中篇相当の4編を抜き出したものが本書。もともとの短編集自体、アイザック・アシモフSF誌(IASFM)掲載作が大半だった関係で、本書の作品も全て同誌に載ったもの。分厚い長編を書き出す90年代より前(15〜20年前)のものだが、ウィリスらしさは良く出ている。
「女王様でも」(1992):月経が薬品によって完全に抑制できるようになった未来、自然な生理/出産を求めた娘に親たちは動揺する
「タイムアウト」(1989)*:マッドな時間理論を実証するために“中年の危機”を利用された被験者たちの運命
「スパイス・ポグラム」(1986)*:日本管轄の植民衛星で巻き起こる宇宙人とのファースト・コンタクト騒動
「最後のウィネベーゴ」(1988):道路規制が進み犬が疫病で死滅した未来、一人のジャーナリストの過去と古びたウィネベーゴが交錯する
* …初訳
それにしても、ウィリスの登場人物はよく喋るのである。最初の3つの作品は、ひたすら続く会話だけで成り立っているようにさえ錯覚する。改めて文章を見ると(地の文も多く)それほどでもないのだが、実感はそうなのである。会話の中で、姑/母親/娘のすれ違い(「女王様でも」)、男女のすれ違い(「タイムアウト」「スパイス・ポグラム」)が、コミカルに(古いコメディ映画風に)描き出される。
さて表題作は、後の長編で存分に発揮される作者の技巧が冴える作品だ。主人公はビデオ・ジャーナリスト。道路規制で大型車の自由な運行が禁止される中、最後の大型キャンピングカー(ウィネベーゴは商標で上記のリンクから辿れる)を取材する。その途上で一匹のジャッカルの死体を発見する。この世界では犬が絶滅している。類縁のジャッカルだけが生き残り、手厚い保護を受けている。ひき逃げは重罪だ。彼は昔飼っていた犬を失った経緯を思い起こし、それを契機にさまざまな隠された事実を知るようになる。一見無関係な事件が、1点の出来事から“結晶化”をはじめ、巨大な構造を明らかにする…というウィリス・スタイルを象徴する作品だろう。
山本弘が京都SFフェスティバルで言っていた「一切SF用語の出てこないSF」というのは、アメリカならばやはりウィリスあたりが近いのではないか。
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