2014/5/4
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『グアルディア』(2004)に始まり長編3作から成る、著者唯一のシリーズ《HISTORIA》初の中短篇集である。
ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち(2012/6):世界に君臨するアメリカ帝国で、新たな奴隷となる妖精たち
はじまりと終わりの世界樹(2012/8):シリーズの始源に立つ、遺伝子の母たる一人の少女誕生の物語
The Show Must Go On!(2013/6):妖精たちによる歴史を模した戦争と、演出するキャラクターデザイナー
The Show Must Go On,and…(書下し):次第に過激化する戦争は殺戮の様相を強める
…'STORY'Never Ends!(書下し):やがて、厳密に定められたルールもほころびを見せ始める
これまで、「アフター/ポスト伊藤計劃」という文脈で説明される他の作家の作品を何作か読んだが、どれからも強い印象を受けたことがない。単なるラベル付けなので、著者自身がそういったカテゴリを意図したわけでもないだろう。しかし、本書からは、増幅/デフォルメされた伊藤計劃的なビジョンが非常に明瞭に浮かび上がってくる。アメリカ的傲慢さ、公然と行われる差別、自由に名を借りた管理、遺伝に秘められた人種的な底深い呪詛。解説にある通り、クローン技術で作られた人間もどき「妖精」は、人の残虐性/暗黒面を凝集した、ル・グインの地下室の子供(「オメラスから歩み去る人々」)そのものだ。しかもそれは隠された意図どころではなく、全面的なテーマに押し上げられている。本来ネガティヴなビジョンを、強烈なメッセージに昇華させた著者のパワーは、十分注目に値するだろう。
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2014/5/11
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『ドラゴンがいっぱい』(2003)や、《ファージング》三部作(2006-08)で知られる著者の長編。ネビュラ賞、ヒューゴー賞、英国幻想文学大賞をはじめ5つの賞を受賞、世界幻想文学大賞など2賞の最終候補となり、最高の成功作とされる。
主人公はウェールズ生まれの15歳の少女。双子だったが事故で1人になり、母親とも相容れなかった。そのため、会ったこともない実の父親の下、イングランドにある全寮制の女子校に入ることになる。彼女は本を読むことが何より好きだった。成績はトップだが孤立し、片足が不自由なため図書室に入り浸り、絶え間なく本を手に取る毎日。中でもSFは最高の友だった。やがて校外のSF仲間とも知り合い、抱える秘密を打ち明けるようになる。それは魔法の存在だった。
さまざまなSF作家、SF作品の固有名詞が登場する。本書は、1979年9月から80年2月までの日記という体裁で書かれている。そのため、70年代後半に出版されていたSF作品が、ほぼリアルタイムに出てくるのだ。ル・グィン、ゼラズニイ、ディレーニイ、シルヴァーバーグ、別格のトールキンといった調子で175冊余り。ほとんどの作品は日本でも翻訳され、本書で書かれているのとよく似た議論の対象となった。イーガンはもちろん、ギブスン、シモンズ、ウィリスもまだ現れない。今のSFしか知らないと、なじみが薄い時代かもしれない。
その一方、本書は「魔法」の物語である。フェアリーが存在し、呪文で人の運命を変えられる。ただし、そう主張するのは15歳の彼女だけなのだ。邪悪な魔女とされる母親、魔力を減退させようとする叔母たち、常人の目には見えない妖精…これらは思春期の妄想なのか、精神的な錯乱なのか、そもそも双子の姉妹は本当に存在したのか(事故の詳細はほとんど語られない)。本書では、極めて非現実的なファンタジーを現実につなぎとめる楔として、SF小説が置かれている。作者の実体験も交えているのだろうが、読書家のリアルは本なのだ。とはいえ、孤独な主人公のさまざまな閉塞感がSFを契機に少しづつ解かれていくというのは、SFファン以外には理解し辛い展開かも知れない。
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2014/5/18
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1926年に生まれ、1950年代の日本SF黎明期を主導し、2010年に亡くなった柴野拓美の評論集である。生前単独の評論集はなかったので、これが初の単行本化となる。
1957年、まだ散発的なSF出版のみの黎明期に同人誌「宇宙塵」が生まれる。この雑誌は「SFマガジン」がスタートした後も、当時のSF界に大きな影響を残しながら、15年間月刊で171号まで刊行される(その後頻度が落ちて、最終号は2013年の204号)。多くの支援者に支えられたが、リーダーは柴野拓美だった。著者はさまざまな議論を提示する。作品への注文や意見、正負を交えた評価、ファン活動やSF論はもちろん、社会論や政治にも及ぶ。舌鋒は鋭く、時には無用な摩擦を招く一方、信奉者も多く得た。
まず、各章の内容がいつ書かれたものか(長期連載は1つとカウント)をまとめてみた。40から60代前半にかけて書かれたものであることがわかる。40代で作品評が多いのは「宇宙塵」の月評を担当していたからだ。SFが一般化する前なので、SF史もこの時期になる。50歳で教職(高校教師)を辞してプロになると、文庫解説など作家評、過去のファン活動を振り返った論評が増え、SF論も登場するようになる。表題にあるように、柴野SF論の主たる主張は「理性と自走」に象徴される。個々の意思ではなく、集団理性(ある種の仮想的な意思)が自走するという考え方だ。残念ながら本書の評論自体、根拠となるリファレンスも実証もない仮説なので、十分説得力を持つとまでは言えないが、SFの描く人間社会をより広い集合から解明しようとする考え方だ。一貫した論文ではないから重複が目立つものの、この思想ですべての書評やSF史、ファンダム論、社会論まで統一されていると見て良い。事実上、これらが実証部分なのだろう。
1つ気になるのは、本書に著作リストや詳細な経歴が収められていないことだ(私家版の追悼集『塵もつもれば星となる』にあるが、一般には入手できない)。読者が著者の背景を知る上では、そういったベーシックな資料も必要だと思われる。
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2014/5/25
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既訳の『ナイチンゲールは夜に歌う』(1989)収録作を除く、事実上のジョン・クロウリーの全短編(2002年まで)を収録するオリジナル作品集である。とはいえ、『ナイチンゲール…』の翻訳が出たのが1996年なので、18年ぶりの作品集だ。
「古代の遺物」(1977):大英帝国華やかなりし頃、旅行者クラブに集う紳士たちの話題は 「彼女が死者に贈るもの」(1978)*:かつて手放した農場へと向かう旅の車中で、甥に語りかける叔母 「訪ねてきた理由」(1980)*:男を訪ねてきた作家と、交わされる不可思議な会話
「みどりの子」(1981)*:12世紀のウェストサフォークで、穴から見つかった緑色の肌をした姉弟 「雪」(1985):小さな蜂のようなカメラで記録した、妻の八千時間のライフログを見る夫の思い 「メソロンギ1824年」(1990):独立前のギリシャ、英国の詩人は村人の罠にかかったある生き物を見つける 「異族婚」(1993):溺れかけた男は、雌の鳥に助けられるが
「道に迷って、棄てられて」(1997)*:離婚した妻から、二人の子供を引き取った夫が書いたお話 「消えた」(1996):巨大なマザーシップから、エルマーと呼ばれる召使たちが送り込まれてくる 「一人の母がすわって歌う」(2000)*:中世アイルランド、嵐の日海岸からやってきた男の正体とは
「客体と主体の戦争」(2002)*:主体と客体とが係る戦争の意味 「シェイクスピアのヒロインたちの少女時代」(2002)*:田舎町でシェイクスピアを演じる少年と少女の出会い
*本邦初訳
12編が収まっている。最後の中編「シェイクスピア…」以外はごく短い。ファンタジイの巨匠(世界幻想文学大賞の生涯功労賞を受けている)と絶賛される作者だが、著作13冊(再録を除く)と寡作である。そのせいもあって、日本ではあまり人気がない。本書には、ファンタジイ「古代の遺物」「メソロンギ…」、SFでは「雪」「消えた」、メインストリーム小説「シェイクスピア…」などが含まれる。ただし、それらにジャンル・フィクション的な差異は感じられない。ヴァージニア・ウルフ、バイロンが登場したり、グリム童話、シェイクスピアに関連する面白い解釈も書かれている。いかにも現代ファンタジイらしく、物語の途中をばっさりと切り取った“瞬間”が共通する。静的な描写で、無駄のない切れ味が強い印象を与えてくれる。
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