2016/5/1

ケン・リュウ『蒲公英王朝記巻ノ一 諸王の誉れ』(早川書房)

ケン・リュウ『蒲公英王朝記巻ノ一 諸王の誉れ』(早川書房)
The Grace of Kings,2015(古沢嘉通訳)

カバーイラスト:タカヤマトシアキ、カバーデザイン:渡邊民人(TYPEFACE)

 昨年に出たばかりの著者初の長編小説。本書はその前半部分にあたり、後編は引き続き6月に出る。ネビュラ賞の最終候補作にも上っている(受賞作発表は5月14日)。

 ダラ諸島は、大島を中心とした無数の島からなる世界だ。古来7つの王国が覇を競っていたが、統一戦争を制したザナが帝国を築き、圧政のために人心は荒廃していた。しかし初代皇帝の死後各地で反乱が熾り、やがて対照的な2人、鷹揚なクニと偉丈夫のマタが頭角を現すようになる。帝国側も老練な元帥を起用し、一大決戦の時が迫っていた。

 表題「諸王の誉れ」が『ヘンリー五世』から採られていることからも分かるように、本書は中国古典をベースにしながら、ありきたりのオリエンタリズムに陥らないよう、シェイクスピア的な人物造形、オリジナルの仕掛け(空中に浮かぶ飛行艦隊、アステカ風湖上都市、クレオパトラのような王女など)をちりばめている。ケン・リュウが書くだけあって、空想のみの中華ファンタジイという危うさはない。

 本家中国を除けば、日本は世界一中国古典の知名度が高い国だろう。「項羽と劉邦」のエピソードは、司馬遼太郎やコミックの横山光輝をはじめ、戯曲や演劇でもさまざまに描かれてきた。その点は、おそらく司馬遷『史記』など聞いたこともない普通のアメリカ人とは、受け止め方が異なる。

 ただ、本書が既存の中華ファンタジイと異なるのと同様、日本で書かれた「項羽と劉邦」ものともずいぶん雰囲気が違う。英雄色や権力闘争を主眼とせず、むしろユーモラスさや女性の役割を強めたところに現代性が感じられるからだ。表題の蒲公英(たんぽぽ)には、踏まれても枯れない雑草のたくましさと、綿毛がどこまでも飛んでいく自由奔放さが象徴されているという。本書は物語の半ばまで、何より『巻ノ二』(後編)が待たれる展開だ。なお、主人公たちの原著新作も、新たな登場人物を加えて、今年10月に予定されている。

 

2016/5/8

川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』(講談社)

川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』(講談社)

装幀:名久井直子、装画:nakaban

「群像」2014年2月号から始まり、2015年3月号から2016年1月号までは連載された川上弘美の人類未来史。全部で14篇からなる連作短篇で構成される。ごく短い作品から始まって、最後は中篇並みのエピソードを交える。

 平穏にみえる村に住む人々の奇妙な由来、たくさんの同じ私が生まれ共に育つ家族、男が少なく女ばかり生まれる社会、変わった性格の"見守り"の子供、奇跡を起こしたり心の奥底を走査できる力を持つ"見守り"たち、番号の名前を持つ湖畔の一族、三つの眼や緑色の体など外観の異なる人々、そして最期の人類たちの行ったこと。

 何千年なのか、何万年なのかわからない未来。そこに至るまでの人類の小さな出来事が、エピソードごとに点描される。小さなというのは、それが主人公たちの知りえる 狭い範囲を描いているからである。物語の終盤に置かれた「運命」の章では、世界がなぜこうなったのか、その経緯と意味とが語られる。ただ、それも登場する"母"のひとり語りなのだ。ミニマムな視点で、とても大きな物語が語られる。

 筒井康隆『幻想の未来』とかヴォクト『スラン』のようなお話を想像したが、(そういう部分もあるものの)もっと人という存在、人の心にこだわった作品になっている。著者が子供のころに夢見た未来人も出てくる。本書の中で人類は衰退する。最小限の科学技術は残り、人工的な進化を促されるけれど、生まれ出てくる者には子孫への関心がない。女だけ二人になった人類は、手すさびに生き物の改変を試みる。そして最後に、視点は神様にまで引き上げられ、物語の輪は閉じる。  


2016/5/15

宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』(講談社)

宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』(講談社)

装画:Raphael Vicenzi、装丁:川名潤 pingrahics

「小説現代」2012年9月号から、2015年3月号までの2年半にわたって不定期に掲載された、《疑似科学シリーズ》6編を収める短篇集。物語はすべて一人称"わたし"で書かれている。"わたし"は科学者でも探偵でもなく、週刊誌などに記事を寄稿するフリーのルポライターである。

  • 「百匹目の火神」(2012/9):火を熾すことを覚えた猿が列島を北上する
  • 「彼女がエスパーだったころ」(2013/3):スプーン曲げ少女で知られた女性が抱える秘密
  • 「ムイシュキンの脳髄」(2013/7):暴力をふるう男が受けた脳外科手術はある効果を生む
  • 「水神計画」(2014/4):取材の中でわたしは汚染水浄化事件に巻き込まれる
  • 「薄ければ薄いほど」(2014/9):終末期患者の集うホスピスで起こった自殺の真相
  • 「佛点」(2015/3):カルト的な相互扶助団体がたどる悲惨な結末

 著者のインタビューでは「科学リテラシーと信仰の両立を目指すような連作短編が出来ないかと考えて書き継いだ」とある。偽科学や詐術などを、なぜそんな馬鹿げたものに騙されるのかと、醒めた立場で批判するのは簡単だが、その一方、それらを心のよりどころ=信仰とする人々もいる。否定だけでは納得を得られないのだ。著者が本書で描くのも、そういったせめぎ合いなのである。

 火を覚えた猿がそれを他の群れの猿に伝える、スプーン曲げの特技を持った少女が大人になる、性格をピンポイントでロボトニーする、水に特定の性質を伝播する、ホスピスでレメディーを与える、アルコール依存症をカルトで乗り切る。本書の中では疑似科学が、ふつうのSFなら科学で説明される位置に置かれている。人の中では、オカルトと科学はそういう微妙なバランスを保っているのかもしれない。

 本書のスタイルは、デビュー作「盤上の夜」とよく似ている。ある種のルポルタージュ風の書き方だ。わたしは6篇を通じて登場するが、「水神計画」で事件に巻き込まれ、「佛点」ではもう客観的な立場を離れて、わたし自身の小説になっている。  


2016/5/22

牧眞司『JUST IN SF』(本の雑誌社)

牧眞司『JUST IN SF』(本の雑誌社)

造本:真田幸治

 著者が「WEB本の雑誌」に毎週連載している「今週はこれを読め!SF編」は2013年7月からスタートして、すでに3年近く続いている。本書はそこから2015年12月までの範囲で100冊を精選、さらに著者紹介や関連する本などを加筆した、最新SFレビュー集となっている。

 夏が来た!と序文にあり、3年前からSF関係の書籍が毎月/毎週潤沢に出るようになった。『NOVA』や『年刊ベスト集成』などのアンソロジイ。酉島伝法、高山羽根子、宮内悠介ら、そこから派生するユニークな作品集。復活したハヤカワSFコンテストから生まれた諸作、イーガンやケン・リュウ、ピーター・ワッツ、プリースト、マクドナルド、さらにレムやウルフらの本格作品。文学周辺では、ヘヴィーなソローキンや、コルタサル、あるいはケリー・リンク、カレン・ラッセルらのライトな短篇群もある。読む本には事欠かない。

 本書は、ここ2年間に出た比較的新しい本について、読みどころを紹介するという内容である。ただ、著者の姿勢は変わっている。あとがきに「自分が好きな本を浴びるだけ読んで (中略) 楽しんでいるところへ、他の本読みが「おっ、何読んでるの?」とのぞきにくる、そんな書評が理想だ」とあり、読者と自身とを対等に置いているのだ。初心者用のガイド本ではなく、読書家向けに読むヒントを提供しているわけである。「SF編」の縛りがあるからSF作品が多いが、もちろんこの読書家は、ジャンルSFの読み手でなくてもかまわない。

 著者が「どひゃーっ」とか「すげーっ」と思った内容を書いたとあるものの、本書の書かれ方自体に、それほどくだけた表現はない。読むべきポイントや作品のユニークさを的確に挙げ、本の魅力を分かりやすく真っ当にレビューしてくれている。

 一応数字を記しておくと、早川書房や東京創元社などの専門出版社が占める割合は56%(冊)、目立つ河出書房新社、国書刊行会が17%だった。見方を変えて、短篇集+アンソロジイが47%と多く、コンテスト受賞作を含む本が10%を占めている。

 ところで、本書では各作品をサブジャンルに分けて、アイコンで表現している。面白い試みだが、これにはちょっと無理があるのではないか。著者の言うように、SFとSF外の境界さえ曖昧になっている。ぼやけているものを小分けし、拡大率を上げても、さらに曖昧さが増してしまう。


2016/5/29

M・R・ケアリー『パンドラの少女』(東京創元社)

M・R・ケアリー『パンドラの少女』(東京創元社)
The Girl with All the Gifts,2014(茂木健訳)
装幀:中村聡、装画:塩田雅紀

 著者は1959年生まれの英国作家。オックスフォード大学を出た後15年間教師を務め、その後DCやマーベルなどのコミック原作(Xメン、ファンタスティック・フォーや英国の2000ADなど多数)に従事、2006年からは作家としてもデビューした。ヒューゴー賞のグラフィック・ノベル部門には、2010年から何度もノミネートされている。本書はアーサー・C・クラーク賞の最終候補(ちなみに、この年は『ステーション・イレブン』が受賞した)となり、映画化が進んでいるようだ。

 近未来の英国、ロンドンの北50キロほどの地点に基地が設けられている。そこには、主人公となる10歳の少女の他、複数の少年少女たちが隔離され、毎日教師から学校の授業を受けている。30年前に大崩壊が起こり、既存の社会秩序は壊滅した。基地の周辺やロンドンには〈餓えた奴ら〉がさまよい、拠点の外は安全ではない。残った人々は、閉鎖環境の中でかろうじて生きているのだ。だとすると、そこで隔離される少女たちは何ものなのか。

 世に蔓延するゾンビものだが、本書の設定は少し捻られている。意識や知能を持たない死者=ゾンビ〈餓えた奴ら〉は、ある原因で生み出されたのだが、その作用が対象によって異なるのである。「ゾンビ」で放り出さず、後半で罹患のメカニズムが明らかにされている点は評価できる。

 物語は主人公の他、基地を警護する軍人、少女を実験対象としか見ない科学者、少女をかばう教師がメインの登場人物となって展開される。基地での閉鎖生活、別の集団による襲撃、100キロ近く南にある別拠点への逃避行を経る中で、やがて他者に依存していた少女は、自分の目的を持って動けるようになる。それが、本書の表題に繋がっているのだ。