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飛浩隆の第1作品集。1982年1月にデビュー(三省堂SFストーリーコンテスト受賞作「ポリフォニック・イリュージョン」。ちなみに、この賞の佳作は井上祐美子だった)以来13中短編しか発表していない作者の、代表的な4中篇が収められたものだ。すべて、何らかの改稿がなされている。 「デュオ」(初出1992) シャム双生児、しかも話せず音が聞こえない天才ピアニストに隠された秘密 「呪界のほとり」(初出1985) 魔法が使える銀河中心世界から逃れた男が出会うマッドサイエンティスト 「夜と泥の」(初出1987) ナノテク技術でテラフォーミングされた惑星に甦る“ジェニーの肖像”の謎 「象られた力」(初出1988) 惑星<百合洋>の消滅から1年、失われた文明は氾濫する図像となって不吉な影を落とす 処女作「ポリフォニック…」(男女の意識がシームレスに繋がりあう)もそうなのだが、著者の作品は視聴覚を駆使する描写が多い。本来これらは、ものと観念(思考)をつなぐインターフェースなのに、現実の変容(たとえば、殺人/生命の創造)と直結している点が特徴だろう。この関係は、「象られた力」で究極まで突き詰められている。すなわち、文字やシンボルが目に見える変異となって姿を現す。3つの領域(感覚/五感-理念/思想-物理的事物)の双方向性が、作者を印象付けるもう一つのポイントである。 ただし、作品集としての本書はバランスが悪い。冒頭の「デュオ」、巻末の「象られた力」が重い上に、挟まれた「呪界のほとり」は(まだ書かれていない)シリーズを想定したものだし、「夜と泥の」は「象られた力」と対を成すような印象を残すため、読者は最後まで緊張を強いられる。それぐらい密度が濃い。もう少し、読み手のリズムにも配慮すべきだろう。
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8月に出た本。ムアコックの元ネタについてはすでに旧聞。いくつか書き出してみると、 フランスはメニボン(メルニボネ)のとある夭折した皇子の霊が憑りついた、レジャーランドの老社長 江里陸夫(エルリック)、何かと隠し事のある社員 飯留勲(イルクーン皇子)と、人材派遣会社ルーンスタッフ(ルーンの杖)の西森ルミ(サイモリル皇女)、レジャーランド内のパープルタウン(紫の街)のショップ店長岩田純夫(スミオーガン)、エスニックレストラン パン・タン(同名の島国)の経営担当 若林蘭三(神政官ジャグリーン・ラーン)と金瀬鈴夫(魔術師セレブ・カーナ)、千葉県警刑事 紅林公人(紅衣の公子コルム)、古根刑事(ジェリー・ア・コーネル)、警視庁 鷹月道利(ドリアン・ホークムーン)、暴力団有吉会(混沌の神アリオッチ)、構成員の黒木剣(魔剣ストームブリンガー)…。 ただ、全てが分からなければ楽しめない、というわけでもないだろう。皇子はフランス十字軍時代の地方領主の跡取りで、エジプト遠征で敗残兵となって帰国した等、750年前の史実に基づく背景がちゃんと書かれているからだ。中世の殺人事件と21世紀日本での事件がシンクロするあたり、70代の老人が暴力団相手にエルリックばりに暴れまわるシーンは、十分楽しめる。エルリックネタはオマケ…の割りに執拗で詳細なのは、作者のスタイルによるので、その点は割り切って読むほうがいい。 確かに、伏線の説明が元ネタにある(しかも、本書では語られない)ものまであって、これはちょっと不親切なのだが、すべての引用文献を記載してあるのは立派かも。
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キャプテン・フューチャーの集成版。バローズ(火星シリーズ)、ドク・スミス(レンズマン)、ハミルトン(キャプテン・フューチャー)と、日本におけるパルプ三兄弟が、同様の形態(最新の装幀)でそろった形となる。アシュリーの研究書でも明らかだが、パルプの小説としての地位は欧米では極めて低い。逆に、パルプ時代を30年近く過ぎ、事後になってから野田昌宏氏によるフィルタを経て紹介された日本では、感情的な悪印象が全くない。また、辻真先脚本のアニメを見た世代の影響も大きい。NHKから1978年11月に始まり1年間52話に及ぶもので、設定が太陽系から銀河系へと移されている。その点は日米の大きな違いだろう。 太陽系主席のもとに奇怪な事件が伝えられる。木星植民地で地球人が先祖がえりを起こし、類人猿となって知能を失うのだという。その病気は人々に蔓延しつつあり、防ぐ手立てがない。解決のためには最後の手段しか残されていなかった。北極の信号灯を点灯させ、月基地に待機するフューチャーメンに救助を求めるのだ。キャプテンは、3人の仲間とともに愛機コメット号に搭乗し、長駆木星まで飛行する(『恐怖の宇宙帝王』)。 またも事件、大災害をもたらす巨大な暗黒星が突如姿をあらわす。まもなく太陽系を横切るというのだ。人々は無策な政府を糾弾、解決手段を提唱する怪人を支持する。怪人の正体は何者か、暗黒星の秘密とは何か。キャプテンは、はるか冥王星を目指して出撃する(『暗黒星大接近!』)。 キャプテン・フューチャーが登場した1940年は、今日のSFが生まれつつある時代だった。意外に思うかも知れないが、1940年では既にキャプテン・フューチャー型の冒険SFは古い分野になりつつあった。単に波乱万丈では、読者は喜ばなくなっていたのである。キャプテン・フューチャーはこのタイプのヒーロー小説の最後となった。とはいえ、危機また危機のスタイルは、同時期に生まれたコミックブックのルーツとして生き残っていく。
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評者が『ソラリスの陽のもとに』(ロシア語版からの翻訳)を読んだのは、もうかれこれ36年も前のことである。その時点で、すでにソラリスは伝説的な傑作と評されていた。また、アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』(1972)やスティーヴン・ソダバーグ『ソラリス』(2003)など、2回の映画化のほうがむしろ知られているだろう。映画のテーマは明白で、タルコフスキーはロシア的な原風景をふんだんに鏤めた原罪と罰の物語を作り、ソダバーグは悲劇的な失われた愛と甦りのロマンス(まさに『黄泉がえり』)を物語とした。そのどちらもが、作家レムの“主たる視点”とは異なるものであったことは間違いない。なぜなら、本書は知性のあり方すら異質な、未知の存在とのコンタクト(接触)の物語だからである。本書はポーランド語原典から直接翻訳された『ソラリス』決定版であり、コンタクトテーマに関わる重要な欠落部分(約1割)も補われているという。 ソラリスが人類に知られてから百数十年が経った。その惑星は二重太陽系に伴う不安定な軌道を、重力を制御することによって自立的に安定させているのだ。ソラリスは惑星海面全体を覆う巨大で単一の生命だった。しかし、最初の接触を目指したさまざまなプロジェクトはことごとく失敗する。あまりに異質で、共通点のない知性とコミュニケートする手段はないのか。しかし、ある日ステーションの科学者が行った個人的な実験が思わぬ結果を生む。彼ら自身の記憶の奥底に隠されていた傷跡が、実体を伴って現れるのである。主人公の場合、それは19歳で自殺したかつての恋人だった…。 本書は、550枚ほどの短い長編である。そこに、コンタクトの物語、人の持つ罪(奥底に隠された罪悪感)の物語、失われた甘美な/悲劇的な恋の物語という、複数の物語が並存している。そもそも単一の視点しかない作品では、これほど長生きできない。ようやく世間がレムに追いついてきたのか、原点としてのテーマ“完全に異質なものとのコンタクト”が重要な意味を持ち始めている。たとえば、人の知性=大脳生理作用の物語、不完全=欠陥を持った神の物語と見れば、グレッグ・イーガンやテッド・チャンとも違和感なくつながってくる。 最後に、「SFマガジン2004年1月号」(レム特集)について書いたコメントを再録してみよう。
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9月に出た村上春樹の最新作にしてベストセラー。SFプロパーの立場から見ると、村上春樹の多くの作品もまたSFの周辺とみなせるポイントがあるため、これまでもそうした観点で評価してきた。本書のポイントは、登場するラブホテルの名称が、ジャン・リュック・ゴダールの実験的SF映画『アルファヴィル』(1965)だったり、“TVの向こう側”に非現実の檻があったりする点だろうか。 渋谷の深夜、ファミレスで読書をする主人公と、バンドの徹夜練習をする若者とが出会う。その若者の紹介で、主人公はラブホテル「アルファヴィル」で暴行を受けた売春婦を助け、誰にも語らなかった姉の秘密を打ち明ける。姉は、誰とも接触を絶ち、ひたすら眠り続けるのだという。その夢の中で、姉は空き家になった無人の部屋に目覚めている。そこは出口のない檻でもある。現実世界では、売春婦を傷つけた男が、同じ間取りの部屋で仕事をしている。男(システム・エンジニア)は、机だけが並ぶ誰もいないオフィス(アフターダーク/陽が落ちた後の世界)で残業を続ける。 村上ファンなら、主人公と若者との会話を、ある種の恋愛ものとして楽しむことができるだろう。とはいえ、ファンタジイの要素は、閉塞的な姉の境遇/情緒を欠いた暴行男の心理とストレートに結びついているようで、類作に比べても単調かもしれない。村上春樹から(評者が勝手に)読み取るSF要素は、ますます断片化されてきた。その傾向は近作ほど強まっており、まるでデフラグをしないハードディスクのように分断されて見える。
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8月に出て、世界幻想文学大賞受賞作というより、山尾悠子訳(訳文のリライト)が話題になった作品。 独裁者が創造した理想形態市(Well-built City)から、顔や体の特徴で人の罪悪を予見する「観相官」が辺境の属領へとやってくる。鉱山から出る塵埃の作用で半ば化石と化す人々の間で噂かれる、不死を約束する「白い果実」の行方を確かめるためだ。しかし、麻薬作用で朦朧となる中、助手の女に呪われた顔を彫りこんでから、彼の運命は暗転する。独裁者による村民の虐殺、硫黄鉱山への追放と復権、理想形態市に巻き起こる混乱、崩壊する都市の景観の中で、果実に秘められた秘密もまた明らかにされるのだ。 山尾訳ならば、幻想味の濃さが予想されるが、意外にもライトな印象を受ける。それはむしろ当然で、フォードに影響を与えた作家で挙げられるのが、ミシェル・トゥルニエ(フランスの作家)、イタロ・カルヴィーノ(イタリアの作家)、ナギーフ・マカフーズ(エジプトのノーベル文学賞作家)、ジョン・ガードナー(アメリカの作家、新ジェームズ・ボンドの作家とは別人)、クヌート・ハムスン(ノルウェイのノーベル賞作家)、ブルーノ・シュルツ(ポーランドの作家)、エイモス・チュツオーラ(ナイジェリアの作家)、安部公房らなのである。評者も、この作家全てを知っているとホラを吹くつもりはない。だが、トゥルニエ、カルヴィーノ、チュツオーラと聞いただけでも、幻想の質が重厚ではなく軽妙/軽快なのだと予想できる。だとすると、本書を山尾悠子が訳したのが、はたして成功といえるのかどうか。適任なのは、たとえば佐藤哲也とかでは。
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