2008/4/6
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副題にある「実存」とは、実存主義のこと。この言葉は、『虚無回廊』(単行本1987)に登場する人工実存(AE)にまで連なる著者生涯のテーマとなった。本書は日本経済新聞に連載された「私の履歴書」欄の内容からなる第1部「人生を語る」と、小松左京研究会によるインタビュー(聞き書き)第2部「自作を語る」から構成されたものである。
千葉出身の父親が大阪で工場を始めたあと、1931年に生まれる。少年時代は阪神間で過ごし、やがて(旧制)神戸一中に進学。勤労動員の経験を経て、終戦後高島忠夫とのバンド結成、自作漫画で小遣いを稼ぐ一方で京都の三高に進むが、学制改革で1年後に京都大学に入学。大学時代は(反戦平和の旗印として当時流行だった)共産党の党員になり、文芸サークルで高橋和巳との親交を得る。卒業後は業界誌編集者、ラジオで漫才台本を書く傍らSF(1960年2月のSFマガジン創刊号)と出会う。SFコンテストで選外努力賞(第1回)、入選第3席(第2回)を受賞。その後1964年に長編『日本アパッチ族』、『復活の日』を出版、一方、業界誌時代の知己から大阪万博(1970)と深くかかわっていく。やがて、つくば博や花の万博(1990)のプロデュースも担当する。『日本沈没』が出たのは1973年、映像のパワーに魅せられて自らプロデュースした『さよならジュピター』(1983)を製作。テレビ番組などでは、世界各地を取材する文明論的な視点を披露する。しかし、阪神大震災を記録した『小松左京の大震災’95』(1996)を出版した後に鬱病となり、業績的には停滞する。2000年創刊の「小松左京マガジン」は沈滞の中から出てきた前向きな成果であり、本書のベースになっている。
残念なことに、本書は純粋な“自伝”ではない。2006年に出た『SF魂』も聞き書きだったが、小松左京による文書という意味では第1部の200枚ほどが該当するのみである。その第1部、第2部、『SF魂』の相互に重複が多く、少なくないはずの著者の全貌は、相変わらず“略歴”のままだ。やはり、第3者の評伝を待つべきなのかも知れない。本書の付録にある書誌や代表的な著作の紹介(66編分)は役に立つ。
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2008/4/13
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第8回小松左京賞受賞作。昨年は(円城塔や伊藤計劃らの応募があったものの)受賞作なしだった。
失敗続きから起死回生を図る国産ロケットが、大気圏を抜けた直後にコントロールを失い自爆する。しかし、同時に首都圏を含む広域に強烈な電磁波が降り注ぎ、電子機器を狂わせてしまう。いったい何が起こっているのか。折りしも一人の技術者が、月と地球を結ぶラグランジュポイントに潜む奇妙な構造物「セカンドムーン」を発見する。それは果たして未知の宇宙兵器なのか、異星人とのファーストコンタクトなのか。
第5回以降の小松左京賞は、それまで第4回までの作品に比べ、お話のまとまりはあってもSF的な破天荒さに欠ける印象があった。有村とおる(第5回)59歳、伊藤致雄(第6回)63歳という年齢のせいかとも思ったが、46歳と比較的若い著者の本書にも同様の傾向がうかがえる。お話がリアル側に寄りすぎてしまうのである。とはいえ、本業の歯科医は余技で、創作こそ本当の仕事とする著者の意気は買える。本書のように結末に予定調和(対立してきた“守旧派”がなぜ突然折れてくるのか、なぜこのタイミングでセカンドムーンの正体が解明されるのか)を設けたりせず、更なるスケールアップを望みたい。
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2008/4/20
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昨年11月に出版された日下三蔵初の著作である。著者は、元出版芸術社の名物編集者。小説のモデルにされたこともある。大変な読書家で、その蓄積をベースとした編著(昭和初期のミステリ関係が多い)は膨大な量に及ぶが、オリジナルな著作としては本書が初めてになる。もちろん収録された43作家についても、著者が読み尽くした中から選ばれている。本書は、架空の全集の解説である。日本のSFを1960年頃から3つの時期に区分けし、各作家の紹介とSFに関わるビブリオグラフィ、収録作の選択理由が述べられている。
第1期作家は、星新一から半村良まで14人。そのうち6人(星新一、光瀬龍、福島正美、矢野徹、広瀬正、半村良)は亡くなっているものの、作品が古びた作家はおらず、SFへのこだわりが深いのが特徴だろう。
第2期作家は、田中光二から梶尾真治まで12人。第1期作家とオーバーラップする形で活躍した世代。堀晃、鏡明のように兼業作家、山尾悠子、鈴木いづみのように活動期間が短く伝説的な作家を含む。SFに対する志向性よりも、作家の個性が際立つ世代といえる。
第3期作家は、新井素子から大原まり子まで17人。この世代はばらつきが大きく、多作の作家(夢枕獏、栗本薫、田中芳樹、清水義範ら)、寡作の作家(水見稜、岬兄悟、火浦功ら)まで幅広い。ばらつきは作品数だけでなく、一括りにするのが難しいほど共通項目“SF”の差異も大きくなる。
架空の全集・アンソロジイという試みは、古いSFファンにとって珍しいものではない。水鏡子の得意技だった時期もある。単行本が少なく、“SFを意味付ける”という気概があった時代では、あるテーマを元に作品を選び、編者の主張にしたがって並べてみることが、アマチュアであってもある種の嗜みだったわけである。ただし、それは純粋に趣味の世界であり、全集がプロ出版された例は早川書房で出た『世界SF全集』(1968-71)のみだ。しかし、黎明期にSFを位置付けようとした当時の状況と異なり、本書は収穫の再整理という意味合いになる。単なる“化石収集”に止まらず、いかに将来展望が見せられるかが今後の課題だろう。
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2008/4/27
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英国作家ジョン・ブラックバーンが1958年に書いた処女長編である。著者は1950年代後半から80年代半ばまで活躍し、1993年に亡くなっている。なぜ今ごろ、という当然の疑問があるだろう。2006年に出た『闇に葬れ』(1969)に続き、マニアックな作品を集めた、論創社のミステリ叢書だからこそ入ったともいえる。
本書の舞台は50年代末のイギリス、日本で言えば昭和30年代『三丁目の夕日』の時代に相当する。しかし、世界には“希望にあふれた未来”などはない。大戦の暗い影が引き摺られ、緊張を孕んだ冷戦のとば口が開いていた。発端は北海を航行する民間貨物船の事故に始まる。ソビエトのある地域に軍の封鎖線が敷かれ、厳重な監視下にあることが伝わる。やがて、その地域から人類の生存に関わる重大な事件が起こっていることがわかる。その正体は一体何か。英国の情報機関は、ナチスの実験に起因する恐るべき秘密を探り当てるが…。
本書の解説にもあるが、ブラックバーンは1973年に出版されたばかりの『小人たちがこわいので』(1972)が初翻訳された。当時既に「モダン・ホラーの旗手」として紹介されている。お話はまさにモダンホラーそのものであり、旧来のホラーの要素と、サスペンス/SFまでを絡めたジャンル・ミックスの作風が話題を呼んだ。80年代前後は、そういったジャンルの混交が注目されはじめた時期でもあった。本書のテーマは、この6年後に書かれる小松左京の長編、5年後のある特撮映画とも関係する。まさに時代のジャンル・ミックスといえる先駆的な内容だろう。
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