まず、表題作が特異な書かれ方をしている。既に死者である仮想の作家と、フィクション内の登場人物である作者とが議論を交わすという作品なのだ。仮想の作家は想像力の停止を物語の中で語り、一方現実に生きる作家は、リアルに対抗できる唯一の手段こそフィクション/想像力であると反論する。ここで、死者=伊藤計劃、作家とは自身=神林長平なのである。著者にしては珍しく、ダイレクトな意見表明となっている。そもそも本作が掲載された「SFマガジン」(2011年8月号)は、伊藤計劃の特集号だったわけでもない。その冒頭に本作が置かれた意味を考える必要がある。
「ぼくの、マシン」(2002):少年期の深井零は、ネットワークに拘束された自分の端末を解放しようとする
「切り落とし」(1996):ネットワークへのダイレクト・ジャックインで犯人を捜索する謀殺課の刑事
「ウィスカー」(2000):学校で嫌われ孤立感を味わう少年が、奇妙な生き物ウィスカーを手に入れる
「自・我・像」(2007):奇妙な夢に悩む人工的に作られた仮想の自我と、それを監視する男たち
「かくも無数の悲鳴」(2010):〈地球〉に舞い戻った主人公が迷い込むゲームの迷宮
「いま集合的無意識を、」(2011):30年来SF作家を続ける主人公のモニタに現れた存在とは
著者は1979年にSFマガジンの第5回ハヤカワ・SFコンテストでデビュー、本年で33年目を迎える。飛浩隆や円城塔ら、信奉者も多い。小説の単行本としては、『敵は海賊・短編版』(2009)以来3年ぶりとなる。同書の収録作が80-90年代中心だったことから、本書が事実上21世紀最初の短編集となる。著者は実験的な領域に大きく踏み込んだ作品を書き続けてきたが、本書では「ネットワーク」を単一化/無個性化の象徴と批判した作品が多い。グーグル、クラウド、巨大な世界標準SNSなど、21世紀社会はネットワークの利便性の上に成り立っている。しかし、そのため全人類の思想/知識も簡単に同一方向を向くようになり、想像力もまた多様性を失って枯渇する。各個人が考える必要がなくなるからだ。神林はそういった伊藤計劃が描くデストピアを、批判的に超えようとしているのである。
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