2017/6/4

伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)

伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』(白水社)
零地點,2013(倉本知明訳)

装幀:天野昌樹、装画:Rodney Moore,Works

 著者伊格言(エゴヤン)は、1977年生まれの台湾人作家。本書は2014年の呉濁流文学賞、華文SF星雲賞受賞という、文学・SFの両方から評価された作品だ。台湾には4つの原子力発電施設があるが、最後に作られた第4原発で重大事故が起こるという設定。実在する有名人や政治家が実名で登場する極めて政治的な作品なのだが、政権内部の動きを追う、いわゆるポリティカル・フィクション(政治そのものを描いた小説、例えば「シン・ゴジラ」など)とは異なる書き方がなされている。

 20世紀末に着工され、20年間近く完成が遅れていた台湾第4原子力発電所は、2015年の国民投票を経て稼働が決定される。しかし、あまりに長期にわたる工事による管理体制の不備が原因となって、稼働を開始した嵐の日に重大事故を発生、首都圏を含む北部一帯は汚染地帯となる。物語は原発の技術者だった青年と、その恋人との行動を追って進む。事故の前、事故の後の2つの時間軸で、原発事故発生時の真相が明らかにされていく。

 主人公は事故後に記憶喪失に陥る。担当する医師は、脳内の信号を視覚化する装置により、主人公の記憶を呼び戻そうとする。だが、その試みを妨害しようとする勢力が現れる。事故で延期されていた台湾総統選挙が迫る中、国民党の有力候補は事故処理の手際から英雄扱いされるのだが、隠された真実があるようなのだ。いったいそれは何か、主人公が記憶を断片的に思い出すにつれて、生き別れとなった恋人への思いも蘇っていく。

 台湾の原発は日本からやや遅れて70年代頃から建設が始まり、80年代には第3原発までが稼働している。ここまでは国民党による戒厳令下の政策だった。第4原発は日本製原子炉で作られたものだが、建設の途中で住民や野党の反対運動を受けて混迷、稼働のめどが立たなくなった。本書で書かれた是非をめぐる国民投票も、実際に計画されたものだ。2013年に出た本書は反国民党、反原発の立場から書かれている。2011年に起こった福島第1原発事故を契機に、台湾では国民世論が原発を支持していないが、そういう政治状況を反映している。昨年の総統選挙で台湾では民進党が勝ち、原発の全廃が決まったことは記憶に新しい。ただ、本書の中では事故の詳細な描写はないし(事故や汚染のメカニズムなど)、政権内部での陰謀についても明瞭には書かれていない。何らかの禁忌があるのか、意図的なのかは分からない。政治的でありながら政治小説ではない、とはそういう意味だ。あくまでも、主人公の視点からの葛藤が描かれるのみだ。


2017/6/11

神林長平『フォマルハウトの三つの燭台』(講談社)

神林長平『フォマルハウトの三つの燭台〈倭編〉』(講談社)

装画:寺田克也、装幀:坂野公一(welle design)

 神林長平の最新長編である。雑誌「メフィスト2016VOL.1」から「VOL.3」に掲載されたものを加筆訂正したもの。表題通りに、3つの燭台が順番に登場する3編のエピソードから成る。人工人格家電、非実在キャラクター、対人支援ロボットと、最新用語に準拠しているようでちょっと違う、独特のタームを駆使した神林流迷宮小説である。

 知能家電管理士である主人公は、トースターに内蔵された人格が死んでいることに気が付く。この時代ではすべての家電に知能がある。もしかすると自殺かも知れないと疑った彼は、知人の引きこもり中年に相談を持ち掛ける。そこで第1の燭台が出現する。裁判員裁判である事件を担当した動物病院の院長は、友人の中年男にその奇妙さを説明する。何しろ非実在の人物を殺したというのだ。そこに第2の燭台が現れる。中年男は生活を老いた両親に依存していたが、ある日突然、お前は新興宗教の教祖になれと命じられる。拒否すれば追い出すと脅され、渋々向かった古びた神社の建物には、第3の燭台が隠されていた。

 フォマルハウトの燭台とは、今から千年前に作られたある種の呪物で、3つともに蝋燭を灯すと「世界の真の有様」が分かるのだという。舞台は、近未来の長野県松本市のどこか。本好きで引きこもりの中年男が主人公で、その周りで謎の燭台を巡って事件が起こる。無関係なようで、この3つのお話は最後に1つになる(といっても、神林流の謎めいた終わり方だが)。知能家電管理士とは、知能を持った家電同士の諍いを調停する仕事だ。対人支援ロボットは自らを「言うなれば超人」と称する(そんなマンガがあった)、ある種のパロディ的な存在だ。表紙に描かれている角の生えた饒舌なウサギも登場する。登場人物や設定、会話を含めて、壮大な冗談が書かれているようだ

 本書はシンギュラリティとか人工知能といった流行の話題を、実在と非実在、現実と非現実など神林的テーマで語り直した多重性のある作品とみなせるだろう。帯に書かれた「想像力を、侮るな」は、皮相な人工知能論議に対する著者の返歌なのかもしれない。本書は表紙だけでなく、小口(本文の印刷された部分の腹側)にまでイラストが描かれている。裏表紙側から見ると燭台が、表紙側から見ると角の生えたウサギが見える。1つのイラストに2重の絵が封印されているということなのだ


2017/6/18

キャサリン・ダン『異形の愛』(河出書房新社)

キャサリン・ダン『異形の愛』(河出書房新社)
Geek Love,1989(柳下毅一郎訳)

装丁:木島貴信+岩本萌(オクターヴ)
Cover Photo by Sheridan's Art "Oblvion's Soul" from "The Veil" Series

 キャサリン・ダンが1989年に発表した、異形の家族と、兄弟たちの愛に関する作品である。ペヨトル工房から1996年に出ていたが、その後絶版となっていた。本書は、訳者による最小限の改訳がされた新版。当時同工房からは、文学からアートまでを特集する雑誌「WAVE」「銀星倶楽部」あるいは「夜想」や、W・バロウズ、バラード、ディックなどが出ていたが、中でも本書の異色さは際立っていた。

 巡回サーカスの座長夫婦は、自らの子供をサーカスの見世物にしようと、意図的に毒物を呑み異形の子を産む。手足のない長男、上半身だけが双子の姉、身長が1メートルに満たない妹、外見は普通だが超常的な能力をもつ弟。彼らの姿と常人を上回る技は、興行を盛り立てサーカス団を大きくしていく。しかし兄弟同士の愛憎は、疑心暗鬼を生じ彼らをむしばんでいった。

 手足のない兄は父親を上回る知恵者となって、サーカスを牛耳るようになる。物語の主人公は妹だ。裏方として、兄弟の世話から呼び込みまで何でもこなし、兄に屈折した愛情を抱いている。両親は動機からして共感できない人非人だが、悪者のようには描かれない。この親子・兄弟・家族には、いかに歪んでいるとしても、独特のむすびつきがあるのだ。その愛情の発露は異形の形をとらざるを得ない。

 戦前に「フリークス」(邦題「怪物團」)という映画があった。実際のサーカスに登場する障碍者を集めた映画で、サーカスのテントの奥に隠すべきものを、表に出してくることの是非が議論になった(まるで、わいせつ物のような扱いだ)。おそらく本書にもその影響はある。サーカスの見世物は引き立て役に過ぎない。しかし、ここに描かれた異形たちは、物語の色物ではなく主人公である。自らの姿や奇妙な生い立ちを恥じたりせず、健常者たちを自在に操り、強烈な生きざまを見事に全うする。普遍的ではないかもしれないが、ここに一つの愛の形が描かれているのは間違いない。


2017/6/25

ジーン・ウルフ『書架の探偵』(早川書房)

ジーン・ウルフ『書架の探偵』(早川書房)
A Borrowed Man,2015(酒井昭伸訳)

カバーイラスト:青井秋,カバーデザイン:渡邊民人(TYPEFACE)

 ジーン・ウルフが84歳で書いた最新長編である。文字通り「貸し出された男」(原題)の物語。主人公は図書館備え付けの蔵書ならぬ「蔵者」なのだから、本と同じように貸し出しも可能なのだ。

 図書館に蔵者E・A・スミスの貸し出しを求める女性が現れる。その女性は、資産家の父親と兄を亡くしたあと、兄から授かった一冊の本について調査をしてほしいのだという。確かにスミスは探偵小説を書く作家だったが、探偵ではない。しかし、その本は書いた覚えのない自分の著作なのだった。いったいこの本は何の目的で存在するのか、亡くなった女の父と兄にはどんな秘密が隠されているのか。

 主人公は有名探偵小説作家を、生前に生体スキャンした人工物リクローン(複製体)だが、ロボットとは違う。クローンなので人間と変わりがないのに、人間としての権利、つまり人権を一切持っていないのだ。本と同様、貸し出しがなければ焼却処分(殺処分)されてしまう。何しろデータがあるから、必要なら何体でも全く同じリクローンを作ることができる。個々の価値はない。つまり、生物的に生きているといっても、扱いは本なのである。

 とにかく変わった設定である。作家のスキャンコピーがあるのなら電脳空間で再現できるだろうし、名探偵ならロボットで作ることもできる(そんなお話もある)。それなのに、わざわざ作家を図書館に再現して探偵役にするという奇想性が、まず際立つわけだ。主人公のしゃべり方は、クラシックな探偵そのもの(そのように条件付けされているらしい)。物語も探偵小説風に解き明かされていくのである。著者なりの遊びは本書でも随所にみられるが、本書自体は難解ではない。犯行の動機やメカニズムも解き明かされるし、オープンエンドの謎も残らない。印象に残るのは舞台の設定だろう。今から100年後の未来、人口が10分の1に減り、新しいテクノロジーこそ導入されているが、文明自体は逆に100年前に後戻りしたかのようだ。ここに描かれたのは、もしかすると未来の19世紀なのかもしれない。