2010/7/4
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昨年翻訳された『P・S・S』で一躍注目を集めた、ミエヴィルの短編集である。ここ数年来SFマガジンに掲載された作品が本書の半分を占めている。しかし、全14編を通読することで、また新しい観点を得ることもできるだろう。
「ジェイクをさがして」(1998):崩壊したロンドンの街で友人をさがす主人公
「基礎」(2003):建物の土台と“会話”ができる男がきいたものとは
「ボールルーム(共作)」(2005)*:郊外の家具ストアにある児童用施設ボールルームに隠れているもの
「ロンドンにおける“ある出来事”の報告」(2004):誤配された郵便には彷徨う街路の秘密が書かれていた
「使い魔」(2002):捨てられた魔法使いの使い魔は、次第に成長を遂げていく
「ある医学百科事典の一項目」(2003):ある言葉を発話することで伝染する病
「細部に宿るもの」(2002):何かを恐れ、フラットで真っ白な部屋に隠れる女
「仲介者」(2005)*:日常の品物から秘密指令の文書を受け取る男
「もうひとつの空」(1999)*:老人が買った古い装飾窓から別の世界が見える
「飢餓の終わり」(2000)*:天才的なハッカーが、偽善的な寄付サイトをハックしたが
「あの季節がやってきた」(2004):クリスマスが特定企業に独占された未来
「ジャック」(2005):お祈りジャックが生まれた顛末(『P・S・S』の設定)
「鏡」(2002):壊滅したロンドン、鏡の中から侵入してきたものたちの中心に向かう主人公
「前線へ向かう道:ライアム・シャープ画」(2005)*:日常の風景の中で、どこからか現れる兵士たち
*初訳
もともとSFを意識していないミエヴィルの作品だが、本書を読めばその全貌がより明確になる。長編や、異形化したロンドンを舞台にした作品だけを読むと、著者の志向は、よりディープなファンタジーではないかと感じる。けれども、多くの作品は日常の隙間に潜む“魔性=気味の悪いもの”を描いているので、ずっとホラーに近い。その中で、大味な欧米ホラーと比較して、著者のきめ細かな描写力は際立って見える。この雰囲気に一番近いのは諸星大二郎の漫画ではないか。
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2010/7/11
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小松左京賞は受賞作なしの第10回(2009年)で休止されることになったが、本書は一昨年の第9回最終候補作を補筆改稿した作品である。もともと硬派/正統派の作品が好まれる賞であるため、本書のような設定自体が異質だったかもしれない。
近未来の日本、難病を患う主人公は亡くなった仲間から最新型の「人型AI」を譲り受ける。それは妖精のような容姿を持った美少女の姿をしている。なぜ市販もされていない高価なAIが入手できたのか。しかし、彼は不可解なAI密売組織に絡む犯罪に巻き込まれ、やがて少女AIの出自を巡る大きな謎に直面する。
高度なAIが存在する社会なのに、インフラは現在と同じ(ケータイとネット)とか、人工知能のフレーム/人間と機械との境界問題(不気味の谷)が曖昧に書かれているなど、もともと本書のベースに対する疑問点は多い。とはいえ、実際のテーマは、なぜ主人公は人工的なAIと恋愛関係に陥ったのか、バーチャルな恋愛と本当の恋愛(どちらも脳にとっては同じだ)に区別がつくのか、なのである。という意味で、それらが(疑問なしの)前提条件になっているライトノベルとは異なっている。本書の場合、最終結論を納得させるには、まだ少し書き込みが足りない印象。
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2010/7/18
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本書が完成する20年前、マーティンとドゾアの間で書き進められていた合作長編(当初は中編)は、その途上10分の1でいったん挫折し、以降エイブラハムとの出会いまで塩漬け状態にあった。ちなみに、ドゾアは「イヤーズ・ベストSF」や「アイザック・アシモフズSFマガジン」の編集長として知られる他、(日本ではマイナーな)ネビュラ賞作家でもある。マーティンは今ではファンタジイ小説のベストセラー作家だが、書き始められたころはまだSF中心だった。ダニエル・エイブラハムは、ベテラン2人との年齢差がちょうど20年あり、クラリオン・ワークショップ(創作講座)をきっかけにマーティンらと知り合う。ベースをまとめ上げた中編版が2004年上梓、評判を得て大幅な加筆が行われた本書は、さらに3年後に完成した。
異星人による人類の移民が進められる未来。スペイン系の植民星で探鉱師の主人公は、酒場の事件で大使を刺殺し、身を潜めるため北部の原野まで逃れる。そこで見知らぬ異形の異星人に捕えられ、もう一人の人間を追うよう求められる。なぜ執拗な追跡が必要なのか、彼らの正体は何か、そして追う相手は誰なのか。
エイブラハムが「“同じ年代”の3者が合作した作品」と、本書の成り立ちを表現している。年齢差と、それぞれが書いた時差が一致しているからだ。ドゾアの虚無的宇宙観、マーティンの駆け引きを伴う人間模様などを、エイブラハムが冒険小説に上手く織り込んでいる。現代的なテーマや、ファンタジイではお馴染みのアイデアも盛り込まれている。ドゾアとマーティンという異質の作家の個性を、エイブラハムが新たな視点で融合させた作品といえる。
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2010/7/31
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小学館の小説誌「きらら」に、2008年9月から2010年2月まで連載された長編の改稿版である。
吉祥寺でストリートライヴを続ける少女には、断片的な記憶がある。それは一人の男性の思い出で、かつて親しかったはずなのに、自分だけでなく誰もその人物を覚えていないのだ。しかし、大学の都市伝説研究会のメンバーと付き合ううちに、失われた記憶が彼女だけの問題ではないことが分かる。これには何か意図的な作為があるのではないか。そして、裂け目の綻びが大きくなっていくように、過去のフラッシュバックが頻発するようになる。
歌手デビューを夢見る少女のリアルな生活、消された記憶という都市伝説を追う大学生、そして携帯に送られてくる不可解なソフトの存在。自分のものではない“偽りの記憶”と言えばディックの定番だろうし、理想の人物が作れてしまう携帯ソフトは、例えば映画になった「パニックボタン」など、いかにもマシスンが書きそうなアイデアだ。しかし、作者は、それらを神経症的な不安の象徴として扱わなかった。ディック的な悪夢は、60年代以前の豊かなアメリカと裏腹の存在である。まだ失うものが少ない若い主人公たちが見るのは、そういった悪夢ではない。もう一人、ディック的な中高年を、彼らと組み合わせたところが本書のユニークな点だろう。
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