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2002年11月に出た、ジョージ・R・R・マーティンの長大なファンタジイ“氷と炎の歌”第2部である。第1部の翻訳が出てからちょうど2年を経ているが、類作が数多いこの分野の作品の中で、埋もれることなく存在感は際立っている。もともと原書も第1部から3年後に登場し、業界誌ローカスのファンタジイ長編賞を、第1部に続いて連続受賞(ちなみに同年のSF長編賞は『犬は勘定に入れません』が受賞)している。ローカスは出版ニュース誌なので、プロフェッショナルな読み手の支持を受けた作品といえる。また、マー
ティンの諸作の中でも、もっとも売れたシリーズだろう。 ローバート王亡き後、王都を押さえるラニスター家(摂政を務める后と長男、后の弟)に対して、ロバート王のバラシオン家次男と三男、王とともに殺された北の王スタークの長男は、互いに覇権をめぐって戦いを繰り広げる。戦いの混乱の中で、狼とともに育った幼いスターク家の兄弟姉妹たちにも、さまざまな困難、破壊と暴力/死が立ちふさがる。やがて、首都攻防の大会戦が陸海で勃発する。 さて、権謀術数の戦国時代絵巻は、第1部に続いて本書でも繰り広げられる。しかし、その一方で、“冬”の到来とともに、魔法の力がしだいに増してくる。中世ヨーロッパ風七王国はリアルに、中央アジアを思わせる騎馬民族の国や中国風の大都市は幻想/魔術的と、明確に描き分けられる。ドラゴンは騎馬民族の国で蘇り、極北からは伝説であるはずの魔法や魔物が続々と七王国を侵食してくる。ここからいよいよ、マーティン流ファンタジイの真骨頂、魔法と現実との融合/対立が明らかになるのだろう。第2部の物語は、そういう意味で何も完結しておらず、中間点を駆け抜けたという印象。 それにしても、登場人物400人余り、主要な人物だけでも20人は下らないという複雑な大作。あまり間隔を空けて読むには適さない。巻末の登場人物リストは役に立つが、「前巻までのあらすじ」くらいは欲しいところ。
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2004年のベストSFに選ばれた『熱帯』でも、ソフトエンジニアをイリアス『トロイ戦記』風に描くという件があったが、本書はヘロドトス『歴史』(全9巻―邦訳では3巻―中、本書
のサラミス海会戦は8巻目、翻訳にして40ページに相当)そのものの世界を描く。
時は紀元前5世紀、強大な権勢を有する大ペルシャ帝国と、複数の都市国家からなるギリシャ社会とは、小アジアの覇権争いからついに全面戦争に突入する。その戦争も後半、押しまくるペルシャがギリシャ連合軍を追い詰め、数倍の勢力で狭い内海サラミス海に殺到する。しかし、地の利はギリシャ側にあり、大混乱の中でペルシャ軍は敗退、以降の戦いの趨勢までを決める重要なターニングポイントとなった。 本書のリアリズムはちょっと変わっている。酔っ払いのアレクサンドロス大王(評者もはじめ勘違いしていたのだが、ここに登場するのはアレクサンドロス1世で、いわゆるアレキサンダーで知られる3世ではない)がでてきたり、英雄テミストクレスは病弱な策士、スパルタの司令官エウリュビアデスは優柔不断に描かれている。独裁者で美女のアルテミシアに対する感想も、「女だから許せん」という単純なものでしかない。『歴史』がペルシャ対ギリシャという“スペクタクル巨編”だったのに対して、こちらが淡々とした“ドキュメンタリ”なのは、ギリシャ古典よりもなお冷静という、作者なりの計算があるのだろう。
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レム・コレクションの第2弾。今回は本邦初紹介の自伝『高い城』(1966)が注目される。また、エッセイでは、自伝(『高い城』より後の時代についても言及されている)、SF論2編、書評7編が収録されている。 レムは旧ポーランド領(現在はウクライナ領)のルヴフに生まれた。父親は医師で、幼いころから(高価だった)多くの本を読むことができた。作家の多くが(手当たりしだいの)知識集積の原点とした、百科事典を隈なく読むという行為も経験している。破壊魔で、もらったおもちゃは残らず分解され、元に戻ることはなかった。ギムナジウム時代に、レムは奇妙な遊びに熱中する。それは架空の国/機関の書類(パスポート、許可証、証明書類)を捏造するものだ。さまざまな役職と、それに伴う複雑な許認可制度が考え出され、書類に権威付けがなされていた。これなどは、後の『浴槽から発見された手記』等に片鱗が覗くエピソードだが、レムのお話作りの明晰さを証明するものとも考えられるだろう。 評論「SFの構造分析」(1970)では、SFの類型とそれを止揚する読者との関係、「メタファンタジア」(1970)ではさらに進んでSF小説/評論の可能な形は何かが、レムの考えとともに分析される。 書評ではこの姿勢がもっと辛辣に示される。トドロフ『幻想文学論序説』の構造主義による書評の欺瞞を暴き、ドストエフスキー論では作家自身に迫ることと作品との乖離を論じ、ウェルズ『宇宙戦争』論ではなぜ後のSFが本書を超えられないのかが説明される。ボルヘス作品の構造、ナボコフ『ロリータ』の構造を解き明かし、ストルガツキー『ストーカー』ではコンタクトテーマの可能性が、フィリップ・K・ディック論では、使い古されたSFガジェット(小道具)と閉鎖的なアメリカSF界の中で、なぜディックがユニークであり続けるのかが詳細に語られている。 本書は、『J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド』とよく似た構成で作られている。バラードとレムとでは、作家の姿勢が正反対(感性重視/論理重視)といえるけれど、対極であるが故の類似性=“孤高さ”もまた感じ取れる。上記エッセイは何れもレムの思索の深さを証明している。しかし、彼のSFを実践しえる社会的な環境はなく、彼の理想とする目標にSFが近づいているという事実もない。そもそも、レム自身、究極のSFは架空評論の中でしか表現できなかったのだから。
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昨年11月に出た、小松左京賞作家上田早夕里の長編第2作である。 舞台は、木星の衛星軌道を巡る宇宙ステーション「ジュピターI」。折りしも交代勤務に赴く警備チームのメンバーに、緊急指令が届けられる。保守的な生命倫理過激派によるテロ行為が予告されたというのだ。ジュピターIは単なる観測の前線基地ではない。将来的な宇宙進出を見据えた、人類の創造実験が行われている。彼らは性に束縛されない。男と女、2つの性を共存させたまったく新しい精神を持つ人々だった…。 木星の最新天文知識、環境保護と保守主義、テロと治安維持、男女の性(ジェンダー)の相克という過剰なほどの設定を詰め込んだ意欲作である。途中まで、「ラウンド」と呼ばれる新人類とのトラブルや、テロリストの正体など、ミステリ的な要素で物語は牽引される。警備担当者、ステーションの管理者、ラウンドの指導者、仲介者である医師、謎のテロリストと人物も多彩に登場する。ただその分本書のメインテーマであるべき、“ジェンダー”に対する踏み込みが浅くなった。異なる生理体系を抱えた人類という、『闇の左手』以来のモチーフに絞り込んだ作品を読みたいところだ。
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