副題が「なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」。毎日新聞を始め、各所で話題になった本だ。著者は大伴昌司の友人で、荒俣宏らと雑誌「幻想と怪奇」や国書刊行会《世界幻想文学大系》を編纂、専門の書誌学だけでなく、SFやファンタジイの戦後史でも欠かせない大家である。その著者が、蔵書3万冊を処分せざるを得なくなった顛末と、日本での蔵書のありかたが語られる。
個人による蔵書は明治の半ば以降にはじまり、和本や洋書など当時は文人、学者などに限定されていた。やがて、昭和初期の円本(廉価版の全集など)ブームを契機に一般大衆へと広がる。円本は、当時の部数で数十万部出ていて、これが蔵書の基礎となった。岩波などの文庫も内容が精選されていたため、読み捨てではなく蔵書対象となったようだ。個人の家に、たとえ数冊でも本が置かれるようになった。戦後は高度成長とともに、蔵書はコレクションへと変わる。初版本ブームなどの投機的なバブルを生み出し、バブル経済崩壊後、出版界の衰微とともに蔵書マインドも衰退したと著者は論じている。
著者は横浜に2万冊の書架を据えた自宅があり、岡山に1万冊を移した別宅があった(1997-2011)。しかしメンテナンスコストや、加齢(蔵書処分時80歳)による体力の衰えを考えたとき、維持は困難だと判断して大半を古書市場に手放した。まとまった蔵書なのに、図書館は受け入れないのかという疑問が沸く。たしかに、各所に個性的な図書館や文学館ができたバブル時代は、作家などの蔵書を広く受け入れる余地、容れものが豊富にあった。ところが、公共予算の削減が進む現在では、増設どころか維持も難しい。高名な研究者の蔵書が廃棄されたのも、置き場に困ったからだ。無名の蔵書家の本などは、最初から対象外である。
著者は蔵書とコレクションとを区別している。蔵書は「ジャンルを問わず、最小限のバランスの取れた普遍的な群書の形において、所蔵者の人格、人間性を表現しているもの」、コレクションは「単なるものの集積で、趣味嗜好、興味、こだわりの表現にすぎない」ただし「対象が一作家の全生涯や関係資料なら普遍性が感じられ」許容できるとする。著者は堅物ではない。蔵書の中には、SFやミステリ関係も多く含まれていた。それでも、こういう「普遍性」へのこだわりは印象的だ(著者の他の論考でも書かれている)。
今の時代は、数千冊から数万冊クラスのサブカルもの、ジャンル小説所蔵者は結構多いと思われる。だが、死ぬまで、あるいは死後も維持できるものはほとんどないだろう。やがて散逸、廃棄の運命だ。やみくもにコレクションする前に、著者の言う「人格や人間性」「普遍性」がそこに見られるかどうか、一度考え直してみてもいいかもしれない。