99/04/03

6年の歳月――『ハヤカワ文庫解説目録』(早川書房)
 今回は、ちょっと趣向を変えて、ハヤカワ文庫解説目録を読む。といっても、中身を通読したわけではなく、6年間の出版の流れを読むのである。一般に、書店で無料配布されている解説目録には、その時点で入手可能な本のみが掲載されている。もちろん、中には絶版に近いものや、再刊されて間もないために、未掲載のものもあるだろうが、おおむね在庫があって、生きている本が中心である(そのための目録なのだから)。従って、これを見ればその出版社における、売れ筋や力点の移り変わりがわかるのである。
 たとえば、1993年7月の目録と99年1月の目録を比べてみると、
 
分 類 1993年 1999年 備      考
SFマーク 538冊 370冊  
FTマーク 107冊 95冊 ファンタジー
JAマーク 195冊 219冊 日本作家(ミステリ、コミックを含む)
HMマーク 499冊 690冊 ミステリ(ミステリアス・プレスを含む)

 93年から99年の間に、SFマークはコンスタントに刊行されて、累計出版点数も1200冊を越えている。99年の生き残りは30%以下。そういう意味で、過去よりも生存率は下がったことになる。今現在がミステリ重視なのは明らかだ。これは、「ミステリ・ブーム」だから、当然のことだろう。合計を見るとわかるが、どちらの年であれ、総在庫点数自体はほとんど差がない。1出版社の支えられる数には限度がある。作家ごとの生存率などを見て、人気の度合いを分析することもできるはずだ。
 とはいえ、「SFが衰退してミステリの時代なのだ」といっても、盛者必衰、逆転する可能性も、近い将来当然あると考えられる(根拠のない自信)。

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99/04/11

g3.jpg (9880 バイト) 金子修介監督・伊藤和典脚本『ガメラ3』(大映)
  1. 見たタイミングでいえば、ほぼ上映期間終了間際というところで、既に世評も確定している。“旧来の怪獣ものを凌駕する画期的な映画”であっても、小学校中学年以上ともなれば、子供連れでも、それほど問題のないレベル。極度に残酷ということもない。たとえば『モスラ』などは、もはや小学校低学年がいいところ。
  2. 昔から、怪獣映画といえばミニチュア特撮を見るものと思っていた。最近Silicon Graphics風CGが幅を利かせるのは、まああまり好みではない。あれならば、ソフトの性能で誰でも超現実が作れてしまう。その点G3は、まだバランスがミニチュアにあるので、昔の雰囲気を残している(人によっては善し悪しだろうが)。
  3. 「過去の怪獣ものは、踏みつぶされた人々を描いていない」というが、実は黎明期の怪獣映画では、観客がそのリアリティを補完していた。怪獣は自然災害や戦争そのものなので、当時はまだその記憶が生々しかったからだ。70年代以降、記憶はどんどん薄れていったが故に、怪獣もののリアリティも失せていった。
  4. うーむ、しかしこのイリスという存在がよくわからない。玄武がガメラで、朱雀がイリスなのに、なぜ闘うのかが不明(さらに青龍は何で、白虎は何でしょうか)。地球の環境バランスが崩れたことで甦る神獣なら、立場は同じでしょう。単なる内輪モメか。
  5. 本当にこれでシリーズが終わるのならば、ラスト・シーンはこれでいいのでしょう。このまま続きを作ったら、まさに『エイリアン』にしかならないはず。
ダン・シモンズ『エンディミオン』(早川書房)
 年内に出る完結編とペアとのことで、読むのをサボっていると、単独でも面白いという声が大きい(なんて根拠で読んでおります)。
 銀河の諸惑星を巡るテテュス川は、かつて超空間ゲートで異世界を結んでいたが、それらを支配する人工知性テクノコア崩壊後、機能しなくなっていた。三百年後、世界を支配したのはカトリック教団パクスである。そんな彼らの前に、時間の墓標を開いて現われたのが、救世主と呼ばれる少女だった。少女は、主人公エンディミオンとアンドロイドを供に、再びテテュス川を下りはじめる。その行く手に待つものは何か…。
 結論からいえば、評判通り、ということになる。キーツの詩から取られた題名(エンディミオン)とお話の導入、引き続き繰り広げられる『オズ』の世界巡り、仄めかされる巨大な世界変革の動きと、スケールは従来作レベルを保っている。前作では、ちょっと雑な構成に、シモンズの長編作家としての資質を疑ったりしたが、本書はオムニバス風(連続活劇風)に惑星を渡り歩く設定が利いていて、前作のような混乱は見られない。シモンズはいわば“豪腕”作家で、千年も未来の人間が、朝コーヒーを飲んだり、イエズス会が宇宙を支配していても、違和感を感じさせる暇もなく、お話を進めるだけのパワーを持っている。パワーが分散しなかった分、物語がまとまって見えるのだろう。
endymion.jpg (5809 バイト)

99/04/18

everywhere.jpg (5034 バイト) ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』(早川書房)
 
さて、1981年に出た短編集であり、86年の『たったひとつの冴えたやりかた』に連なる作品である。『たったひとつ―』が翻訳された当時は、ティプトリーが自殺した直後だったせいもあり、内容的にそのような背景を意識せざるをえなかった。それから12年が過ぎた今になって本書を読むと、また違った印象を受ける。反復される“孤独感”と“世界破滅”のモチーフは、やりきれないはずの雰囲気を、妙に透明感のある静寂で包み込んでくれる。50年代の破滅SFと、今日のフェミニズムSFとの中間に位置し、まさにうってつけの設定で書かれてはいるのだが、そのどちらともいえない。もっとも近いもの(=人、人類、社会)が永遠に理解できず(分かり合えず)、もっとも遠い存在こそが登場人物たちの心に強く結びついている――ティプトリーは本書の中で、何度も繰り返して、そのことを訴えているようである。

99/04/24

マーリーン・S・バー『男たちの知らない女』(勁草書房)
 2月に出た本。バーは英語文学準教授で、フェミニストSF批評をほぼ20年近く続けてきた先駆者である。著者は、フェミニズムSF(女流作家が書いたSF)を、より広い分野(ファンタジイ、文学、SFを包含)からとらえ直す意味で、“フェミニスト・ファビュレーション”と称している。ジャンルの問題は、アメリカでも深刻で、ある特定のレッテルが貼られると、その分野の読者にしか読まれることがない。特にSFの場合は、文学的な批評研究の対象からも外されてしまう。
 同様に、女性が女性特有の観点で書くことにも重大な差別が生じる。これはフェミニズム運動の意味に直結する。SFは、本来生物的に全く異なったエイリアンを、(さまざまな書き方で)許容すべき存在として描いてきた。そうであるが故に、人類=男性、現代社会=家父長的白人社会を、もっとも批判しやすいジャンルでもある。本書で論じられる、マキャフリイ、ティプトリー、ピアシーあるいは、非白人作家としての村上春樹などは、我々が持っている基本的な常識が、狭量な本能的規範に過ぎないことを教えてくれる。
 また、詳しい解説(小谷真理)、言及作品の解題(柏崎玲央奈)がおまけについていて、論文に不慣れな読者にも親切な構成となっている。
ブックデザイン・廣田清子

99/04/30

装画:藤原ヨウコウ 谷甲州『エリコ』(早川書房)
 
SFマガジン連載中から、さまざまな人に「なぜこんな話を書いたのか」と問いただされたという。まあ、ふつうの作者ならば、こんな問いかけはないと思うのだが、谷甲州作の官能アクション小説ともなれば、不思議に感じるのも無理はない。
 今から100年あまり未来の大阪、男から高級娼婦に変身した主人公エリコは、ある日、中国マフィア黒幇に狙われることになる。しかも、マフィアだけではない、警視庁の謎の男までが彼女を追ってくる。舞台は大阪、上海、東京、そして月(クラヴィウス)と目まぐるしく変転する。
 という設定だけでも異色なのに、本書の主眼は、主人公の奔放なセックス体験を描くことにある。性転換した男の視点なので、谷甲州ばりの無骨な登場人物を読み慣れた目でも、官能描写は違和感なく楽しめる。とはいえ、舞台が100年後の未来である必然性や、解明される巨大な謎の正体などは、やや消化不良に感じる。

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