2015/5/3

牧野修『冥福 日々のオバケ』(光文社)
 装画:村尾亘、装幀:オフィスキントン

小林泰三『幸せスイッチ』(光文社)
 カバーイラスト:大槻香奈、カバーデザイン:坂野公一(welle design)

 光文社から出ているホラー短篇集2題。牧野修『冥福 日々のオバケ』は、「小説宝石」に掲載された短篇5作に1編を書き下ろしたもの。凶悪な怨霊ものとは違って、日常生活に絡んだソフトな「オバケ」という切り口で書かれている。もう一つの小林泰三『幸せスイッチ』は、1人の登場人物の名前が共通する書下ろし短篇集である。ただし、関連しあうオムニバス形式ではなく各作品は独立している。パラノイアックな「春子」を媒介にした、著者お得意の不条理ホラーとなっている。

 冥福 日々のオバケ
 チチとクズの国(2012):嫌っていた父親が住んでいた空家で、首を吊ろうとした主人公が出会うオバケ
 夏休みを終わらせない方法(2013):主人公は高校で、馬鹿話に興じる一番の親友を裏切ってしまう
 草葉の陰(2014):大雨の日に行方不明になった孫娘を探す主人公は、不思議な幼い少女を見つける
 プリンとペットショップボーイ(2014):猫のオバケが見える主人公が、家出した少女の行き先を探す
 オバケ親方(2014):死んだばかりの主人公に、オバケの親方が恨みを伝えるための修行を促す
 タカコさんのこと(書下ろし):祖母の葬式の日、よく気が合った叔母のオバケと共に思い出す過去

 幸せスイッチ(全編書下ろし)
 怨霊:ストーカーに悩む春子は、探偵からスーパーストーカーを呼び集めるという対抗手段を聞く
 勝ち組人生:浪費を毛嫌いする春子は、歪んだ優越感のままに果てしない吝嗇の穴に落ち込む
 どっちが大事:妻の春子は、自分との比較で大事ではないものをすべて捨てるよう強要する
 診断:ヒステリックな母親春子は、苦しむ子供に対する診断を認めず、救急搬送先を次々変えていく
 幸せスイッチ:恋人に騙された女は、春子に脳から幸福を得られるスイッチを提案される
 哲学的ゾンビもしくはある青年の物語:三人の登場人物たちの会話は、しだいに破綻をきたすようになる

 『冥福…』では、孤独な主人公たちを助けるために、親しげなオバケがたくさん出てくる。下品で無学だと軽蔑していた父親、裏切った親友、事故で死んだ幼女、長年飼っていたペットの猫、オバケの先輩、親と仲が悪かった叔母……オバケたちは、いかにも恨みを残していそうだ。しかし、いくらでも考える時間はあったのだから、大抵のことは許されると説明してくれる。考えてみれば、霊には牧野流のオバケこそがお似合いで、当たり前の日常に深い呪いなどは場違いだろう。

 もともと、『幸せスイッチ』の表題は、巻末の「哲学的ゾンビ…」となる予定だった。哲学的ゾンビとは意思がなく自動的な反応を返す(生きているように見えるが、実は死んでいるのと同じ)存在という、哲学におけるある種の思考実験だ。本書に出てくる複数の「春子」は、この哲学的ゾンビなのかもしれない。機械的で執拗で、相手の反応を一切無視する。そんなゾンビの言うことを真に受けると、自分もゾンビと化してしまうのだ。この中では、冒頭の「怨霊」だけは、他の作品にも登場する超限探偵Σが出てきて、童話ネタで終わるという変わった構成になっている。

 

2015/5/10

オシーン・マッギャン『ラットランナーズ』(東京創元社)
Rat Runners,2013 (中原尚哉訳)

Cover Illustration:田中寛崇、Cover design:岩郷重力+WONDER WORKZ。

 著者は1973年生まれのアイルランド作家。アイルランドは、詩人のイェイツやジェームズ・ジョイス、ダンセイニなどの著名人を多く輩出してきた。しかし、SF作家となると、北アイルランド(イギリス領)のジェームズ・ホワイトくらいで、晩年に住居を移したマキャフリイやホーガンは、もともとアイルランド生まれではない。著者はダブリンに生まれ、ロンドンでイラストレータなどの職業を経て、2003年に作家デビューした。現在はアイルランド在住だ。子供向け(2014年の欧州SF協会賞を受賞)、ヤングアダルト向けが多いが、ノヴェライゼーションまで幅広く書いてきた。本書は、シリーズ外の単独作品としては最新作にあたる。

 近未来のロンドンは、監視カメラ網を統合する政府機関ウォッチ・ワールドによって、事実上管理されている。街には監視員と呼ばれる自動ロボットが回り、町中を隈なく見張っているのだ。しかし、犯罪組織はその隙間を突いて、さまざまな違法取引を行っていた。そんな中、1人の在野の科学者が不審な死を遂げる。死因に疑問を抱いた少年は、さまざまな才能を持つ3人と共に、情報の裏側に潜む真相の究明に乗り出す。

 ラットランナーズとは、抜け道を駆け抜ける者といった意味。この場合、主人公たちは16歳未満の少年少女なので、監視システムの対象外となっている。犯罪組織は、そこを利用して彼らを手先に使うのだ。しかし、彼らも利用されるばかりではない。主人公の少年は、巧みに自身の経歴を偽り、2つの犯罪組織を又にかける。化学と法医学の天才少女、優秀なハッカー少年、カメラを欺く変装少女、出自もばらばらだった彼らは、自身が生き残るためにチームとして活動を始める。ヤングアダルト向けの設定ながら、ロンドンの監視社会の行き着く先や、情報操作の陥穽など、とても丁寧に書かれている。誰が読んでも楽しめるだろう。

 

2015/5/17

エミリー・セントジョン・マンデル『ステーション・イレブン』(小学館)
Station Eleven,2014 (満園真木訳)

カバーデザイン:大野リサ、カバー画:マックス・クリンガー『ドラマ』より「殺人」

 著者は1979年カナダ生まれ、ニューヨーク在住。ブリティシュコロンビア州の離島で育ち、トロントのダンススクールに通いニューヨークに転居するなど、自身の経歴は、本書中に登場する俳優像に反映されている。本書は4冊目の著作にあたり、翻訳が2月に出た本だが、今月8日に発表された2015年の第29回アーサー・C・クラーク賞を受賞した話題作だ。

 シェイクスピア劇を演じていた著名な俳優が舞台で倒れる。懸命に治療が試みられるが、助からない。しかし、その友人は異変に気がつく。遠いロシアで蔓延していた新型インフルエンザがパンデミックと化し、極めて短期間の潜伏期間で発症、罹患者の99パーセントを殺してしまうのだ。航空機の旅客により広がった病気によって、世界は瞬く間に崩壊し、やがて20年が経った。

 物語はインフルエンザ(グルジア風邪と呼ばれる)による世界崩壊の瞬間と、文明崩壊後の世界という二つの時間で描かれる。20年を経て絶望と暴力の時代は終息し、生き残った人々は村々で半ば独立した生活を送っている。そこを、シェイクスピア劇団が馬車で何年もかけて巡業する。しかし、彼らはある村で宗教カルトとのトラブルに巻き込まれる。
 久しぶりに読むアフター・ホロコースト小説だ。著者も、死屍累々のデザスターを描くと、読み手は食傷してその後のお話にたどり着けないと述べている。そういう意味から、本書の主眼はパニック小説にはない。『ステーション・イレブン』とは、俳優の元妻が描いた宇宙ステーションを舞台とするSFコミックの表題である。コミックは誰にも見られないまま描かれ、私家版として少部数が出る。巨大な宇宙船で生きる主人公たちの物語は、不思議な関係で結ばれた2人の子供の手に渡り、20年後それぞれの生き方を大きく左右する。本書はホロコースト後の世界を、かなり単純化して表現している。ややリアリティに欠けるところだ。しかし、コミックを介した少年少女の運命のほろ苦さが、小説の余韻として残る。

 

2015/5/24

ジーン・ウルフ『ジーン・ウルフの記念日の本』(国書刊行会)
Gene Wolfe's Book of Days,1981 (酒井昭伸/宮脇孝雄/柳下毅一郎訳)

装幀:下田法晴(s.f.d.)

 『デス博士の島その他の物語』(1980)に続く、ジーン・ウルフの第2短篇集である。邦訳の『デス博士…』は原著とは収録作品が異なるが、本書はもともとの原著と同様になる。酒井、柳下訳の各1篇を除き、残り17編は宮脇孝雄が担当している。ウルフには、本書やベスト版を含めて13冊の短篇集があり、短篇の作品数、翻訳数もそれなりにあるものの、単行本となると本書でようやく2冊目になる。

 まえがき(1981):大学図書館にある秘密の出入口を描く「返却期限日」を含むまえがき
 鞭はいかにして復活したか(1970):スイスの国際会議で、受刑者に対するある評決が採られようとする
 継電器と薔薇(1970):コンピュータを使った画期的なサービスのおかげで、さまざまな社会的影響が現われる
 ポールの樹上の家(1969):社会不安が広がる中、隣の息子が高い木の上に家を作る
 聖ブランドン(1975)*:祖母から聞いた、アイルランドの力持ちフィン・マックールのお話(『ピース』の一部)
 ビューティランド(1973):残された自然環境を売却しようとした男が、思いついた起死回生のアイデア
 カー・シニスター(1970)*:いつもと違うガソリンスタンドで、車には特別なサービスが与えられる
 ブルー・マウス(1971):最前線の戦場で戦う工兵の主人公は、夜間に敵襲を受ける
 私はいかにして第二次世界大戦に敗れ、それがドイツの侵攻を防ぐのに役立ったか(1973):
  ヒトラーが経済戦争で勝利した世界、自動車産業の覇権を賭けてドイツとイギリスがゲームで競う
 養父(1980):管理された社会、主人公は今の家族との生活は偽りのものだと感じとる
 フォーレセン(1974):目覚めると妻がいて、通勤する工場には奇妙な仕事、そして果てしない勤務時間がある
 狩猟に関する記事(1973):りんご園を襲う一頭の熊を追う、不慣れな記者によるルポ
 取り替え子(1968)*:朝鮮戦争から帰還した兵士は、一人の少年の存在に気がつく
 住処多し(1977):さまざまな所にある、生きている家たちの運命
 ラファイエット飛行中隊よ、きょうは休戦だ(1972)*:フォッカー三葉機を精巧に複製した男が気球の娘と出会う
 三百万平方マイル(1971):男は、どこでもない土地を探すため、でたらめに彷徨い走り続ける
 ツリー会戦(1979)*:クリスマスツリーの下で繰り広げられる、玩具たちの覇権戦争
 ラ・ベファーナ(1973):貧しい家族と、共に暮らす六本脚の異星人との会話
 溶ける(1974):さまざまな時空から集まった客たちとの、とりとめのない怠惰な会話
  *邦訳があるもの

 ほぼ1970年代の、初期作品を集めた短篇集となっている。記念日に因んだ作品を、カレンダー順に並べるという趣向(アメリカの祝日/記念日なので、あまりピンとはこない)。「まえがき」に短い作品(ボーナストラック)を紛れ込ませているのは、『デス博士…』と同様のスタイル。「鞭は…」「ビューティランド」はとてもブラックなユーモア、不条理感が濃厚に漂う「ポールの樹上の家」「養父」「フォーレセン」、「継電気と薔薇」「私はいかにして…」「取り替え子」はSF的なアイデアストーリーながら一味捻っている。
 SF雑誌に発表したものは全体の3分の1程度、《オービット》などのオリジナル・アンソロジー寄稿作品が多い。どれもSF専門媒体での発表なのだが、特に後半の「ラファイエット…」以下の短い作品は、今日の先端文学と見分けがつかない。40年前にして、既にそういう水準にあった。下記のニューヨーカーの記事にもあるが、プロフェッショナルな読者には(SF界のメルヴィルと称賛されるほど)高評価でも、一般のファンからは難解とされ、ジャンル外では全く知られていないというのがウルフの立ち位置である。

 

2015/5/31

スタニスワフ・レム『短篇ベスト10』(国書刊行会)
Fantastyczny Lem,2001 (沼野充義/久山宏一/柴田文乃訳)

装幀:下田法晴(s.f.d.) 装画:Schuiten & Peters (C)Casterman S.A.

 2001年にクラクフで出版された15編を収録する短篇ベスト選から、さらに10編を選びだしたもの。除かれたものは、『完全な真空』(1971)で読める「サイモン・メリル『性爆発』」「アリスター・ウェインライト『ビーイング株式会社』」「アーサー・ドブ『我は僕ならずや』」「マルセル・コスカ『ロビンソン物語』」(何れも架空書評)と、新訳が出たばかりの『泰平ヨンの未来学会議』(1971)である。これら5編は、別の新刊で入手可能なため省かれた。

 三人の電騎士(*1):極寒の地でのみ生存できる「氷晶人」の宝を目指し、電騎士たちが戦いを挑む
 航星日記・第二十一回の旅(*2):不死を獲得した二分星人たちの星で、修道士たちが見出した教義とは
 洗濯機の悲劇(*3):洗濯機が多機能になり知能化、ついには人間と見分けがつかなくなった
 A・ドンダ教授 泰平ヨンの回想記より(*3):魔術の数値化に成功した教授はやがて恐ろしい真実に突き当たる
 ムルダス王のお伽噺(*1):孤独な独裁者でもある王は、自らを電子化しその中に内的な国を築く
 探検旅行第一のA(番外編)、あるいはトルルルの電遊詩人(*4):電遊詩人は人間を凌駕する詩作を披露する
 自励也エルグが青瓢箪を打ち破りし事(*1):王女の鍵を見つけ出すため、無数の勇者たちが旅立つが
 航星日記・第十三回の旅(*2):その世界は半ば水没しているのに、水を貶める発言はタブーだった
 仮面:王の舞踏会に現われた私は、腹の中に別の私の存在を感じとる
 テルミヌス(*5):火星航路に就く廃棄寸前の宇宙船で、装備されたロボットが発信する謎めいたモールス信号
 *1:『ロボット物語』、*2:『泰平ヨンの航星日記』、*3:『泰平ヨンの回想記』、*4:『宇宙創世期ロボットの旅』、*5:『宇宙飛行士ピルクス物語』

 傑作選ということもあり本邦初訳はないが、全てが最新版からの新訳になっている(過去の深見弾訳は、古書の文庫を探せば読むことができる。「仮面」はSFマガジン掲載のみ)。今回は同じ泰平ヨン(イヨン・ティーヘ)でも、「航星日記」の主人公はわたし(袋一平訳では私、深見弾訳では吾輩、大野典宏訳では私)、「回想記」は吾輩と区別して翻訳されているなど、既訳との整合性も考慮されているようだ。
 かねてから述べているように、レムは究極の弧峰である。多くのファンを持ち、国際的な評価は高いけれど、その流れを継ぐ者や、追従者すら見当たらない。何ものも寄せ付けないという意味で弧峰なのである。例えば、本書の8割を占める寓話的な作品群が好例だ。「航星日記・第二十一回の旅」では、あらゆることが可能になった社会の変化を、生物学、進化論、社会学など、さまざまな論理や宗教論で追及していく。これほど広範囲で緻密な「独自の考察」(最新科学を無批判に取り入れない)を、小説の形式で書けるのは恐らくレムだけだ。「A・ドンダ教授…」では、計算機のシンギュラリティ(その暗黒面)のことが書いてあって、単純な予測/予言ではなく、ロジックだけで導き出したことに驚く。「仮面」はレムの作品中では、一番ファンタジイに近いものである。人間から異質な生き物へと変わりながら、わたしという一人称がシームレスに引き継がれる。「テルミヌス」は、機械的な存在であるロボットに、ある種の幽霊を見る人間の本質を考えさせる傑作だ。