2004年からスタートした《スタニスワフ・レム・コレクション》全6巻の、13年ぶりとなる完結編である。本書にはレムの最初の長編(幻想味の薄い普通小説ながら、いかにもレム風)と、80年代に書かれた中編級のボリュームのある架空書評、評論4編を収めている。
1940年の2月、主人公は叔父の葬儀のため、ポーランド中部にある田舎町にやってくる。その際に、郊外にある病院の医師にならないかと誘いを受けるのだ。ポーランドは前年のわずか1か月余りの戦争に敗れ、ドイツ、ソ連に国土を分割されていた。病院は精神を病んだ患者たちが収容されている。患者以外にも、高名な詩人や、中央から逃れてきた学者もいる。外部と隔絶した世界で、個性的な医師たちや、詩人との交流を続けるうちに、やがてドイツ軍が病院の接収にあらわれる。
『主の変容病院』(単行本初版1955)は、この後続編が書かれ3部作となっている。しかし、レムは社会主義時代に当局の検閲を受けた後年の2作を評価しておらず、原型に近い本書(第1部)のみを生かしている。SFではないので、他のレムの作品とは印象が異なるのだが、本作だけを読んでも著者の個性が明瞭に浮かび上がってくる。レムが27歳の時(1948年)に、内面を吐露して書いた初めての長編だからだろう。文体の違いというのはよく分からないが、段落なくびっしりと書き込まれた精緻な描写が印象深い。国土の喪失とホロコーストという2つの暗黒面が、本書の背後に黒々と広がっている。宮内悠介『エクソダス症候群』(2015)と読み比べるのも面白いかもしれない。
『挑発』(単行本初版1984)は、架空書評集(といっても長い2編のみ)である。なぜ人類の歴史でジェノサイドが起こるのか、宗教的、種族的な理由がある過去とナチスドイツのホロコーストは何が違うのかを論じる「ジェノサイド」。人が人を機械的に殺傷するためには、それなりの信念なり妄執が必要になる。過去は大きな宗教がそれを与えたが、では20世紀以降の無差別殺戮を正当化するものは何か。もう1作「人類の一分間」は、1分間の時間の中で全地球的には何が起こっているかを説く。われわれは卑小な存在で、全地球で起こるようなスケールの物事を、本当に想像することはできない。世界を具体的に感じるための方法とは。
『二一世紀叢書』(単行本初版1986、原著には「人類の一分間」も入っている)からは、生命が生まれ存続する確率、偶然性を論じた「創造的絶滅原理 燔祭としての世界」、21世紀後半の兵器は、人工知能ではなく人工本能に基づくとする「二一世紀の兵器システム、あるいは逆さまの進化」が収録されている。前者の論点は、実は数年前に日本で出た某評論書と同じで、しかもさらにスケールアップされている。日本は30年以上遅れていたわけだ。後者は『砂漠の惑星』を思わせるメカニズムこそ、究極の兵器になりうると説く。レムのアイデアは単なる思い付きではなく、バックグラウンドを厳密に考察した結果なので、まったく侮れない。未訳の評論集の中に、どれだけのアイデアが埋もれているのかと思うと、まさに戦慄しかない。