2017年11月に出た上田早夕里の最新長編。小説推理2016年4月号から17年6月に連載されたものに、新たな章の追加など大幅な修正を加えた作品。「1931年から1945年まで上海フランス租界に実在した日中共同研究機関「上海自然科学研究所」。私はこの研究所の存在を、歴史の闇の中に埋没させたくないという想いから、この作品を執筆しました」(著者のブログ)とある。上海自然科学研究所は、第1次大戦後に対中融和のため設立された、その名の通りの自然科学を研究するための施設だ(旧フランス租界にあった建物は現在も残っている)。日本主導で建てられたが、日中間の紛争が深刻化するにつれて、共同研究という双方の立場は矛盾をはらむものとなっていく。その間の経緯は、例えばこのような文献でネット上でも読める。
1936年、京都帝国大学医学部を出て微生物研究に携わっていた主人公は、教授の勧めもあって上海に渡る。国際色豊かな上海自然科学研究所に勤務するためだった。しかし1937年、盧溝橋で始まる中国軍との全面衝突は、通州事件や大規模な第二次上海事変、南京陥落を招き寄せ、日中間の亀裂は最大限に広がる。翌年、研究所は関東軍の石井軍医中佐の視察を受ける。主人公はそのとき、軍属である医師から満州国にできた新研究所の話を聞く。3年後、日本がアメリカと開戦すると同時に、中国では蒋介石が対日宣戦布告、研究所は自由な国際研究所から国策の研究所へと変貌していく。あるとき、主人公の友人だった1人の研究員が行方不明となる。さらに2年後の1943年、総領事館から奇妙な依頼を受ける。武官の監視下で、未発表の論文の一部を読み、報告するよう指示されたのだ。そこには「キング」と暗号名が付けられた、治療法が存在しない未知の細菌のデータが書かれていた。以降、主人公の運命は大きく変転する。
石井四郎(最終的に軍医中将)は、731部隊で知られる細菌兵器を研究した関東軍防疫給水部本部の長で実在の人物だ。捕虜相手に人体実験を繰り返したが、その非人道的な行為はアメリカとの秘密取引により罪に問われなかった。本書では、その部隊と「キング」との関係が1つのキーとなっている。主人公は純粋な科学者であろうとするが、周りの状況が個人の意志を捻じ曲げてしまう。友人の研究員や関東軍の医師、細菌を培養する研究者らも時代の空気に呑まれ、最悪の病原兵器開発に巻き込まれていく。そんな中で、軍人である1人の登場人物は独自の考えを持つようになる。
著者は前掲のブログの中で「この作品では、歴史上に存在する各種の隙間にそのつど細かくフィクションを差し挟んでいく手法をとりました。歴史を背景としてフィクションがその上に乗っかっているのではなく、歴史の隙間にフィクションが在るという形態です」と述べている。実在した研究所、実在した石井部隊と、日中戦争の史実を置き(解釈に相違があるものは、微妙な表現となっている)、その間に未知の細菌R2v=キング(破滅の王)や、主人公をはじめとする架空の人物を挟むという意味なのだろう。この組み合わせはとてもシームレスで迫真的なため、日中戦争を知らない読者には、すべてがフィクションだと思えるかもしれない。大半は主人公個人の視点で書かれているが、著者の多視点型長編(『華竜の宮』など)と比べて違和感がないのは、物語の舞台や時代そのものが多層的だからだろう。
本書では『復活の日』などと違って、パンデミックが食い止められたかのように読める。しかしそうではない。本文には書かれていないが、補記で短く示唆されているからだ。歴史を歪める影響があったと思われるが、どうなったのか気になる。