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「この本の目的は、ただの歴史でもなければ絵空事でもない。神話なのである…」 2月に出た本ながら、並みの小説ではないので、読むのも延び延びになってしまった。オラフ・ステープルドンの歴史的古典にして、本邦初訳の注目作である。しかし、読み始めるとその未来史は、まさに果てしがない。単なる人類史とは異なる、20億年の神話が物語られている。 神話は、近未来から始まる。(1930年当時の世界情勢を敷衍した)覇権争いは、英仏、露独、欧米の各戦争後、疲弊したヨーロッパを離れ、遂に中国と米国の争いを経て、アメリカ経済による世界国家の時代となる。第1次世界国家は2000年にわたり繁栄する。しかしエネルギーの浪費により崩壊、資源が枯渇した反動で、以後10万年にもわたる長い暗黒時代が続く。その後、南米に興ったパタゴニア文明は、500年にわたって緩やかに世界に浸透し、遂に核エネルギーの秘密に到達するが、ある偶然から核の連鎖反応を起こし、環境は完全に破壊されてしまう。こうして、第1期人類は滅亡し、1000万年に及ぶ暗黒時代が到来する。 大陸は形を変え、生き残った数名の人類は、独特の進化を経て200歳の寿命を持つ巨人に姿を変えていた。第2期人類である。彼らは高度な共感能力を持ち、35万年の間に消長を重ねながら、資源の乏しい中でようやく世界国家を築くことができた。だが、ここに火星生命の侵攻が生じる。火星の知性は、大気や水が不足する中でウィルスのような微小な生命の集合体に進化し、1つの精神として機能しているのである。彼らは、地球の水を奪取するために、太陽風に乗って侵略してきた。戦争は断続的に5万年にわたって続けられ、末期には双方を滅ぼす生物兵器により、火星側が全滅し終結する。しかし、人類の文明も失われ、原始の状態に停滞したまま3000万年が流れすぎる。 第3期人類は、小柄で寿命も50年ほどだった。6本の指を持ち、生命の改良に余念がなかった。数十万年にわたる文明は、改変への執着の結果、ついに人工の生命、頭脳だけの人間の創造に至る。巨大な脳と、脳を維持する装置/組織だけで成り立つ人類、第4期人類が誕生する。仲間を増やし、遂に第3期人類を滅亡させるが、究極の真理を得るためには理想の肉体が不可欠であると結論し、第5期人類を創造する。彼らは火星由来の精神感応能力を有し、3000年の寿命を持ち、巨大脳人類が滅びた後、地球中を100億の人口で満たした。繁栄は数千万年に及び、最後には寿命も5万年に延びた。けれど、彼らにも月の接近による破滅は防げず、金星への移住を強いられるのである。 金星のテラフォーミングを進める中で、彼らは固有生命を絶滅させてようやく根付く。文明は原始に還り、知能を第1期並に復活させた第6期人類が蘇るまで2億年が過ぎていた。彼らから生まれた第7期人類は、蝙蝠のように空を飛ぶ小柄な人々だった。凡そ1億年の歳月が、進歩の止まったまま続く。第8期人類はまた地上に戻り、金星を工学的に作り変えていった。しかし、太陽を白色矮星に変える異変を察知し、遠く海王星への移住を決意する。 ここまでで、10億年の歳月が流れすぎている。海王星に移住した人類は、大気が安定する頃には原始生物まで退化し、第10期人類と呼べるまで進化するのに3億年をかけていた。さらに3億年後、第16期人類は惑星軌道を変更する能力を持ち、やがて太陽の超新星化を待つ、寿命25万年という第18期人類を創造する。 「最後の人類」は、「最初の人類」の口を借りて人類の神話=本書を物語るのである。 以上で分かるように、本書の人類というのは、厳密な意味での「人間」ではない。ちょうど我々が、遠い昔の原始哺乳類の子孫であるように、人類が激変で何度も何度も原始哺乳類並みに退化し、再度知性を得て「人類」となる過程が、20億年にわたって書き綴られているのである。そしてまた、各時代の「人類」たちが、何を求めて世界を営んできたかを、さまざまな観点で書き記したところに本書のキーポイントがある。初期のアーサー・C・クラークらへの影響など、インパクトは認められるが、本書の直系の子孫は存在しない。章を経るごとに100倍に拡大される時間スケールの壮大さを含め、SF/ファンタジイ中唯一の奇跡的な創造物といえる作品だ。
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森奈津子のSF短編集。著者には、ライトノベルの学研レモン文庫を中心に40冊近くの著作がある。SF短編集『西城秀樹のおかげです』(2000)では、SF界の注目も集めた。その作者の第2「SF」短編集という位置付け。テーマは“性愛”で、もともと森奈津子が得意とする分野――なのであるが、本書の趣はちょっと違う。 標題作「からくりアンモラル」では、妹のロボットを誘惑する姉が描かれる。 「あたしを愛したあたしたち」では、未来からやってきた自分の分身たちに性の手ほどきを受ける。 「愛玩少年」は、新人類ヴァンパイアに飼われる少年と少女の被虐的な立場が書かれる。 「いなくなった猫の話」では、猫とのハイブリッド(擬似人間)をかつて養い、失った女が酒場で独白する。 「一卵性」の妹は、シンパシー(共感)能力で姉の感情を窃視る。 「レプリカント色ざんげ」では、主人の夜伽用に作られたアンドロイドが性の遍歴を語る。 「ナルキッソスの娘」は、美貌で金持ちのヒモを転々とする父親に反発する娘を描く。 「罪と罰、そして」では、下半身不随の少女と使用人が、感覚を記録/再生できる“共感ボックス”で結ばれる。 大半は三人称で書かれている。とはいえ、各作品で目立つのは強烈な自己愛、自己憐憫だろう。ある場合は主人公の自分勝手な幼さの象徴であり、別の場合では逆境に生きるための知恵として肯定的に表現される。いなくなった猫、捨てられたぬいぐるみ(「ナルキッソスの娘」)という(作者自身の)まったくプライベートな思いと、大人になりきらない少女の感情/ナルティシズム/性愛とが融合して、“失われた青春への悲哀”まで昇華されている点が貴重。
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プリースト久々の新訳。前作は2000年に出たノヴェライゼーション、その前は95年に出た『魔法』(1984)である。 ファンタジイマークで出た1冊だが、本書からは“よく似てはいるが異なるもの”という意味で、SF/ミステリ/幻想小説の混交を読みとることができる。そもそも「プレステージ」という標題に、通常の「栄光」だけでなく「奇術師」(しかも、さらにもうひとつ別の意味)を含ませるなど、本書の多重性はマニアックの域に達している。 19世紀末、2人の奇術師がいた。1人は木工職人の息子ボーデン。興味を持った奇術で名を上げたいと考えていた。もう1人は貴族の次男エンジャ。家名を捨て、奇術で生きようとしていた。そんな2人の出会いは不幸なものだった。以来お互いの実力は認めながら、相手の活動を妨害し合うようになる。しかも、2人とも離れた場所に自身を瞬間移動させる、大仕掛けの奇術で競い合う。ただ、その実現方法はまったく異なっていた。 本書の構成は、 1)現代の奇術師ボーデンの子孫に、祖先ボーデンの書いたという本が送られてくる 2)途中に奇妙な乱れの入った、ボーデンの自叙伝で語られる争いの実態 3)エンジャの子孫ケイトの記憶する、奇妙で恐ろしい出来事 4)エンジャの日記で分かる、2人の奇術師の争いと瞬間移動の秘密 5)再び現代に戻って、明かされるもう一つの真相 本当なら、本書は2)だけ、4)だけでも1つの物語になる。これを融合したのには、もちろん意味があって、複雑に絡んだ2つの対立を象徴するためだ。たとえば、ボーデンとエンジャの子孫、ボーデンとエンジャ、ボーデンのアシスタントと妻、そのアシスタントとエンジャ、ボーデンともう一人の人物、エンジャともう一人(?)の人物、さらに物語と読者と、多重化された2項対立である。とはいえ、難解なお話ではない。なんといっても奇術師の物語なので、ニコラ・テスラまで使った派手な目くらましを楽しむことが肝心だろう。
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河出の短編集“奇想コレクション”第4弾はエドモンド・ハミルトン(1904-77)である。 ハミルトンといえば、日本でもスペース・オペラ“キャプテン・フューチャー”が有名だ。本書のような短編はマイナーな部類に入る。パルプフィクション時代の作家は、アイデアを使い棄てるような書き方をする。たとえば“レンズマン”のE・E・スミスが典型で、シノプシスのような物語に過剰な趣向を凝らしている。ただそれは、おそらくあの時代の読者が求める小説の形態がそうだったからだろう。しかし、生きるために書き飛ばしてきたスペース・オペラと違い、短編は作者オリジナルのアイデアがより際立って読める。 「フェッセンデンの宇宙」(1937) 天才科学者が創造したポケット宇宙。 「風の子供」(1936)* 探検家が出会う少女と、生きている風の台地。 「向こうはどんなところだい?」(1952) 帰還した探検隊員が独白する火星の真実(「何が火星に?」)。 「帰ってきた男」(1935) 棺の中で蘇った男が知った現実とは。 「凶運の彗星」(1928)* 軌道を変え人類壊滅をもたらす彗星。 「追放者」(1943) サロンで語られるSF作家の秘密。 「翼を持つ男」(1938) 翼を持って生まれた男の生涯。 「太陽の炎」(1962)* 水星で人類が遭遇する異種の生命体。 「夢見る者の世界」(1941)* 男が毎夜夢見る異世界と、覚醒後の世界の落差。 *…本邦初訳 「ウィアード・テールズ」から5編、「アメージング・ストーリーズ」から2編、その他2編という構成。 ハミルトンのスペース・オペラ『スター・キング』(『天界の王』)は、現実では冴えないサラリーマンが、夢の中で銀河帝国を統べる皇子だという、(文字通りの)現実逃避/願望充足型SFで人気も高い。本書の収録作の多くも同じ特徴を持っている。登場人物たちは、別世界で英雄/神であっても、こちら側の現実では単なる人生の負け組という、SF版「負け犬の遠吠え」(夢見がち、存在感なし、中年?)人間なのだ。でもまあ、別世界で英雄ならそれもいいんじゃ…と思わせる普遍性が、本書を共感を持って読める今日的内容としている。
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購入が1ヶ月も遅れた関係で、今ごろレビューしています。皆さんは既にお読みでしょうか。相変わらず長くて饒舌なコニー・ウィリスの、ヴィクトリアン・タイムトラベル・ユーモアSF。 21世紀、第2次大戦で焼失したコヴェントリー大聖堂を再建するプロジェクトのために、オクスフォード大学史学部に学ぶ主人公は、聖堂内に置かれていた「主教の鳥株」と呼ばれる花瓶の行方を調査させられます。しかし、奇妙なことに、何度も繰り返されるタイムトラベルは、目標地点に到達できないという重大なトラブルに苦しめられます。タイムトラベル理論では、時間の流れに矛盾をきたす行動は自動的に回避されます。とすると、どこかで流れを乱す出来事が起こっていることになる。折りしも、19世紀末ヴィクトリア時代から、一匹のメス猫が連れ帰られますが…。 ――それと、「犬は勘定に入れません」って、何の関係がある? まあ待って、相変わらずあらすじが書きにくいお話なんで。メインテーマは3つですね。 1)「主教の鳥株」はいったいどこに行ったのか。 2)連れ帰られた猫に伴うタイムパラドクスは如何にして修復されるのか。 3)上記1、2はどう関連するのか。 以上の3点。1)は、第2次大戦中のドイツ空軍爆撃当日と21世紀が舞台。2)では、19世紀末ヴィクトリア女王の治世下、贅沢と有閑の極みを尽くす上流階級が描かれます。当時の上流階級で流行った舟遊びをユーモア小説にした、ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』(1889)の副題が、『犬は勘定に入れません』なんですね。本書でも、三人男と犬のコンビが船で川下りをします。猫との関係はというと、21世紀では疫病で絶滅した猫の存在は、当然タイムパラドクスなのですが、それだけではない。結婚していたはずの男女の出会い/運命が変わり、将来の時間線を乱す可能性がある。時間の流れはカオス系、ということはちょっとしたことが大きな変動要因にもなりうるわけですね。しかし、誰と結婚したかの記録が判然としない。主人公と、同僚女性(20世紀初頭の古典ミステリファン)との、犯人(結婚相手)探し推理がもう一つの伏線になっています、と書いただけでも盛りだくさんでしょう。3)はメインの謎解きなので、ここでは書けません。ウィリスの楽しみ方は、抜群の構成力を誇る作者の腕前を信用し、ひたすらお話にのめり込むこと。薀蓄(たとえば『奇術師』に出てきた19世紀末の降霊会、『クリプトノミコン』のエニグマとウルトラなど)は山ほどありますが、余計な考察は、あまり意味がないと思います。
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