大会スタッフたち | |
どんな大会でも最初から有名人、経験者が主催することはない。筒井さんのSHINCONも、もともとは無名時代のDAICON1があるからこそ出来たものだ。5の場合、そのメンバーに大会実行委員としての経験者はほとんどいなかった。 DAICON5に集ったスタッフは、山根、坪井らの他では、清水宏祐(元SHINCON委員長)、西川、佐伯(プランニング・ハリマ=S年F組授業ライブ)、小浜、高橋、山崎(星群)、それ以外に田中、斉藤、大溝の女子大生SFファントリオ…という、雑然としたメンバーだった。もともと当初メンバーには星群幹部の椎原豊が入っていたため、関係者も多かった。しかし、星群には星群祭という独自のイベントがあった。過去の大会関与も苦い経験となっていた。ファングループとしての星群(注1)参画は、結果として見送られたのである。岡本(KSFA)はいたが、KSFAは大会自体に無関心だったといえる。参加する目的は、旧知の作家・翻訳家との歓談のためだったからだ。後しばらく、創作研究会(北西航路)のメンバーが参加していた時期もある。顔ぶれは、およそ大会主催者らしくない。 その一方、小浜らの活動でUNICONの会場は早々と押さえられていた。神戸の中心近くにある兵庫県民会館で、ホールと4つの会議室からなり、300人程度の大会には最適と思えた。一方、宿舎は摩耶山(六甲山系にあり、神戸の市街地が一望できる)にある神戸摩耶ロッジ(国民宿舎、注2)を確保。120名が定員だった。形の上では、リゾート型と都市型の両方を備えた理想的な大会だった。
当時の大会について下記のような分析がある。 | |
参加者の平均年齢は19〜21歳、この平均層で総員の50%、29才以下で98%を占めるが、特に23歳を越えての参加者は非常に少ない。 | |
男女比は70〜75%対30〜25%。 | |
無所属ファンを惹き付けるために、ショー型の目玉企画1つ(大ホール企画)と複数の分科会が必要。分科会を自主企画に任せる場合でも、実績のあるグループか、事前の十分な打ち合わせが不可欠。 |
ショー型の企画については、なければ大会の参加者への訴求力が乏しくなると考えられていた。これは分科会だけを中心とした大会が、比較的地味な印象だけしか残さなかった前例にもよる。ある意味で、ショーで成功したDAICON4の呪縛といえる部分でもある。UNICONの予算は300名の参加を見込んで180万円、イベント費に50万円を予定していた。しかし、このころからSF大会参加者に陰りが見え始めていた。第6回SFショー(1984)は、当初1500名を予定しておきながら、わずか500名の参加者しか得られなかった。認知度が低い大会は、参加者も見込めないのである。UNICONのテーマは「関西ファンの集い」であり、ローカルな参加者を対象にしていたが、一方でグローバルな大会であることを宣伝する必要があった。たとえば、下記のように(SFマガジン1985年2月号掲載の広告)。
不気味な現象も起こり始めていた。実際の申し込みがないにもかかわらず、想定参加者数が11月には350名、翌年1月には400名と膨らんでいったのである。ショー的イベントの費用が判明するにつれて、予算規模が拡張され、収入増(=参加者増)が不可欠になっていった。 注1:日本でもっとも多くの作家を輩出しているのは文句なく「宇宙塵」、2番目が「星群」となる。菅浩江、ロードス島戦記の水野良、中国ファンタジイの井上祐美子、ト学会の山本弘、最近では秋山完らも席を置いた。最近ちょっと不振のようだが、ファンジン大賞の小説部門では星群作家が常連だった。 注2:ここは阪神大震災後、ケーブル、ロープウェイともに不通となり休業していた。これらは現在民間資金により「オテル・ド・摩耶」という名前で再開(2001年)。 注3:参加費は初日(半日)が2500円・2日目3500円、合宿費はケーブルカー、ロープウェイ付で7000円だった。 |
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