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ピープル・シリーズ
(19世紀に地球に不時着し離散した異星人たち、彼らの姿は地球人と変わりないが不思議な能力を持っていた。恩田陸の常野物語が、このシリーズの影響下に書かれたことは有名)で著名な作者の、日本オリジナル作品集。
実質4冊しか出ていない(他は再編集もの)著作のうち、日本では3冊までが翻訳されているのだから、そもそも人気が高い作家だった。しかし、20年前に著者が65歳で亡くなって以来、翻訳の出版も途絶えたままだった。編者によると、ヘンダースンが書いた作品は、生涯合わせても中短編54編のみである。本書は、その中から著者の特質を伝える11編を幅広く選んでいるという。 忘れられないこと(1968)*:ある能力を持った子供が助け出す意外なもの(ピープルもの) 光るもの(1960):貧しい少女が泊まった大きな家の女主人の秘密 いちばん近い学校(1960)*:田舎町の学校に転入してきた紫色の生き物 しーッ!(1953):ベビーシッターの看ていた少年が創造したものとは 先生、知ってる?(1954)*:家庭に問題がある少女からの訴え 小委員会(1962):決裂寸前の異星人との交渉の裏で進む子供と母親の交流 信じる子(1970)*:人のことばを疑いなく信じ込む少女が得た究極の呪文 おいで、ワゴン!(1951):子供だけが知っている不可思議なパワーの顛末 グランダー(1953):崩壊寸前の夫婦の絆を取り戻す異次元の魚 ページをめくれば(1957):子供たちを本当に変身させる魔法の教師の思い出 鏡にて見るごとく――おぼろげに(1970):視野の周辺に遠い時代の光景がよみがえって見えたとき *本邦初訳 著者は専業作家ではなかった。大半を学校教師として過ごし、合間に小説を書いていた。それも、学校や子供たちをを題材にした作品が多く(ピープル自体も同様)、幅広いテーマを持っていたわけではない。残念ながら11編には世評を覆す新発見はないが、中では「おいで、ワゴン!」(デビュー作)、「ページをめくれば」、「鏡にてみるごとく―」が印象に残る。これに未収録の「なんでも箱」(1956)を加えれば、ヘンダースンのベストになる。一方、ピープルものは設定のユニークさから、今でもファンが多い。本の入手も容易だろう。
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日本だけの話だが、第26回日本SF大賞(『象られた力』)や、「SFが読みたい!2006年版」(『老ヴォールの惑星』)のベストSFが短編集だったように、国内外の作品を問わずSF界では短編集の評価が高い。昨今小説雑誌の役割/雑誌を読まなければ、最新状況に付いていけないというような強迫観念は、著しく縮小/減退している(この点は英米も同じ)。読者が中短編に触れる機会が、短編集のみに凝縮された結果かもしれない。 レフト・アローン(1995/2000):各国の利害から、小規模な紛争が頻発する火星の戦場で戦うサイボーグ兵士 猫の天使(2000):教会に潜むテロリストを見つめる一匹の猫が視たもの 星に願いを ピノキオ2076(2001):摘発を逃れた人工知能が求めた究極の隠れ家 コスモノーティス(2002):宇宙空間に適応した異形の人類が目指す深宇宙 星窪(書き下ろし):奄美大島に隠棲した画家が予見した宇宙からの知らせとは 「レフト・アローン」は「宇宙塵」(「SFマガジン」に転載)に掲載された著者の処女短編であると同時に、「SFが読みたい!2000年版」でベストに選ばれた『クリスタル・サイレンス』(1999)に連なる作品だ。著者は科学ジャーナリストではあるが、本書の作品が過度にハードSFというわけではない。小さなアイデア(猫の視ているものが人にも見えたら、隕石の記憶が感じ取れたらなどなど)がリニアに展開され、読みやすく分かりやすいものとなっている。中には「コスモノーティス」のように、未来の人類を扱いながら、心理は現在と類似といった物足りなさも感じる。しかし、著者の追求するテーマは“異質さ”よりも“同質さ(共感)”にあるのだから、納得できないものではないだろう。
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怪獣が出てこない普通の小説、と作者あとがきにあるが、独特の発想はやはり有川流だろう。 別の歴史を歩んだ日本、「メディア良化法」の下に良化特務機関が設けられ、有害図書の検閲/没収を行う。しかし、「図書館の自由法」に従う図書館だけは、そのような暴力から独立していた。検閲が武力を伴って実施されるのに対抗して、図書館は独自の“専守防衛”に従う軍事組織を設けるまでになる。有害図書の摘発と、読書の自由の戦いは続く。 図書館が自衛軍を持って、有害図書を没収しようとする軍事組織と戦いあう、一方図書館は既存の図書館として機能している。社会的な設定だけ見れば、どう考えても荒唐無稽でほとんどありえない(知識の保管庫である「武装された図書館」は、SFのシチュエーションとしてはありえるものの、今とは全く異なる社会体制が前提)。とはいえ、分かり易い「本を守ること」(本好きは性癖として、本が大量にあるところ、書店/図書館/蔵書が大好き)がテーマなので、ありえなくとも共感を持って読めるのだ。そこにおっちょこちょいの女性新入隊員(図書隊員に対する憧れを抱いている)と堅物の上官、お喋りな親友などを交えて、高校生(中学生?)のようなナイーヴな青春物語が描きこまれている。読後感は爽やか。
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SFマガジンに連載された「SF翻訳講座」(1989−1995)に、翻訳関係の文書やウェブのインタビューまで追加したエッセイ集。ただ、各章の表題をざっと見ると、実用書的な価値(人称代名詞の減らし方、会話の訳し方、役に立つ参考書などなど)も確かにある。そもそも連載時の得体の知れない若手翻訳家とは違い、今ではそれなりにサクセスしたライターでもあるので、内容に対する読み手の受け取り方も明らかに違うだろう。 翻訳のノウハウ、翻訳環境(ワープロからPC)、翻訳生活者の実態と章立てられているが、一般論として書かれたものではなく、著者の半生(ファンジンを出していた高校生時代から含めて30年ほど)に基づいた“自叙伝”でもある。『現代SF1500冊』は、どちらかといえば、SF出版の動向を詳細にトレースした時評集だった。本書の個人的な係わりと併せて、はじめて80年代から今に至るSF界の実態(特にコアな翻訳関係)が明らかになる。 しかし、こうして大森望の翻訳家(エッセイスト?)生活を見てみると、なるほど定期的に大病を患うのも当然と思える不健康生活。うーむ、こういう生活に憧れる人もいるでしょうけどね。
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山本弘と大森望では、ちょっと年代的に開きがあるかと思っていたけれど、今となっては大きな差はない(4年ほど)。ということからか、趣味や経歴の違いは別にして、本書と前掲書(『特盛!…』)はよく似たニュアンスで書かれている。つまり、SFは好きでなければやってられない、という主張である。 前作『トンデモ本? 違う、SFだ!』(2004)以降の、「SF者の本棚」(「MONOマガジン」連載)掲載エッセイを中心とした内容で、今回は小説以外の映画編(『禁断の惑星』から『人類SOS』)、マンガ編(『サンダーマスク』から『ダークグリーン』)、テレビ編(『アウターリミッツ』から『プラネテス』)が半分を占める。メジャーではなく、マイナーでもSFマインド重視という姿勢は前回と変わっていない。 マイナーといっても、山本弘の挙げる作家/作品は、同時代の読者であれば、ある程度知名度がある。そういう意味で、本書は特定のオタクの本ではなく、“一つの時代の代表”と看做せるわけである。高校生で触れた70年代のSFマガジンが、山本弘の人生を決定付けた。それは同時にSF高揚の時代と(後の)拡散の時代(あらゆるものにSF要素が拡散し、やがて境界が見えなくなる時代)と重なり合っている。 さて、熱狂的なSFファンだった大森望と山本弘は、それぞれの方法でエスタブリッシュし、同じようにSF人生を回顧した。次の世代は、どんな半生を回顧できるだろうか。
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