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大森望単独の評論集としては、これが初めてになるし、そもそも雑誌連載のレビュー(書評、時評)が単行本になる例自体がそんなにない(著名作家は別ですが)。石川喬司『SFの時代』(1977)は、大半が作家論や黎明期の啓蒙的な内容で、時評はほんの一部に過ぎない。本書とはテイストが異なるものだ。森下一仁『現代SF最前線』(1998)は、1983年から97年の小説推理掲載の時評を
まとめたものだが、やはり作品紹介が重点であり、“海外SFファン”をベースにした評価主体の大森とは印象自体ぜんぜん違う。 さて、本書は以下の連載を中心に構成されている(75年からの概要はあるが、リアルタイムなレビューは87年から)。 1.海外SF問題相談室(大陸書房「小説奇想天外」1987〜1991) 2.新刊めったくたガイド・SF時評(「本の雑誌」1990〜1991、1994〜1995) 3.毎日新聞読書面SF時評(1991〜1992)その他(1993) このうち、2.の後半1994以降で、“軽快・軽妙・軽佻”のSFハットトリック大森レビューが楽しめる。しかし、その前の段階が面白くないかというとそんなことはない。海外SFファンが伝統的に作品評価を重点的に考える(面白がる)のには理由があって、まず原書が簡単に読めない(手に入らない)、翻訳も楽には読めない(難解な日本語)等の歴史的事情があるためだ。だから、まず評価を見、良ければ期待を持って(あるいは、悪ければ好奇心で)読む性癖がある。採点第一のレビューは、そういう気風に準拠したものである。昨今の世相“読者の立場に立ったレビュー重視”につながる先駆的な意義もある。 まあしかし、ファンジン直系のレビューが、読み手の心情に近い新しいプロフェッショナルを産み出した。それこそが本書最大の意味なのだろう。
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有川浩のハードカバー書き下ろし第2弾。前作が空、今度は海が舞台だが、海洋小説ではない。 横須賀の米軍基地で桜祭りが行われていた日、海から巨大な甲殻類(エビの一種)の大群が上陸してくる。硬い甲羅を持つエビたちは、人間を餌とみなして襲い掛かる。たまたま入港中の潜水艦乗組員だった若手2人は、逃げ惑う小中学生を艦に避難させるが、周りを群れで固められ脱出不可能となる。街にあふれ出したエビは警察の手には負えない。はたして防衛出動はあるのか。エビの正体は何か。米軍はどう動くのか…。 本書を読んで感じるのは、有川浩が描くのが本質的に“オトナ”に対する“コドモの世界”なのだ、ということである。少年少女たちが潜水艦に閉じ込められ、若い自衛隊員とやがて仲間になっていくのだが、それだけではなく、純粋で穢れのないコドモ(そこには警察機動隊の隊員、自衛隊の制服組が含まれる)と、汚く打算的なオトナ(少年の母親、政治家、マスコミ)の図式で物語全体が描き出される。主人公の少女は団地の中で、いわれなく虐げられている。といっても、そこにサイコパス(APD)のような異常者がいるわけではない。どこにでもありそうな小さな人間関係と、一人息子を溺愛する過保護な母親(“利己的な悪者”)がいるだけだ。必死で市民を守ろうとする機動隊や自衛隊と、責任逃れをしたい官邸やマスコミ(“精神の卑しい悪者”)も同様の構図だろう。もちろん、警察や自衛隊員にも汚いオトナがいるし、政治家やマスコミにだって純粋なコドモがいるはずだが、作者は意識的に現実とは異なる社会を描いている。 なので、本書はその点を割り切ることが肝要だろう。分かっていれば(あるいは、作者の主張通りと思うのなら)、わだかまりなく読めてしまうのである。
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5月に出た谷甲州の短編集。著者の中短編集は、航空宇宙軍ものなどに多く、それ以外のものは本書を含めても3冊しかない。『エミリーの記憶』(1994)、『星は、昴』(1997)と本書である。宇宙ものでスタートした作者らしく、大半は時空ネタだが、何篇かにストイックな恋愛ものが混じるのが特徴といえる。 1.緑の星に(2000):人工的な模様を刻む緑の星に隠された秘密 2.星の夢に(2003/2004):太陽系外を亜光速で飛翔するパイロットの前に息子と称する子供が出現する 3.五六億七千万年の二日酔い(1997):宇宙を支える象(古代インド風宇宙)が抱える二日酔いの正体とは 4.彷徨える星(2000):小惑星を資源化するため接近した宇宙船はそこに奇妙な存在を発見する 5.繁殖(1999):異星の宇宙船と思われる太陽系外からの物体に、男女2人が乗るパトロール艇が接触する 6.スペース・ストーカー(2000):宇宙そのものが主人公の妻のストーカーとなった理由は 7.ガネッシュとバイラブ(1979):テロリストが奪い太陽系外に逃れた宇宙船と追跡者の遥かな旅路 8.星空の二人(書き下ろし):太陽系外縁を飛行するパイロットの仮想人格と恋に落ちた主人公 中では、一度も出会わないままの恋を成就する表題作と、商業誌に載ったデビュー第2作目「ガネッシュとバイラブ」が注目作品だろう。後者では追うものと追われるものが、壮大な時空を経るうちに次第に目的を失い別個の個性を得るさまが、叙事詩的に描かれている。ただし、作者の初期短編の多くは、単行本収録時に全面/部分改稿されている。初出時のままというわけではない。原点をあたりたい方は、古い「奇想天外」(奇想天外社1976-81)を探す必要がある。
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山本弘が、『トンデモ本? 違う、SFだ!』(2004)の中で語っていた、アイデアに溢れたクラシックSFのオリジナル・アンソロジイである。といっても、本書は実際は“SFマガジン傑作選”と呼ぶべき内容だろう。そういう意味では、原典の発表年のほかにSFマガジンの掲載号を記載した方が良いかもしれない(ちなみに、現在のSFマガジンの号数には、一時期並存した「小説ハヤカワ
ハイ!」もカウントされているものの、既に592号になる)。 火星ノンストップ(1939):SFマガジン178号1973年10月臨時増刊号「クラシック名作特集」に掲載 火星に着陸した異星人が地球の大気を吸い上げる巨大な通路を設ける 時の脇道(1934):205号1975年12月号「クラシックSF特集」 時間のぶれによって生じた無数の並行世界の(ありえたかもしれない)アメリカ シャンブロウ(1933):85号1966年8月臨時増刊号/1971年ハヤカワSF文庫版 ノースウエスト・スミスが火星の裏町で助けた奇妙な娘の正体は わが名はジョー(1957):112号1968年9月臨時増刊号 木星に生きる無敵の人工生命と、それを操る身障者の男 野獣の地下牢(1940):34号1962年9月号 火星の地下に眠る異星の生命、その扉を開ける秘密の鍵とは 焦熱面横断(1956):83号1966年7月号 何者も寄せ付けない水星の太陽面を横断する冒険者たち ラムダ・1(1962):74号1965年10月号 物体の性質を変換して飛行する旅客船に事故が発生する 「胸躍る冒険編」というのが編者の定めたテーマ。 「火星ノンストップ」(ジャック・ウィリアムスン)や、「時の脇道」(マレイ・ラインスター)は、翻訳された時点で既に“クラシック”だった(つまり、お話が古いことを了解した上で読むことができた)。「シャンブロウ」(C・L・ムーア)はホラーファンタジイ、「わが名はジョー」(ポール・アンダースン)は後の「接続された女」(ジェイムズ・ティプトリー)の原型だし、「焦熱面横断」(アラン・E・ナース)、「ラムダ・1」(コリン・キャップ)は科学的な描写と人間ドラマを融合させ完成度が高い。「野獣の地下牢」(ヴァン・ヴォクト)は、いかにもヴォクトらしい破天荒さで読める。 なぜSFマガジンだけ? という疑問もあるだろうが、少なくとも70年代にかけては、SFマガジンのバックナンバー収集はファンにとって定番の習癖だった。そもそもSF短編を読もうとすると、SFマガジンを収集する以外に手段がなかったからである(新書版ハヤカワSFシリーズでは、4冊だけ「SFマガジン・ベスト」が刊行されている。版権の関係もあり、翻訳を含んだマガジンの傑作選は、後の時代も含めてこれだけである)。一般の小説雑誌と違って、SFマガジンは読み捨てのスタイルをとらなかった。用紙も蔵書に耐える程度に上質だった。集める価値があったのだ。そのため、普通の雑誌のように廃棄されず、古本屋に在庫が置かれていた。編者がSFマガジンを読んだ時代は、評者と(今となっては)ほぼ同年代。読もうと思えば、SFマガジンのバックナンバーはほとんど読めた(シングルナンバーの希少版を除けば、揃えることも今ほど難しくはなかった)。これら作品は編者の原点であると同時に、当時のSFマガジン読者なら誰にとってもベーシックな基礎教養だったのである。
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1964年生まれの米国作家、アン・ハリスの処女長編である。著者はアメリカ東部の自動車の町デトロイトで育ち、現在もそこに在住する。アメリカの大都市の例に漏れず、デトロイトも中心部はスラム化して荒れ果てており、金持ちは郊外に逃避してしまっている。本書に登場する近未来の女性主人公たちは、そのようなアメリカの影を反映している。 主人公はデトロイトの中心街、空き家を不法占拠するホームレスの家族の一員だった。しかし、兄弟を殺された事件をきっかけにニューヨークへと出奔し、麻薬の密売と売春で生活する間に、ネットポルノで2人の男から目を付けられる。1人は有機ロボットの開発者で富豪の老人、もう1人はシベリアの実験施設に住む老人の創造物。 本書には(作者の生い立ちを象徴する)2組の兄弟、主人公と弟、同じ境遇の母子とその弟が登場する。また、人工生命である皮肉な有機ロボットと、フラクタル(どんなに小さな「部分」にも「全体」がある)に真理を見出す女性生物学者(主人公の恋人)や、シベリア、チュニス、アムステルダムと変転する舞台転換も面白い。状況に翻弄され利用されていただけの女性が、自立に至る物語と読めば、フェミニズムSFなのかもしれない。実際、著者は本書以降も、女性の権利をテーマにした著作を書き続けており、第2作がスペクトラム賞を受賞している(この賞は、ゲイ/レズビアン/バイセクシュアル/トランスジェンダーについて扱ったSF/ファンタジー/ホラーに与えられる)。とはいえ、イデオロギー的なプロパガンタ小説ではないので、特別に意識する必要はないだろう。
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これがどのような物語であるかは、冒頭の5行に書いてある。時間旅行の物語であるけれど、タイムマシンも時空の歪みも、過去の情景も、タイムパラドクスも出てこない、と。 高校の夏休み、読書家の主人公は4人の仲間(全寮制の女子高に在学する勝気なリーダー、主役ともいえる幼馴染の少女、旧家のお坊ちゃま、ちょっと剣呑な雰囲気を持つ少年)とあるプロジェクトを進めようとしている。それは幼馴染が“時間を跳ぶ”ことを実証しようという実験だ。彼女はほんの数秒の未来にジャンプすることができるらしい。折りしも街では得体の知れない放火事件が相次いでいたが…。 本書には、舞台となる信州の架空の都市、辺里市(ほとりし)の地図が付されている。それも現在(周辺、中心部)、原始、古墳時代、古代、中世、築城前、城下町、江戸期、近代、戦前、戦後、近未来と13枚もある。ただ、地図の時代が描かれることはない。それじゃ何のために載せたのか? 実は本書は、未来に向かう(逆転した)『ジェニーの肖像』なのである。しかし、作者はその物語を『サマー/タイム/トラベラー』で書こうとはしなかった。なぜ彼女が未来に跳ぶのか、主人公たちは“この夏”に何をしたかだけを、夏休みという“今現在”の描写に凝集しようとしたのである。何千年もの過去を地図に暗喩し、何十年かの未来を巻末の数ページに要約する形で、SF特有の壮大な時間の流れを表現した点は、本書で言及された多くのSF小説に対するオマージュともなっていて新鮮に感じられる。
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