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昨年12月に出た、小谷真理のSF/ファンタジイ入門書。読売新聞に2004年1月から2005年3月まで、ほぼ週刊で連載されたもの。平易で年少者向け(ふりがな付き)のようで、著者の自由連想のように選ばれた60冊(あらましは評者の要約)の並びが、これはこれで1つの作品を形成しているのが特徴である。 順不同にそのテーマを並べてみると、 時間(タイムスリップやタイムパラドクス)→魔法と心の力→知性の問題、人類を超える知性、ロボット(人工知性)、超能力→SFミステリ、スペースオペラ、SF/ファンタジーの古典の紹介→文明と科学/技術、文明と環境→コミュニケーション、自己の確立、自由と束縛、真と為の違い… などなど、非常に多岐にわたることが分かるだろう。書誌や出版史(歴史的価値)に偏らず、著者なりの多様性から選ばれたという意味で、誰が読んでも楽しめるラインアップになっている。
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「クオリア」で知られる、ソニーコンピュータサイエンス研究所の茂木健一郎が書いた小説ということで読んでみた。著者は小林秀雄賞を受賞しているが、フィクション長編としては本書が処女作になる。著者の専門は脳科学である。人の感覚を形成する質感「クオリア」は、言語化も記号化もできないとする。 物語の主人公は、大学時代に知り合った女性を事故で亡くしたことをきっかけに、やがて上海でスペラティヴ理論を応用した事業に成功し巨万の富を得る。一方、一人の天才科学者が、脳内メカニズムを究明した画期的なプロセス・アイProcess A.I. 理論を発表する直前に失踪する。やがて、彼らの接点はインドネシアに置かれたクオリア研究所のミッションと重なり合う…。 クオリアは記号化/言語化ができない故に、通常の方法でコピーすることもシミュレーションすることもできない。それを解き明かすためには、超“人間”的な手法が必要になる。そこが本書のテーマの1つになっている。 著者の日記を読むと5年近く前から、書き継がれてきたことが分かる(それだけ思い入れがあるのだろう)。さて、しかし小説としてはどうか。会話は地の文章のようだし、主人公の行動も説得力に乏しい。多くの伏線は回収されているものの、物語のスケールを落としているようで十分ではない(たとえば主人公が取る奇矯な行動の理由等)。何せSF界でも注目が集まる先端のテーマであるわけで、最高の専門家である著者には、小説の質感「クオリア」においても、最高の期待が集まるのはやむを得ない。
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著者の最新長編で、既に話題の本。 高齢化社会の究極の解決法として、老人相互処刑制度(シルバー・バトル)が設けられる。厚生労働省傘下の中央人口調節機構(CJCK)が全国を区分し、70歳以上の老人が各区域1人になるまで、老人だけの殺し合いが行われる。生き残った者にだけ、後の生存権が約束されるのだ。主人公は他地区の生存者である元刑事を助っ人に招くが、元自衛官やマッドサイエンティストら、手ごわいライバルたちがお互いの命を狙いあう。やがて、戦いは凄惨な結末を迎える。 この作品を書くため、70歳を過ぎるのを待ったという著者渾身の作品。それほどページもないのに、老人を中心に(山藤章二のイラストつき)、55人余の登場人物が描き分けられているのも特徴。お話だけを聞くと著者独特のスラップスティックのみ(そもそも『バトル・ロワイアル』(1999)のパロディでもある)のように思えるけれど、本書の書き方は綿密で一切の破綻が見られない。これだけの人物を、章立てや空白行なしで場面転換ごとに投入し、歌舞伎や映画のシーンを取り込むなど、非常に複雑かつ精密なできあがりになっている。しかも、この作品のリアリティは『バトル・ロワイアル』よりもよほど高いのである。
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地球帝国の秘密諜報員ドミニック・フランドリーものの単行本としては、本邦初にあたる。
といっても、本書に収められた中短編はすべて1950年代に書かれたものであり、年代から見れば、現代のヒーローものよりキャプテン・フューチャー(1940〜51)に近い。 虎口を逃れて(1951):誘拐された主人公が、未開地域の新興帝国で分断工作を画策する。 謎の略奪団(1954):帝国内の惑星で皇室の姫君が奪われる。主人公は探索に赴くが。 好敵手(1951):心の中身が完全に読み取れる敵と遭遇した主人公の行動は。 <天空洞>の狩人たち(1959)初訳:帝国のバランスを崩しかねない地域が侵攻される。それには意外な黒幕がいた。 全盛期を過ぎ、斜陽化する地球帝国のエージェントとして、権謀術数と奸智を駆使して地球の権益を守ろうと活躍するフランドリーには、イアン・フレミングの007シリーズとの類似を感じる (ジェームス・ボンドが登場するのは1953年のこと)。戦前の帝国が没落し、冷戦下の新興勢力(ソビエト)がアメリカを脅かし始めた時代を、SFに反映させた作品である。ドミニック・フランドリーは、わが国でも1960年代に紹介されよく知られていたものの、単行本になるまでには至らなかった。アンダースンはシリアスな作家という印象が強く、ユーモアを交えたスパイものに対して違和感があったせいかも知れない。 さて、21世紀に読むフランドリーはどうか。 テンポの速い現代エンタティメントとの比較は難しいけれど、クラシックSFを楽しむ余裕があれば楽しめる。ロイス・マクマスター・ビジョルドの<ヴォルコシガン>の系統が好きなら読めるだろう。
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著者の短編集としては『審判の日』(2004)以来になる。前作は大半が書き下ろしだったのだが、今回は1作のみが書き下ろし。10年以上前の2作品の他、「シュレーディンガーのチョコパフェ」は、20年前の同人誌「星群ノベルズ エデンの産声」(1985)収録作だし(全面改稿版)、表題作も同時期の習作が原型ということで、初期作品集に近いかもしれない。 奥歯のスイッチを入れろ(書き下ろし):サイボーグが体験する加速された時間。 バイオシップ・ハンター(1990):生きている宇宙船が追つめた宇宙海賊の正体。 メデューサの呪い(2005):物質文明を衰退させた奇妙な異星人の語る、言語文明の秘密とは。 まだ見ぬ冬の悲しみも(2005):タイムマシンによる過去への旅がもたらした世界。 シュレーディンガーのチョコパフェ(2005):過去に進む電波を生成する装置が発明されたとき。 闇からの衝動(1995):C・L・ムーアとカットナーが出会う恐ろしい古代からの秘密。 SF専門誌掲載作ばかりなので、濃厚なSFアイデアを味わうことができる。コアなハードSFを書いている著者だが、言語文明の秘密を受け取る主人公が詩人であったり、表題が戯曲から採られている(単行本未収録の処女作「シルフィラ症候群」(1976)では、ブレイクの詩が引用されていた)など、文藝的にも結構スタイルを選んでいるのだ。馬鹿話がSFの本質である点は作者の主張に同意するけれど、読み手を最後まで騙す技法も重要だ。“本物と見分けのつかなくなった偽物”にこそ、SFの真髄があるように思えるからである。
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ウルフのオリジナル作品集である。一昨年出た『ケルベロス第五の首』(1972)は連作中篇集だった。本書の場合は有名な「島医者もの」をメインに、2編を加えたベスト選集となっている。これは、death/island/doctorという3つの単語を順列に組み合わせ、それを題名とするお話を作ってしまうという、ジーン・ウルフ流の洒落なのだが、出来上がったお話が互いに関連を持ち合い、非常に複雑な造りとなっているのが特徴だ(そのうち1編はまえがきに収められている)。 まえがき(1983)*:まえがき内に、島を愛する退任教授のエピソード「島の博士の死」を収める デス博士の島その他の物語(1970):一人の少年が夢想する冒険小説中の島 アイランド博士の死(1973):木星の軌道に浮かぶ衛星には島があり患者が収容されていた 死の島の博士(1978)*:40年間の冷凍睡眠から目覚めた無期受刑者が見た未来社会 アメリカの七夜(1978):崩壊し廃墟と化したアメリカを訪れるイラン青年が見た幻影と真実 眼閃の奇蹟(1976)*:盲目の少年が“見る”夢の社会の住民たち *…本邦初訳 翻訳も読解も困難だったため、そもそもこの「島医者もの」も70年代に翻訳されたきり、単行本になることはなかった。本書の作品は、オービットやユニバースといった当時全盛だったオリジナル・アンソロジイに収録されたものだ。しかし、この頃の日本(70年代〜80年)は、シリアスな翻訳SFが冬の時代だった。難しいという世評も障害になった。今読むと、これら作品が言うほど難解なわけではない。作者が用意したさまざまな趣向(たとえば、「島−医者−死」が互いに逆転しながら関連しあっているというテクニック)も、読書慣れした人には十分理解できるはずだ。先入観なく、ウルフの真髄を楽しめる時代になったのだから喜ばしい。
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