2016/6/5

池澤春菜『SFのSは、ステキのS』(早川書房)

池澤春菜『SFのSは、ステキのS』(早川書房)
イラスト・マンガ:COCO

COVER PHOTO:JULIE WATAI、BOOK DESIGN:JUN KAWANA(PRIGRAPHICS)

 表紙は著者が外骨格型スーツ、スケルトニクスに搭乗した写真で、本文にも言及がある。本書は、2010年8月号からSFマガジンに連載された同題のコラムを、COCOのマンガと共に50編(4年)分収録したもの。見開き2ページ1項目のレイアウトが、雑誌掲載時そのままに保たれているのが特長だ。この写真から分かるように、書籍だけをテーマとしたものではない。

 内容は、著者がSF及びその周辺を語るエッセイで、SFマガジンでの登場を喜び、人生に占める読書時間、翻訳SFへの拘泥を語り、初めてSF大会に参加し、はんだづけカフェに参加、少しSFなアンソロジーを考え、TRPG初参加、SFとは何かを論議、ワンフェス参加、ライトノベル、ハーレクィン、蔵書整理、ハワイ滞在、第50回SF大会でのMC、ミリタリーSF、福永武彦、などなど、さまざまなジャンルを考察する(ここまでで約半分)。

 本書では、本文中で頻出するSF用語や固有名詞に関する詳しい注釈を、巻末に収めている。もともと、著者は声優(22年のキャリア)、歌手(21年)で名を成している。池澤春菜という名前に惹かれて手に取った別ジャンルのファンでも、本書が読みやすいよう工夫されているわけだ。何しろ自身が初参加の内容が多いため、オタクではない読者も共感できるのだろう。

 前作の『乙女の読書道』が読書中心だったのに比べると、本書の方が対象範囲は広い。よりファン的な視点になったといえる。もちろんSFファンといっても多種多様で、誰もがSF大会に参加するわけではないし、TRPGやはんだ付けや、もちろんスケルトニクスに乗ったりしない。そういう未知へのチャレンジと、池澤春菜の個性が相まって、こんなファン活動なら楽しいと感じさせる、独特の雰囲気を作り出している。

 

2016/6/12

L・P・デイヴィス『虚構の男』(国書刊行会)

L・P・デイヴィス『虚構の男』(国書刊行会)
The Artificial Man,1965(矢口誠訳)

装幀:山田英春、装画(コラージュ):M!DOR!

 国書刊行会の新叢書《ドーキー・アーカイヴ》の最初の1冊(初回2冊)である。叢書名は、フラン・オブライエン『ドーキー古文書 Dalkey Archive』から採られている(これも奇想小説ではあるが、直接の関係はない)。そういう得体のしれなさを示唆するシリーズ名を冠し、ノンジャンルでかつ埋もれた未訳の奇想小説を、編者若島正+横山茂雄が10冊分集めたものである。

 この作品について翻訳者矢口誠は「本書の後半に仕掛けられたサプライズは、嘘偽りなく、「こりゃ絶対ジャパンに違いないと期待していたら、そこには宇宙刑事ギャバンが立っていた」みたいな当惑と混乱と驚きを読者に投げつけてくる」と書き、若島正は解説で「読者を幻惑させ、唖然とさせる力は、ミステリー、ホラー、SFというジャンルの境界線を大胆にまたぐところから生まれている」と書いている。

 舞台はイギリスのどこかにある田舎町、時代は1966年。主人公はSF作家で、50年後を描く長編小説の構想を練っている。気さくな隣人夫婦、几帳面な家政婦、毎日配達に訪れるバンの運転手、自転車で巡回する警官、少数の村人たちとは何のトラブルもないようだった。しかし、いつもと異なる散歩のルートで、見知らぬ女と出会ったことから、日常は崩れ始める。

 以降、主人公は自分を形作る何もかもが覆される経験をする。表題通り、この主人公は虚構で作られているのだ。本書を読むと、まず当時(60年代)多作されていた冷戦下のスパイ小説が思い浮かぶ。シリアスなル・カレや、全体主義的な監視社会を描くディッシュ『プリズナー』などだ。次に出てくるのが、犯人探しミステリや政治陰謀スリラーで、結局SFなのかという風に読める。そこは訳者の感想通りだろう。ディックも同じような話を書いたが、デイヴィスの方がずっとロジックがしっかりしている。

 著者は1914年生まれ88年没の英国作家。1964年から70年代にかけて、煙草屋を営みながら長編22冊を書いた。エンタメに徹したノンジャンルの職人作家のため、ジョン・ブラックバーンと同様、コアなファンが付かず忘れられていた。

 

2016/6/19

北野勇作『カメリ』(河出書房新社)

北野勇作『カメリ』(河出書房新社)

カバーデザイン:川名潤(prigraphics)、カバー装画:森川弘子、カバーフォーマット:佐々木暁

 著者が2003年に出した『北野勇作どうぶつ図鑑』に収録した3作品から始まり、SFマガジン掲載の7作+本書のための書下ろし1編を加えた、およそ10年分11篇からなる連作短篇集。すべてに主人公のカメリが登場し、職場のカフェ周辺で起こる不思議な出来事が描かれている。

 カフェに勤める模造亀カメリは、同僚のヌートリア擬人体アン、シリコン頭脳のマスターとともに、お客であるヒトデナシに泥コーヒーと泥饅頭を提供している。ヒトはケーブルTVの中にしかおらず、どこもがぬかるんだ泥だらけの世界になっている。そこをヒトデナシたちが修復している。彼らは元の世界を再現しようとするのだが、出来あがったものは、似ているようでいて全く違うものなのだ。

 カメリは別世界のパリに住んでいる。著者は最初の作品を、パリの安宿滞在中に構想したという。カメリとは、カメ+フランス映画「アメリ」から名付けられた。螺旋街(パリの街区番号は、螺旋状に振られている)のアパルトマンに住み、勤務場所はオタマ運河の半ば水没したカフェ、地下を這うおたまじゃくしのようなメトロにしがみついて、ケーキ屋のあるマントルの丘や、ノミの市があるクリニャンクールならぬニャンニャンプールに行く。ヒトデナシでできたフルエル塔、オケラ座もある。そこに、ナガムシ商店街、中之島の図書館など大阪キタが重なり合い、独特の情景が描き出される。

 『北野勇作どうぶつ図鑑』は体裁があまりにも斬新すぎて売れなかったようだが、カメリらのキャラクタはその後も連綿と書き継がれてきた。人類の消えた未来には何もない。主人公たちはもともと破壊兵器だった。しかし不気味でグロテスクなはずの破滅後の世界は、妙に暖かく(ヒトはいないのに)人の情を感じさせる。暗さと温かみの対照が、本書をとてもユニークなものにしている。

 

2016/6/26

ケン・リュウ『蒲公英王朝記 巻之二 囚われの王狼』(早川書房)

ケン・リュウ『蒲公英王朝記巻之二 囚われの王狼』(早川書房)
The Grace of Kings,2015(古沢嘉通訳)

カバーイラスト:タカヤマトシアキ、カバーデザイン:渡邊民人(TYPEFACE)

 4月に前半が出た『蒲公英王朝記』第1部の後半、完結編である。

 クニとマタ、2人の英雄は独自の戦法でザナ帝国の首都を目指し戦う。クニは最小限の努力で首都を征服するが、正面からの死闘を経てきたマタには、それが我慢ならない。やがて軍事力に勝るマタの統治が始まり、不和の種が帝国全土に蒔かれていく。

 本書では、女性の生きざまに大きくウェートが割かれている。長年離れ離れとなるクニの妻、その間第2夫人となる女性、孤高のマタを慕う女性らが詳しく描かれる(『史記』ではほとんど記載がない謎の虞美人に相当)。クニの軍隊を指揮する元帥も女性なのだ。誰もが受け身の存在ではない。四面楚歌(この言葉自体は誰でも知っているが、なぜ「歌」なのかの語源は一般的ではない)に新しい解釈がなされているのも読みどころだろう。

 そもそも『項羽と劉邦』の物語である以上、主人公たちの運命は予め定められている。項羽=マタは覇王と恐れられる勇者だったが、人心を失い自死を選ぶし、劉邦=クニは後の漢王朝の高祖となる。とはいえ、『史記』にはわずか数行から数ページの記述しかないので、フィクションでの自由な脚色が可能なのだ。ケン・リュウはLOCUS誌のインタビュー(SFマガジン2016年8月号訳載)の中で、中国などの東アジアにルーツを置く文化的背景をアメリカに伝える苦労を述べている。そうであるなら、逆に極東日本の読者は、旧来の欧米翻訳や中国文化ではなかった視点、例えば女性の新しい在り方、などがどう描かれたかを読み解くべきなのだろう。