2000/06/03

巽孝之篇『日本SF論争史』(勁草書房)
 これで5000円ならば安い。
 これまで日本のSFを論じる中で、何度も言及されながら、実物を読む機会が得られなかった著作、すなわち概要はあっても、内容がなかった評論が本書でまとめて読める。評者にしても、現物を読むことなどめったにないし、単行本も含めて入手困難なものがほとんどである。
 たとえば、
  1. 1962/66:安部公房(38)
    安部はSFを疑似科学の手法で、自由な発想を呼ぶもの、名づけがたきものと論じる。
  2. 1963/67:小松左京(32)
    小松は、エフレーモフの述べた<明日の大文学>を批判し、科学的に文学(及び文学的なるもの)を分析できる可能性を述べ、また軽率な批判者に対して、現代SF(当時)の総合力を動員し、激しい反論を寄せる。
  3. 1963/66:福島正実(34)
    福島もまた、無理解者に対しては容赦がない。常に怒りつづけた人であり、収録された荒正人(SFには変格だけでなく、本格部分が必要と説く)との論争などは、いわば黎明期のSFに対する“経営方針”の違いからくるものだった。福島は30歳から40歳までの間「SFマガジン」を編集し、47歳で亡くなっている。評者などが感覚として思っていたより、ずっと若くして編者を務めたわけで、攻撃的なのはある意味で当然だった。
  4. 1967:石川喬司(37)
    石川は、ハインライン『宇宙の戦士』について、ファシズムに類似した思想を批判、読者からの意見を交えながら、その是非を問う。戦後20年余りの時代なので、多くの読者は戦中派だった。
  5. 1969:山野浩一(30)
    山野の「日本SFの原点と指向」(日本のSFは借り物であり、独自性を発揮できていない)は、SF内部からSFを批判したものとして、初めてのまとまった評論である。考えを「NW-SF」という自身の雑誌で体現したのも山野だけだ。SF作家対山野浩一の対決、という図式も生まれた(個人的な対立ではないが)。
  6. 1970:荒巻義雄(37)
    荒巻はイデオロギー抜きにハインラインの『夏への扉』、『自由未来』を分析し、そこにSFの普遍性“術”(技術)を見出す。ファンジンを含めて、SFに対する根源的評論を多数書いた作家だ。
  7. 1971:柴野拓美(45)
    柴野の評論は、まとめられたのが後の時代となるが、もともと「宇宙塵」での持論を集大成したものといえる。個人が集合し人類となったとき生じる「集団理性」、それは個人の意思を離れて自走する。それらは人類だけでなく、コンピュータも内包して発展していく。
  8. 1970:田中隆一(29)
    田中は、論理実証主義、科学的認識そのものを批判、例証として小松左京を挙げ、科学的な客観性などありえず、何らかの主観の色づけ(信仰)を伴うものと断じる。そして、神話的なもの錬金術的なものの復興こそが、近代的理性の硬直を解くとする。
  9. 1972:川又千秋(24)
    川又は、SFの持つ“センス・オブ・ワンダー”を、驚異を持続する原始の想像力とするが、この一回生のものを持続させるためにリアリズムを導入することで、逆に多様性が失われるという。それらを打開する鍵の1つとして、ヒロイック・ファンタジーを挙げているのが印象的だ。
  10. 1974:筒井康隆(40)
    筒井の「現代SFの特質とは」は、SFの特質を“超虚構性”に求めたもの。これはSF一般というより、著者の後の作品を網羅する見方となった。本論は、もともと「國文學 解釈と教材の研究」のSF特集(75年3月臨時増刊)に載ったものだ。当時は、あの「國文學」がSF論を載せるとは!、というのが文藝編集者の一般的な感想だった。
  11. 1980:笠井潔(32)
    笠井は、小松左京の『果しなき流れの果に』を取り上げる。笠井はそこに反抗、服従、伝統の3つの要素を見出し、描かれた宇宙を統べる精神に、全体主義的要素(『ハイペリオン』でおなじみの、テイヤール・ド・シャルダンの思想に近いもの)を感じ取る。
  12. 1987:永瀬唯(35)
    永瀬は、ヴェルヌに対するスターリングの論考を肯定的にとらえ(かつ誤りを訂正しながら)、返す刀でハインラインに対する“SFゲットー”の偏見を切り捨てる(ハインラインは個人に対する干渉は一切認めないとするアメリカ保守主義者であり、日本流の右翼でも左翼でもない)。
  13. 1991:伊藤典夫(49)
    伊藤はカード「消えた少年たち」を攻撃するアメリカの状況を解き明かし、そこに書かれた現実とフィクションの境界と、カードが本作品を書いた動機を推理する。ピーターパンとの類似性の指摘は、まさに圧巻。
  14. 1993:野阿梓(39)
    野阿が分析するのは『産霊山秘録』、『首都消失』。ここから、日本の本質であり、最大のタブーでもある天皇制を解明することが、<日本SF>を成立させうるポイントと見る。さらに、別論で“やおい”のシミュラクラ性(オリジナルではなく、偽者、パロディから発生する)を解釈する。
  15. 1993:小谷真理(35)
    小谷はアメリカでのフェミニズムとアンダーグランドではびこるスラッシュ・フィクションと、日本の“やおい”文化とは同時多発に発生したものであり、ジェンダーに対する国際的潮流を反映したものとする。
  16. 1997:大原まり子(38)
    大原は、旧来のSFファンが論じるSFの範疇を超えた“女性性”こそが、自身のSFの原点であると述べる。これは、“やおい”を含めた、今日のアンダーグランドを包括できるものなのだ。


 発表年で分類されているため、後半に移るにつれて、論議の対象は、SF対無理解者、SFにおけるイデオロギー、既存SFと新しいSF、既存SFの新たな意味付け、と進み、やがて小児虐待やジェンダーまでも語られる。以上から、SFのスコープが着実に移り変わり、先見性をも保ちつづけていることが分かる。永久ループに陥んだり、袋小路に囚われているわけではないのだ。(文芸も含めた趣味の世界では、生まれた当時は若くても、ファンとともに老いて滅びていく分野が結構ある)。
 さて、上記での年号は発表年、括弧内は著者の当時の年齢を示している。SFは常に攻撃的なジャンルであったといえる。他者、あるいは本流の意見を遠慮なく批判できる年齢となれば、30-40の間が最適なのかもしれない。
 何れにせよ、大変面白い。牧眞司の論争年表付、これで5000円ならば安い。

表紙イラスト:とり・みき、装幀:廣田清子

2000/06/10

装丁:ビデオ・リチャード ウィリアム・ギブスン『フューチャーマチック』(角川書店)
 原題はヴェルヴェット・アンダーグランドのAll Tomorrow's Partiesから採られたもの。『ヴァーチャル・ライト』『あいどる』に続く3部作の完結篇。
 物語は、東京新宿駅前のホームレス住居と、サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジにある、橋上ホームレス街とを結んで進む。ネットと現実世界の両者に迫る危機に、先の2作の登場人物が遭遇するという展開。とはいえ、この3部作は、いわゆる電脳空間小説ではない。近未来の風俗を、イメージ喚起力抜群に描き出したものだ。
 やむをえないとはいえ、ギブスンが『ニューロマンサー』を書いてから16年が経過し、もともとの電脳空間ものでも本家に負けない作品が、いくつか書かれてしまっている。本書の場合、文章や表現の韜晦さはない。きわめて平明に読めるため、過去の先入観は忘れた方が楽しめるだろう。

2000/06/24

グレッグ・ベア『斜線都市』(早川書房)
 5月に出たベア。従来の未来史シリーズの1冊で、『女王天使』に続くミステリ風作品。3年ぶりのシリーズ新訳。設定的には、前作をほぼ踏襲する。
 Vidネットワークの体感ポルノ・スターを金で買った富豪が、謎の死を遂げる。そして、ナノテクでサイコ・セラピーを受けた元患者に頻発する病、未知の方式で動作する思考体、そして、他者を排除する奇怪な霊廟オムパロスの秘密に挑む、テロリストと捜査官…。
 と、相変わらずガジェット豊富で、サービス精神旺盛といえる。ただし、これにはシリーズ物の慣性が逆に働いて、新鮮さという面ではプラスとならない。同じ作者の『火星転移』に比べても視点が定まらず、テンションの持続に欠けるようだ。
カバーイラスト:小阪淳,カバーデザイン:ハヤカワデザイン

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