2012/7/1

小川一水『トネイロ会の非殺人事件』(光文社)


装画:中村佑介、装幀:坂野公一+吉田友美(well design)


 『煙突の上にハイヒール』(2009)に続く時期に書かれた、「小説宝石」掲載作をまとめた作品集である。ちょうど年1作づつ書かれたことになる。今回はミステリを意図した作品が多い。

「星風よ、淀みに吹け」(2009/12):月基地を想定した閉鎖実験施設で、クルーの殺人事件が発生する
「くばり神の紀」(2010/12):妾の子だった女子高生が、臨終の席で聞いた父親の気前の良い遺言の意味とは
「トネイロ会の非殺人事件」(2011/8):巧みな恐喝で苦しめられた被害者たちが、たどり着いた殺人計画の顛末

 月を目指すエリート志願者たちの中で、さらに抜きんでた才能を持つ女性隊員が殺される「星風…」。なぜこれまで放置されてきた自分に遺産が、と訝る主人公は、その原因を探るうちに祖先に溯る秘密を知る「くばり神…」。烏合の被害者たちが集まり、どうやって殺人計画を成功に導くか、しかしその中で1人だけ加担しなかった者(非殺人者)がいる「トネイロ会…」。どれも理に落ちるSFミステリ風のお話である。何らかの科学/技術的なアイデアに基づくというのが、いかにも著者らしい。ところで、気になるのは「トネイロ」の意味だろう。これは、表題をローマ字表記してみればすぐ判る。ミステリファンでなくても知っている、あの有名な小説をもとにしているわけだ。

2012/7/8

田中啓文『猿猴』(講談社)


カバー装画:村田修、カバーデザイン:坂野公一+吉田友美(well design)


 著者の書下ろし最新刊である。間抜けな登場人物やトンデモ系のネタを満載しながら、人類の誕生まで踏み込む壮大なスケールの物語となってる。

 登山好きの主婦が冬山で遭難、望まぬ妊娠をしてしまう。しかし、それから奇妙な3人組が付き纏い、生まれてくるのは聖なる子であるという。一体この子供は誰の血を引くのか。彼らが告げる、過去から連綿と語り継がれる聖徳太子の恐るべき預言「人類滅亡」は、果たして的中するのか。

 本書に登場する『聖徳太子未来記』は、聖徳太子が未来を予言したとする後世の為書のこと。複数存在し、太子の名を騙って、その時々の権力者による権威付けに使われた。さすがに、現在これを政治的に利用する人はいないが、世紀末以降の預言書ブームの中で、日本(世界)滅亡の日を予言しているなどとして持て囃された。それに加えて、著者得意のUMAネタ(原人、猿人、雪男、イエティ)を多数投入し、猿猴(もともとはテナガザルだが、本書では別の意味となっている)が人類を滅ぼす謎に迫る、という設定になっている。舞台も、大阪(豊臣の埋蔵金が眠る地下通路)、島根(黄泉に続く根の国)を経て、中国河北省の神農架まで大きく変転する。結末は唐突ながら、ここまでエスカレーションした必然の結果なので、
さほど違和感はない。

2012/7/15

 著者の短篇「いま集合的無意識を、」(同題短編集収録)のなかで、「人類の集合的な無意識野でフィクションが暴走するとどうなるか」について新作を書いている、という件が出てくる。それが本書だ。物語は、テクノバンドのアーバンギャルドからインスパイアされた言葉で始まる(鼎談を参照)。

 情報ネットワークで成り立っていた人類社会に、“情報震”と呼ばれる災害が襲いかかる。社会を支えるデータが出鱈目に書き換えられた結果、世界は秩序を失い泥沼の戦争状態に陥るのだ。その10年後、間歇的な震災を軽減するために無人化された都心で、情報軍小隊から次々と隊員が行方不明となる。一方、震災前の都市では、殺人犯を追う刑事たちが、自身の矛盾する記憶に苦しめられる。

 近未来、人間は端末を生体に埋め込んだ状態で、ネットワークと密結合される。そこに情報震災が起こり、ネットが前提の社会は完全に崩壊する。しかし本書では、別の生体ネットワークが登場する。人の表面意識をお互い読めるようにするもので、いわば意識の自動twitterなのだ。ブロックはできず、本音はすべて筒抜けになる。だが、そこに“自分”以外の意識が交じり合っていくのだ(女子高生と援助交際する教師と、殺人事件に関わる公安刑事)。どちらが本物か、リアルかフィクションなのか。さらに、震災を超越する非ITネットワークまで登場する。本書は、当初のテーマが消滅と死だったという。しかし、震災(本書中のフィクションである情報震災と、リアルな3.11震災)を経た本書は、愛と生をテーマとした物語に変貌した。都市を創造する非IT的存在こそが、リアル=物理的現実社会を圧倒する神林フィクションの真骨頂なのである。

2012/7/22

ステファンヌ・マンフレド『フランス流SF入門』(幻冬舎ルネッサンス)
La Science-fiction,2005(藤元登四郎訳)

デザイン:内藤由、イラスト:丸山幸子


 フランスにおけるSFに関しては、昨年白水社の文庫クセジュから、ジャック・ボドゥ『SF文学』(2003)という入門書が出ている。文庫クセジュはフランスでは老舗だが、アカデミックな分析をベースにした啓蒙書が多い。一方、本書は21世紀になって創刊されたイデー・ルシュ叢書から翻訳されたSF入門書であり、クセジュ版(小説に限定)よりは幅広く、またフランスにおけるSFの地位にも言及した内容となっている。また、本書の翻訳者は第6回日本SF評論賞受賞者(選考委員特別賞)で、翻訳権を取った正規版ながら、自費出版の形態で出されているのも特徴だろう。

「SFとは何か」起源はヴェルヌか/アメリカ以外に良いSFはない/SFはもう古いか/シナリオのない特撮か
「SFは誰のものか」子供向けか/現実逃避か/難解か/文学とは違うか/宇宙人も吸血鬼と同じ扱いか
「SFはどこへ行くのか」ファンタジイとの違いは/科学・宇宙人・未来を予言するものなのか

 など、3章15節の問いかけから成る。どちらかといえば、ジャンル初心者のための啓蒙書なのだが、フランスの読者を対象にしているためか、SFの存在意義を強調している点が目につく。日本ではSFを一般小説と比べて貶める論調は、そういった世代の交代とともにずいぶん目立たなくなったように思える。フランスではまだ根強いのだろう(有力なSF作家が相対的に少なく、バンドネシネなどのマンガがマイナーな所為もある)。本書だけでは、作品のあらすじ紹介がほとんどなく、未訳作や入手が難しい作品が混在するため、具体的な中身が判りにくいかも知れない。中でもフランス産SFには、なかなか親近感が持てないだろう。一時期翻訳も多かったルネ・バルジャベル、ロベール・メルルはもちろん、サンリオ文庫で注目されたミシェル・ジュリやピエール・プロなども絶版なのである。深い分析に至らないのは、ページ数の関係もあり(もともと128頁しかない冊子)やむを得ない。ただし本書には、原著にはない、詳細な訳注が付録の形で50頁も収録されている。これは大いに価値がある。
 尚、訳者は1941年生まれの精神科医。専門分野の著作、翻訳書を多く出している他、最新刊で『シュルレアリスト精神分析―ボッシュ+ダリ+マグリット+エッシャー+初期荒巻義雄/論』を出すなど活躍の幅を広げている。


2012/7/29

パトリック・ネス『心のナイフ(上下)』(東京創元社)
The Knife of Never Letting Go,2008(金原瑞人・樋渡正人訳)

装画:寺坂耕一、装幀:藤田知子


 著者は、1971年米国生まれで英国在住の作家である。6冊の著作があるが、そのうち3冊は本書を含む《混沌の叫び》三部作である。第1部である本書(上下巻)は、ガーディアン児童文学賞ブックトラスト・ティーンエイジ賞ジェームズ・ティプトリー・ジュニア賞をそれぞれ受賞した話題作だ。これら賞では、児童文学と言っても、大人が読んで遜色がないものが対象となる。

 成人まで1か月となった主人公は、ある日沼地でノイズの聞こえない“穴”の存在に気がつく。この世界では、少年は13歳になったら成人となる。彼は、ここは最後の村で、お前が最後の子供だと教えられている。蔓延する疫病により、女性はすべて死に絶えたのだという。疫病はしかし、人々や動物に不思議な“ノイズ”を授ける。それはまるで雑音のように自身の考えていることを、周りに放送してしまう現象だった。

 遠い異星の植民惑星、思考の表層がブロードキャスト(放送)される社会。彼は、自身を死にゆく世界の最後の一人と思っていたのだが、やがて滅びたはずの女性=少女と出会い、本当の歴史を知ることになる。しかし、幼いころから徹底された道徳的“常識”を覆すのは困難で、新たな真実をなかなか受け入れることができない。本書の題名「決して手放さないナイフ」とは、主人公が育ての親から譲られた遺品のこと。彼の心の葛藤(殺すか殺さざるべきか)を象徴する存在となっている。ただし、この第1部は少年と少女の逃避行という内容ながら、物語として完結していない。第3部までを含めて1つの物語となるので注意。