2017/12/3

津久井五木『コルヌトピア』(早川書房)

津久井五木『コルヌトピア』(早川書房)

装画:吉田誠治、装幀:有馬トモユキ

 第5回ハヤカワSFコンテストの大賞受賞作(樋口恭介『構造素子』と同時受賞)。著者は1992年生まれで東大の大学院に在籍。また、今年3月に発表された第4回日経「星新一賞」(電子書籍で読むことができる)で、学生部門準グランプリを「天使と重力」で受賞している(津久井悠太名義)。性格改造を助言するAIと演劇志望の青年との関係を、ありがちなバッドエンドではなくポジティブに捉えた好編だった。

 2084年、震災を経て特異な再生を遂げた東京で、主人公は〈フロラ〉開発会社に勤務し、植物の情報処理をする仕事についている。東京は旧23区を取り囲む環状緑地帯を、巨大な計算資源として利用することで、緑化と先端技術との融合を図っているのだ。主人公は、環状緑地帯で起こる事故を契機に、不思議な感性を持つ植物学者とチームを組み、やがて昔知り合った友人と出会うことになる。

 コルヌトピアとは豊穣の角(ヤギの角)を意味する言葉だ。植物の計算資源化(そのため都市は資源となる緑に覆われている)、植物内部の処理結果を脳内に描出するレンダリング技術(ウムヴェルトと呼ばれる〈角〉状のアンテナを介する)、そういったウェットウェア的でマクロなアイデアと、フロラに適しない異端植物を育てる科学者、シンガポールに生まれ、東京のフロラとの精神的な接し方に悩む主人公、精神療養施設で知り合う高校生だった少年のその後と、登場人物たちの経歴の微細化が対照的だ。

 本書は長編としてはやや短い中編(原稿用紙250枚弱)クラスである。審査員が評価するポイントを読むと、設定や世界観、描写力、イメージ喚起力、植物意識についての先見性など、まずアイデアを重視する指摘が多い。とはいえ、主人公の物語が明確にある点が、印象を強めているのも事実だ。星新一賞の受賞作を見ても分かるが、著者はアイデアに流されず、むしろ個人の(私的な)物語を書くことに関心があるようだ


2017/12/10

マイクル・ビショップ『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』(国書刊行会)

マイクル・ビショップ『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』(国書刊行会)
Who made Stevie Crye?,1984(小野田和子訳)
装幀:山田英晴

 国書刊行会の《ドーキー・アーカイヴ》4作目。1984年に出た本で、ビショップとしてはデビュー後10年の10作目にあたる。ネビュラ賞受賞後の第1作なのに、ジャンルを越えた分類不能の作品のため、小部数しか出ないマニア系出版社のアーカムハウスしか引き受け手がなかった(後に英国でトレードペーパーバック版が出た)。本書は、2014年の改稿された30周年記念版が底本で、原著解説と著者のあとがきも収録されている。

 主人公スティーヴィ・クライは夫を若くして亡くしたが、なんとか文筆業で2人の子どもを養おうと苦闘している。ある日、夫が生前に買ってくれた電動タイプライタが故障し、持ち込んだ修理店で1人の男と出会う。男は不気味な子猿をペットにしており、何かと理由をつけ彼女に付き纏う。そして、修理されたはずのタイプライタは、彼女が夢に見たことを勝手にタイピングするようになる。

 スティーヴィ・クライという名前はスティーヴン・キングに由来する。キングは70年代のホラーブームで台頭し、当時すでにベストセラー作家になっていた。本書の内容にはキング作品(『クージョ』とか)に対するパロディが意図的に含まれ、キング本人は快く思わなかったという。ただ、いま本書を読んでも、キング風の超自然的要素はあまり目につかない(一般化したせいかもしれない)。

 本書の扉を開くと、A・H・H・リプスコム『タイピング ウィックラース郡の狂女の人生における一週間』モダン・ホラー小説とあり、以下の物語が小説であることが明示される(扉は初期の版では省かれていた)。物語中ではタイプライタが、主人公の夢を物語のようにタイプする。夢は現実を侵食し、妄想なのか実体験なのかは不明確だ。さらに、主人公が書いた小説内小説(独立したファンタジイ)まである。この小説は、デイヴィッド・プリングルのリアルなアンソロジイに収録されているのだが、それを含めて、さまざまな意味での実験が込められたメタな(多重な枠組みの)作品といえるだろう。

 ビショップは、1980年代に人類学SFの4長編が出るなど、わが国では高評価の作家だった。以降単行本の翻訳はなく、アンソロジイやSFマガジンに断片的に中短篇が載るだけとなった。こういう忘れられた作品/作家を再評価する叢書に、80年代のホラーブームを揶揄する作品が収められるというのも、何というか感慨深い。


2017/12/17

眉村卓『日本SF傑作選3 下級アイデアマン/還らざる空』(早川書房)

眉村卓『日本SF傑作選3 下級アイデアマン/還らざる空』(早川書房)
日下三蔵編
カバーアートディレクション&デザイン:久留一郎デザイン室

 日下三蔵による日本SF傑作選の第3集目。これまでと同様、新刊では入手困難な最初期の作品を中心にまとめられている。特に著者の初期作は、ハヤカワSFシリーズ(1960年代後半)、ハヤカワ文庫(70年代前半)と角川文庫(後半)で出た後、再刊や電子書籍化が行われていないものが多い。また、単に稀少というだけでなく、著者のその後につながる作品が選ばれている。1965年から73年に出た6冊の短編集(初出は61年から73年の雑誌掲載)から20作と、アンソロジイ収録のみの2作(2000年の《異形コレクション》)が、第1部:異星や宇宙生物もの13編、第2部:インサイダーSFもの9編とに分けられている。表題作「下級アイデアマン」は、第1回空想科学小説コンテスト(1961年発表、ハヤカワSFコンテストの原型)の佳作第二席入選作である。ちなみに第三席が豊田有恒、努力賞が小松左京だった。

 第一部:下級アイデアマン(1961):成績が芳しくないアイデアマンが、赴いた水星基地で存在価値を試される。悪夢と移民(1973):星間移民船が到達した植民星で、乗組員と植民者とが方針を巡って対立する。正接曲線(1965):原始的に見えた住民たちは、与えられた知識を貪欲に吸収していくのだが。使節(1964):温和な植物人間の乗客が、宇宙船内で奇妙な行動をとり始める。重力地獄(1966):高重力の惑星に不時着した宇宙船で、船長=技術ロボットと乗組員が対立する。エピソード(1964):ある惑星に着陸した探検隊は、過去の文明の残留思念を感じ取る。わがパキーネ(1962):異星の高等生命パキーネと同居を試みた男の感じたものとは。フニフマム(1970):時間線の過去と未来に体を延ばす超生命体の存在。時間と泥(1964):高度な精神文明を有していた異星人が、疫病により神経を断たれるのだが。養成所教官(1968):銀河連邦の下級職員養成所に、辺境の弱小惑星から一人の青年が入所してくる。かれらと私(1971):亜空間飛行中の艦隊が正体不明の惑星に強制着陸させられる。キガテア(2000) :惑星ギガテンで調査を行う連邦軍は、ギガテアと呼ばれる生物のコミュニケーション方法を解明しようとする。サバントとボク(2000):サバントと呼ばれるロボットにサポートされる人間=ボクが知る世界の本当の姿。

 第二部:還らざる空(1964):ある時から都市の空が異常を示すようになり、人々は原因を知るために古い記録を探す。準B級市民 (1962):社会階層が厳格化された未来、主人公は出生を理由にひどい差別を受けていた。表と裏(1964):緊急発進した宇宙船に誤って搭乗した男は、人工頭脳にロボットと誤認される。惑星総長(1965):頽廃した惑星を立て直そうと就任した新総長は、意外な現実に直面する。契約締結命令(1967):新任無任所要員は、ありえない条件でビッグタレントと契約を結ぶよう命じられる。工事中止命令(1967):南米の奥深くで続く、ロボットによる建設工事を終わらせる方法とは。虹は消えた(1968):アフリカの小国を立て直すために送り込まれたベテラン無任所要員の取った行動。最後の手段(1969):サイボーグ化のための施設設立は理想の実現そのものに見えた。産業士官候補生(1969-70):産業界が秘密裏に開校した高校と大学を併せた一貫校は、非人間的なカリキュラムで生徒を選別する。

 2000年の2作を除けば、著者が27歳から39歳にかけて書いた中短編である(30代前半までの作品が7割を占める)。当時の著者あとがきでは、(第1部は)技巧的なアイデア・ストーリー中心で、自身あまり評価していないように書いている。確かに古典的なSFはアイデア一発勝負で、小説としての面白みに欠けるきらいがある。しかし今でも、SFでは奇想アイデアこそが最重要とする見方が残っている。最近翻訳されたベイリーの短編集や、さらに遡ったヴァンスあたりを面白いと感じた人は本書の第1部も楽しめるだろう。それに加え、第1部の作品では後半に至るにつれて、著者特有のモチーフ、滅びゆくもの、社会的・宇宙的敗者の側に立つ視点が明確に表れてくる。より個に迫り絶望に終わらないという意味で、光瀬龍の虚無感とはまた違った味がある。なお「ギガテア」は、司政官こそ出てこないが同じ設定を使った短編で、そのまま《司政官》世界につながるものだ。

 第2部は作品点数こそ少ないが、分量的には第1部を上回り、内容も重厚なものになっていく。「準B級市民」や「惑星総長」などは、社会的な倫理観をテーマとした寓話といっても良いだろう。「契約締結命令」から「最後の手段」までは無任所要員(幅広い裁量権を持つ現場担当者)を主人公としたシリーズになる。これはパイオニア・サービスという、予算しだいで政府の運営から政権転覆までなんでもやる、いわば民営CIAのような組織の話だ。昔読んだときは、商社マン風の登場人物に違和感を覚えたのだが、リアリスティックに描くというより、ある種の不条理劇なのだと解釈すれば凄みが出てくる。中でも大友克洋監督でアニメ化もされた「工事中止命令」は、人間の命令を聞かないロボット相手に主人公が苦悩する傑作。「虹は消えた」はリフレ政策でつかの間の繁栄を見せる某国を描くが、まるで日本の近未来を予見しているかのようだ。

 巻末には、昔あった学年誌「高1コース」連載の「産業士官候補生」が収められている。高校生が読む雑誌だったので、主人公は中卒で産業士官養成校に入学する設定だ。そこで目的のためなら感情を自在に変化させ、情実を一切断ち切ることを教えられる。今日の中高一貫校でも、産業界エリートの輩出が目的のところがあるが、カリキュラムにありそうに思えるのが恐ろしい。こういう人の心理を突く見方はジュヴナイルの雄である眉村卓らしい。


2017/12/24

グレッグ・イーガン『シルトの梯子』(早川書房)

グレッグ・イーガン『シルトの梯子』(早川書房)
Schild's Ladder,2001(山岸真訳)

カバーイラスト:Rey.Hori、カバーデザイン:早川書房デザイン室

「現代SF界最高作家」が2002年に出版した(Copyrightは2001年)長編である。『ディアスポラ』(1997)と『白熱光』(2008)に挟まれた時期に書かれたもの。「シルトの梯子」というのは、一般相対性理論や微分幾何学などで使われる物理学用語(本文中や解説でも説明はされる)。曲がった空間の中でベクトルを平行移動で一周させても最初と一致しない、そのベクトルの軌跡がシルトの梯子(シルトは人名、形が梯子状だから)と呼ばれるものだ。例によって、著者のホームページにも詳細な解説があるが、読んでわかる人は少数だろう。

 2万年後の未来、地球から370光年離れた〈ミモサ・ステーション〉で、物理法則の土台となる量子グラフ理論(QGT)に基づくサルンペト則を実証する実験が開始される。予測では、既存の宇宙と全く異なる時空が6兆分の1秒だけ現れるはずだった。しかし細心の注意を払った実験は予想外の結果を生む。その時空は消滅することなく、ステーションを呑み込み拡大を続けたのだ。さらに600年後、拡大を続ける時空に対処する〈リンドラー〉に主人公が到着する。〈リンドラ―〉内は、時空との共存を図る譲渡派と、消滅を狙う防御派とに分かれ対立していた。

 この時代の人類は、量子単集合プロセッサ=Quspクァスプを内蔵している。人間の意思にまつわる状態を、量子的にコントロールすることができるため、外部からの影響を排した真の自由意志を持っている(脳科学ではなく量子論まで遡るのが、いかにもイーガン的)。一方、古代宇宙飛行士(アナクロノート)と呼ばれる人々もいて、古い宇宙航法から目覚めた関係で、彼らは今現在のわれわれの価値観に縛られている。これは物語の伏線の一つになる。

「数ページ読んでわけわからんくなり、うしろの解説をズルして読んでみたら白内障も輪をかけたのかますますわからんくなり途方にくれて立ち尽くしてます」(梶尾真治)。「楽に読むコツは裏表紙の紹介をまず読む→1部は読まない→2部前半は倍速で登場人物の関係だけ把握→260ページ辺りで「大発見」があるからそこから通常スピード(ただし科学的蘊蓄は飛ばす)」(牧眞司)。第1部には、QGTとサルンペト則の説明がある。確かに本書の根幹をなす理論なので、著者が書きたい気持ちは分かる。しかし、ふつうの作家ならつかみで読者をひっぱり込み、その勢いで(多少難しくても)本文を読ませるところを、イーガンの場合は逆に斥力が働いているわけである。エンタメ小説では許されない作法だろう。近づけるものなら近づいてみろ、という読者への挑戦とも解釈できる。さらには、解説(前野昌弘)で「本文を読んで「わから〜〜ん」となったら以下を読んで、「なるほどわからん」と納得した上で本文に戻っていただければ」と書かれていて、単なる奇想アイデアに見えるものに理論物理由来の深み(量子力学の状態ベクトル、クァスプ、ループ変数、シンプレクティック幾何学、超選択則)があることが明らかになる。

 本書の物理学がすべて分かる読者は、たぶんPPMオーダーしかいない(評者もそこには含まれない)。しかし、分かり難いからと言って、物語だけを残し科学的な説明すべてをオミットすると、インパクトのかなりの部分が損なわれる。どうやら背景には裏付けがあるらしい、(理解できなくても)おぼろげに感じとれる、くらいが読み方としてちょうど良い。ふつうの小説では得られないイーガン独特の楽しみ方だろう。


2017/12/31

伊藤瑞彦『赤いオーロラの街で』(早川書房)

伊藤瑞彦『赤いオーロラの街で』(早川書房)

カバーイラスト:富安健一郎、カバーデザイン:早川書房デザイン室

 第5回ハヤカワSFコンテストの最終候補作を加筆修正したもの。著者は1975年東京生まれ、北海道の斜里町に在住。物語の主人公には、自身の体験が反映されているようだ。選評の中でも、着眼点もよく描写もリアル、リアリティは今回隋一、非常時のディテールを徹底して書き込んだ、などと評価されている。良くも悪しくも現実に深く根差した作品だ。

 主人公は東京のベンチャー会社でIT担当をしていたが、自己流の仕事に自信が持てず親しい社長に悩みを訴える。すると、北海道の知床にあるテレワークでの勤務を提案されるのだ。しかし、事情が分からないまま赴いた北海道の斜里町で、空を真っ赤に染めるオーロラの出現を目撃する。それは巨大な太陽フレアに伴うプラズマが引き起こしていた。やがて、地上の送電設備を中心に基幹インフレが次々とダウン、世界の通信・交通手段は一気に中世のレベルにまで退行する。石油や食品の輸入はどうなるのか。主人公は地元の人々との交流を通じて、事態の打開を図ろうとする。

 朝日新聞でのインタビューにもあるが、本書は著者の書く最初の小説である。そのためか、極めて丁寧な取材を基に作られている。地元(斜里町)の農協や工場、漁師や科学館など、ナマの声を聞いた内容が、インフラ崩壊後の世界のありさまに大きなリアリティを与えている。

 物語の構造はとてもシンプルだ。時系列に従って淡々と進んでいく。フレア発生、GPS衛星や変電所の破壊、電力の喪失に伴う水道やガスの停止(制御機器は電気で動く)、長距離を動く船舶などの輸送手段の停止(GPS衛星を失うと遠洋航海ができない)など、大量破壊を伴わない災害でもじわじわと社会が蝕まれていく様子が描かれる。ただし、本書はデザスター小説を目指したものではない。東京など、外部からの供給とインフラや人間関係のしがらみに依存した都会は崩壊するが、逆に、自給率が高く創意を妨げない(都会である札幌を除く)北海道には、生き残る道があると述べているのである。人間はこれまでも人災、天災を越えて、なんとか生き残ってきた(もちろん生き残れなかったケースもある)。この先がどうなるのかを、例えば森岡浩之の《突変シリーズ》などのような形で読んでみたいものだ。