2015/2/1

上田岳弘『太陽・惑星』(新潮社)

装画:山崎若菜、装幀:新潮社装幀室

 著者は1979年生まれ。本書は昨年11月に出た最初の著作になる。収められている中編「太陽」で小説新潮新人賞を受賞し、同時に三島由紀夫賞最終候補、もう1作の「惑星」は芥川賞の最終候補となった。

「太陽」:太陽では質量が足りず、核融合では元素である金を作れないという話が、お金である金の話に連なる。赤ん坊を産ませて転売する工場主は、将来を予見する大論文を書くが誰にも読まれないまま死ぬ。その工場を視察する国際調査団には、臭いだけで人の心理を嗅ぎ取るなど、奇妙な能力を持つ顔ぶれが集まる。そして、人類が第2形態に至った遠い未来に、赤ん坊工場の子孫の一人は、ついに太陽に金を生成させる手段を得て第3形態への道が開ける。
「惑星」:2020年の東京オリンピックを起点にさまざまな人物が交錯する。精神科医と患者の政治家、惑星ソラリスの海のようだとされる世界的ITメーカの社主、その友人で人類の運命を変える“最高製品”を引き継ぐ富豪、ITメーカにインタビューを申し込むコメディアン、邪悪さを感じとり殺意を抱くトルコ人の男。

 時間空間的に、まるでばらばらの事象が散らばっているようだが、それぞれはシームレスに連結し、読者の視点から1つに見えるように書かれている。また神の視点の下で、それぞれの登場人物の運命は予め定められているのだ。それが著者のいう、「神の視点での一人称」(下記対談参照)なのだろう。SF的なキーワードが多用され、大森望のレビューに「ジャンル純文学とジャンルSFの衝突から生じた新たな可能性」とあるものの、著者がSFから直接の影響を受けたわけではない。下記のインタビューにあるように『風の歌を聴け』、『百年の孤独』、『タイタンの妖女』などの、ヴォネガット的な世界観(宇宙/人類といった広がりを見せながら、最後は個人へと収斂する)への共感が本書に繋がっているようだ。

 

2015/2/8

ジェフ・ヴァンダミア《サザーン・リーチ》三部作(早川書房)
 全滅領域 Annihilation
 監視機構 Authority
 世界受容 Acceptance、2014(酒井昭伸訳)

Cover=岩郷重力+N.S

 著者は1968年生まれの米国作家/アンソロジストで、チャイナ・ミエヴィルらが提唱する「ウィアード・フィクション」と同様の、「ニュー・ウィアード」と呼ばれる幻想ホラー小説の書き手/編集者でもある。世界幻想文学大賞を3度受賞しているが、そのうち2度はアンソロジイの編者としての受賞だった。そういうジャンル小説の書き手が、今回は変わったアプローチで三部作を書いた。

全滅領域:自然豊かな海岸部のどこか、エリアXと呼ばれる領域に調査チームが入る。11回に及ぶ調査はことごとく失敗し、隊員は不可解な死を遂げたり正気を失っている。何が原因なのか、条件を変えるため12回目の探査では女性だけが選ばれる。メンバーはお互いを名前で呼ばず、職種名で呼ぶ。隊員は地下へと降りる〈塔〉の中で、壁面を覆う文字を見つける。
監視機構:エリアに隣接して、〈サザーン・リーチ〉という監視/研究機関が設けられている。前所長が行方不明となり、新任の所長が着任する。しかし、非協力的な副所長や言動が奇妙な科学部のメンバーなど、所内の様相は混沌としている。前所長は何をしようとしていたのか。新任所長に与えられた本当の目的とは何か。
世界受容:エリアXが拡大を始める。エリアの中では、失われた隊員から変異した何者かが見え隠れる。新任所長はエリアへの潜入を試みるが、そこでは異形の生き物がうごめき、過去の記憶と偽りの未来が混交する。時間の流れさえ均一ではない。エリアの正体は果たして明かされるのか。

 最初の『全滅領域』だけを読むと、エリック・マコーマック『ミステリウム』(1993)のような印象を受ける。固有名詞を持たない登場人物と正体不明の世界、解き明かされない謎など、ある意味典型的なスタイルともいえる。『監視機構』では、そこに〈サザーン・リーチ〉という外形が設けられ、(得体は知れないながら)組織的な背景や、人間関係が明らかにされる。『世界受容』に至っては、今度はエリアXという世界の本質にまで踏み込んでいる。語り手の視点には、いくつかの工夫がある。第1部は一人称、第2部は三人称、第3部は一人称、二人称、三人称をパートごとに交えている。個人の狭い視点による歪められた世界が、三人称で客観化されたかのように見えて、最後にまた混沌へと戻っていくわけだ。謎は解明されたとも、されていないとも取れる。
 Atlantic.comの長い記事の中で、著者はこの三部作の顛末について記している。2012年にまず『全滅領域』の草稿が書かれ、上記のような3つの視点から成る《サザーン・リーチ》三部作として売り込むと、SFやファンタジイなどのジャンル小説以外の出版社からオファーを得る。文藝出版の老舗FSG社(欧米系出版社では世界的な再編が進んでいるが、大手マクミラン・グループの一員)は、1年内で3作一挙刊行を提案してきた。条件は「読者は謎の解明を求めるだろうから、きっちりそこまで書くこと」。著者も、第1部(ある種の不条理小説)だけで完結させるより、3部作を通して人智を超えるものを表現する方が重要と考えた。残りを書き上げるまで18か月、出版は2014年になってから、2月/5月/9月と連続して出る(最近のメジャーな出版では、三部作を間髪を入れずに出せることが前提のようだ)。物語の中には、著者の体験がさまざまに取り入れられている。車の中の潰された虫、家に忍び込む体験、フロリダ北部に似せたエリアXの自然、トレッキング中に膝をひどく痛めたことや、ミミズクの生態に触れたことなど、それらがない交ぜとなって、まるで超現実的な旅をしているようだったという。

 

2015/2/15

マーク・ホダー『バネ足ジャックと時空の罠(上下)』(東京創元社)
The Strange Affair of Spring Heeled Jack,2010(金子司訳)

装画:緒賀岳志、装幀:岩郷重力+Wonder Workz。

 著者はスペイン在住の英国作家。本書はそのデビュー長編にして、2011年のフィリップ・K・ディック賞受賞作(伊藤計劃『ハーモニー』が特別賞だった年)でもある。《バートン&スウィンバーン》は既に5作が書かれており、第3部までの翻訳予定があるようだ。昨年まで、毎年欠かさず出版される人気シリーズである。

 有毒な霧に沈む19世紀のロンドン。リチャード・バートンは、ナイルの水源を巡る論争を、同じ探検家スピークスと行うつもりだった。しかし、前日に相手の死を知る。自殺だというが腑に落ちない。その真相を探るうちに、彼のまわりには人の姿をした狼(ルー・ガルー)、不気味な仮面をつけ跳躍する怪人バネ足ジャックが現れるようになる。ジャックは次々と少女たちを襲うが、何が目的なのか。人狼たちはどこから現れるのか。ジャックを追うスコットランド・ヤードの警部とバートンは、パブに集う仲間のスウィンバーンとともに、事件の渦中へとはまり込んでいく。

 ここで、バネ足ジャックとはロンドンの都市伝説(実在しない)、バートンは『千夜一夜物語』の翻訳者リチャード・フランシス・バートン、スウィンバーンは著名な詩人アルジャーノン・スウィンバーンのことだ。そういう史実の裏側で、日本ではあまり知られていない冒険家、探検家としてのバートン、マゾヒストで向こう見ずな美青年スウィンバーンが描かれる。19世紀ヴィクトリア時代は帝国主義の絶頂期で、英国が侵略戦争に明け暮れた世紀だった。ところが、本書は少し違っていて、重大な歴史改変が行われた後の時代になる。飛行装置や人工知能、改造生物たちが生み出されており、ここまでは数あるスチームパンク小説と同様なのだが、当時のテクノロジーを代表するダーウィンやナイチンゲールが悪役になるというのは新趣向だ。また泥沼のようなタイムパラドクスが、これほど偏執狂的に書かれたものは珍しい。時間旅行者の心が病んでいるからだ。

 

2015/2/22

デイヴ・エガーズ『ザ・サークル』(早川書房)
The Circle,2013(吉田恭子訳)

装幀:小口翔平(tobufune)

 著者は、1970年米国生まれの作家、編集者、出版業、脚本家、社会活動家(移民家族のための読み書き支援。下記のTED参照)である。12月に出た、架空のインターネット企業「サークル」を扱った作品だ。リアルの世界で苦労の多かった著者の経歴もあってか、スマートなIT会社が暗く変貌していく様子を描いている。本書の内容について、日本のWiredは評価している(帯の推薦文)が、米国版はやや批判的なようである。

 「サークル」は巨大なIT企業である。主人公は旧態依然の地元に飽き飽きし、友人の紹介を伝手にサークルに入社する。そこには開放的なオフィス、先端的な仕事、自由な社風、厚い福利厚生制度があり、若い就職希望者が羨望する環境が用意されていた。彼女へは社内外SNSへの参加や、さまざまな情報発信が半ば義務付けられる。しかし、世界と繋がり合うほどに、自身のプライバシーは失われていく。

 本書中に「秘密は嘘、分かち合いは思いやり、プライバシーは盗み」というスローガンが出てくる。これは、オーウェルが書いた『一九八四年』の「戦争は平和、自由は隷属、無知は力」に対応するように置かれている。サークルのガラス張りのオープンなオフィスも、ザミャーチン『われら』に現われるプライバシーのないガラスの建物を思わせる。とすると、本書はITがもたらす全体主義を風刺する小説のようだ。ただ、米国Wiredなどは、現在のSNSに対しその批判は的外れと指摘する。SNSが持つ特性、秘密やプライバシーの排除は、裏で行われる不正や談合をなくし、過去のテクノロジーでは知りえない真実を伝える。しかし、見知らぬ他人からの絶え間ない干渉や、恣意的な誘導という暗黒面も存在する。本書は前半でポジティブな面を強調し、後半でネガティブさを曝け出すように書いている。確かにtwitterやLINE、facebookなどでは、成り立ちが善意であっても、悪意で運用することで、窮屈な社会ができてしまう可能性があるかも知れない。一方向だけの発言が称揚され、同一化が求められる(異論が封殺される)なら、それは全体主義そのものだ。