グレッグ・イーガン『シルトの梯子』(早川書房) Schild's Ladder,2001(山岸真訳)
カバーイラスト:Rey.Hori、カバーデザイン:早川書房デザイン室
「現代SF界最高作家」が2002年に出版した(Copyrightは2001年)長編である。『ディアスポラ』(1997)と『白熱光』(2008)に挟まれた時期に書かれたもの。「シルトの梯子」というのは、一般相対性理論や微分幾何学などで使われる物理学用語(本文中や解説でも説明はされる)。曲がった空間の中でベクトルを平行移動で一周させても最初と一致しない、そのベクトルの軌跡がシルトの梯子(シルトは人名、形が梯子状だから)と呼ばれるものだ。例によって、著者のホームページにも詳細な解説があるが、読んでわかる人は少数だろう。
2万年後の未来、地球から370光年離れた〈ミモサ・ステーション〉で、物理法則の土台となる量子グラフ理論(QGT)に基づくサルンペト則を実証する実験が開始される。予測では、既存の宇宙と全く異なる時空が6兆分の1秒だけ現れるはずだった。しかし細心の注意を払った実験は予想外の結果を生む。その時空は消滅することなく、ステーションを呑み込み拡大を続けたのだ。さらに600年後、拡大を続ける時空に対処する〈リンドラー〉に主人公が到着する。〈リンドラ―〉内は、時空との共存を図る譲渡派と、消滅を狙う防御派とに分かれ対立していた。
この時代の人類は、量子単集合プロセッサ=Quspクァスプを内蔵している。人間の意思にまつわる状態を、量子的にコントロールすることができるため、外部からの影響を排した真の自由意志を持っている(脳科学ではなく量子論まで遡るのが、いかにもイーガン的)。一方、古代宇宙飛行士(アナクロノート)と呼ばれる人々もいて、古い宇宙航法から目覚めた関係で、彼らは今現在のわれわれの価値観に縛られている。これは物語の伏線の一つになる。
「数ページ読んでわけわからんくなり、うしろの解説をズルして読んでみたら白内障も輪をかけたのかますますわからんくなり途方にくれて立ち尽くしてます」(梶尾真治)。「楽に読むコツは裏表紙の紹介をまず読む→1部は読まない→2部前半は倍速で登場人物の関係だけ把握→260ページ辺りで「大発見」があるからそこから通常スピード(ただし科学的蘊蓄は飛ばす)」(牧眞司)。第1部には、QGTとサルンペト則の説明がある。確かに本書の根幹をなす理論なので、著者が書きたい気持ちは分かる。しかし、ふつうの作家ならつかみで読者をひっぱり込み、その勢いで(多少難しくても)本文を読ませるところを、イーガンの場合は逆に斥力が働いているわけである。エンタメ小説では許されない作法だろう。近づけるものなら近づいてみろ、という読者への挑戦とも解釈できる。さらには、解説(前野昌弘)で「本文を読んで「わから〜〜ん」となったら以下を読んで、「なるほどわからん」と納得した上で本文に戻っていただければ」と書かれていて、単なる奇想アイデアに見えるものに理論物理由来の深み(量子力学の状態ベクトル、クァスプ、ループ変数、シンプレクティック幾何学、超選択則)があることが明らかになる。
本書の物理学がすべて分かる読者は、たぶんPPMオーダーしかいない(評者もそこには含まれない)。しかし、分かり難いからと言って、物語だけを残し科学的な説明すべてをオミットすると、インパクトのかなりの部分が損なわれる。どうやら背景には裏付けがあるらしい、(理解できなくても)おぼろげに感じとれる、くらいが読み方としてちょうど良い。ふつうの小説では得られないイーガン独特の楽しみ方だろう。
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