2018/8/5

ドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』(国書刊行会) 

ドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』(国書刊行会)
Adios,Scheherazade,1970(矢口誠訳)

装幀:山田英春

 全10巻を予定する《ドーキー・アーカイヴ》の5冊目。ミステリ界の巨匠ウェストレイクも、亡くなって10年になる。リチャード・スタークなどのペンネームを使い分け多数の既訳書もあるが、電子書籍化されているものを除けば入手できる新刊は少なくなった。評者は《悪党パーカー》や『ホットロック』を含む《泥棒ドート・マンダー》などの主要作品を読んでいないので、ウェストレイク全般を語る資格はない。とはいえ、著者のSF短編は職人技の面白さがあったし、本書も周辺からの視点で読むことができる。『さらば、シェヘラザード』はミステリではない。自己の体験を交え、メタフィクションの要素も盛り込んだ実験的な作品になっている(といっても、あくまでエンタメ小説)。

 主人公はポルノ小説のゴーストライターである。これまで2年半、毎月1冊づつをなんとか書下ろしてきた。しかし、実績があっても立場は弱く、もし締切を落とせば直ちに首になる。今回は深刻なスランプにはまり込んだ。何度も何度も、冒頭25ページ分(1章分)までを書いてはボツにする繰り返し。それも筋が保てず、個人的な感情が噴出しては脱線する。ポルノはフォミュラー小説の典型なのに、パターンが保てず支離滅裂な内容となってしまうのだ。はたして、締め切りまでに完成できるのだろうか。

 スランプを脱するには何でもいいからとにかく書くことだ、との言い訳から始まる(つまり以降は、主人公がその場の思い付きで書いたもの)。自分はどういう経緯でゴーストライターになったのか、ポルノはどんなパターンで書かれるのか、その具体的な筋書きとは、小説内小説のようなメタフィクションとは、大学で出会った妻とはどう結婚し今どんな状況なのか、としだいにスリラー紛いの個人的な危機が明らかになっていく。

 主人公は書下ろし1冊で1000ドルを受け取る。半世紀前のアメリカ(1ドル360円だった)で物価も安いから、年に10冊書くゴーストライターなら、妻子を養えて生活することができた(今の日本の作家より恵まれている)。ただし、表のライターの下請けである限り、収入も地位も保証されない。ある日誰かに置き換えられる恐れがある。解説に詳しいが、ウェストレイクはかつてペンネームで大量のポルノを書いていた。売れっ子作家が遊びで想像しただけ、といえない裏付けも含まれているわけだ。


2018/8/12

円城塔『文字渦』(新潮社) 

円城塔『文字渦』(新潮社)

書:華雪、装幀:新潮社装幀室

 新潮の2016年5月号から2018年3月号まで隔月連載された、文字にまつわる全12編を収める短編集(表題作は第43回川端康成文学賞を受賞している)。文字の霊について書いた中島敦の「文字禍」(もじか)と同じ読みだが、こちらは渦である。

 文字渦:秦の始皇帝の兵馬俑で職人だった男は、竹簡に人の形を含む膨大な未知の文字を造り上げる。緑字:地球から最も遠い漢字は膨大なテキストファイルの中に埋もれ、発光、蛍光を帯びているように見える。闘字:闘蟋(とうしつ)に似た競技に文字を闘わせる闘字がある。文字よりも古い歴史があるらしい。梅枝:紙の本が絶滅した時代、源氏物語絵巻を筆で書いて本に作り上げる機械「御法」がある。新字:天皇のために新たな文字を作り上げたという境部石積は、かつて遣唐使で渡った長安で楔形文字の存在を知る。微字:本は層をなす。本層学は、本を掘り返して古代の歴史を知る学問である。文字は化石化しているがその中に微小な化石文字がある。種字:全ての文字が生じる元となるもの、さまざまな書体の展開を秘めている種。誤字:Unicodeでの文字の領土争いに始まり、文字の形はやがて人間の手を離れた変容をともなうようになる。天書:原初の混沌とともに現れた文字を天書と呼ぶ。その中に、複数全体で意味を成す「符」がある。金字:宇宙に点在する仏国土を移動するためのアミダ・ドライブにより、多くのテキストデータが転生できるようになる。幻字:一代で財産を築いた地方の当主が亡くなり、娘と入り婿たちとの間で文字を巡る猟奇的事件が起こる。かな:漢字を受け入れた時に多くのものが捨てられ、文字コードを受け入れた時のも同様だった。失ったものと得られたもの。

 共通する登場人物(境部さん)の名前はあるが、こういうものをオムニバス短編集とは言わないだろう。しかし、明確なテーマとして文字、それも漢字がフォーカスされている。朝日新聞掲載のインタビュー記事に「漢字って変ですよ。多すぎるし、いくつあるのかわからないなんて。漢字仮名交じりだっておかしい。漢字を開いても閉じてもいい、気持ち次第。句読点の打ち方もルビの振り方もルールはない。変なの、と思います。書記体系がおかしいでしょう」とある。その奇妙さ自由さを、架空の竹簡、発光する文字、生き物のような文字、知能に影響を与える文字、化石文字、胚となる文字、記号、仏教の経典、横溝正史、文字の変容と、奔放に表現したものが本書になる。見たことのない(文字コードにない)漢字が頻出するが、どれも実在する(実用されたかどうかは分からない)文字だという。おそろしく複雑なルビも出てきて(雑誌→単行本に際して)著者はスクリプトで修正したが、編集部では手修正をするしかないなど物理的、スキル的な困難もあった。そのためもあって、リフロー型の電子書籍化(行数、文字数が可変)は絶望らしい(PDFなら可能だろうが、たぶん読みにくい)。とにかく、話題豊富だ。

 書家華雪は「この本の装幀のための書を依頼されたとき、著者からは「阿」の文字の書体の架空の変遷を示された」と言う。「阿」は本書の中に何度も登場する言葉で、楔型文字を滅ぼしたアラム語だったり、文字が多様化したときの阿語生物群などという使われ方をする。つまり、多様で変幻自在なものを象徴しているのである。


2018/8/19

高山羽根子『Objectum オブジェクタム』(朝日新聞出版) 

高山羽根子『Objectum オブジェクタム』(朝日新聞出版)

装幀:大島依提亜、作品:加納俊輔

 第1回創元SF短編賞佳作入選から7年、第1作品集『うどんキツネつきの』を出して4年目となる著者の第2短編集である。3作のみのコンパクトな内容だが、中編(160枚)、短編(57枚)、掌編(23枚)とそれぞれ異なる3つの顔を見せてくれる。

オブジェクタム:主人公はレンタカーに乗って故郷の町を目指す。過去にあった出来事を確認するためだ。子どもだったころ、町には手刷りされた壁新聞が貼りだされ、ちょっとした解明記事が人気を呼んでいた。しかもそれは、彼の祖父が秘密の隠れ家でひそかに作っているのだ。
太陽の側の島:戦時中の若い夫婦間でやりとりされる手紙。妻は空襲下の内地で子どもと家庭を守り、夫はどこか南洋の島でひたすら開墾作業をしている。不思議なことに島には敵の来襲がなく、現地人の暮らしは理解を越えている。
L.H.O.O.Q.:やり手の妻に翻弄されるままだった夫は、妻の急死によって愛犬を相続することになる。犬は妻とそっくりに見えた。だが、ある日雑踏の中でその行方を見失う。 

 壁新聞、ゴミ屋敷に住む友人、忽然と現れる移動遊園地、手品をみせる俳句教室の老人、祖父の奇行、埋められた秘密の箱、謎のように登場するホレリスコード(コンピュータのデータ読み取り用パンチカード)、空き地にあらわれる奇妙なオブジェ。まるでブラッドベリのようだが、ブラッドベリほどの郷愁感はなく、むしろ過去を振り捨てていくドライさが際立つ。表題の「オブジェクタム」は哲学用語で、なぜこの言葉が採られたのか明確な説明はない。主人公の幼少期の思い出=主観が、壊れたおもちゃ箱のように散乱した様子を意味しているのかもしれない。

 「太陽の側の島」は、第2回林芙美子文学賞受賞作で年刊日本SF傑作選にも収められている。日本と南洋の島という2つの舞台で描かれているが、実はこの二つは同じところなのではないかと思わせる書き方が巧みだ。「L.H.O.O.Q.」はもともとデュシャンのパロディ絵画につけられた名前だ。この作品では死んだ妻や犬、出会う謎の女性、あるいは自分自身を象徴しているのだろう。


2018/8/26

ニール・スティーヴンスン『七人のイヴIII』(早川書房) 

ニール・スティーヴンスン『七人のイヴIII』(早川書房)
Seveneves,2015(日暮雅通訳)

カバーデザイン:川名潤

 三か月連続刊行の三分冊版『七人のイヴ』が、本書を持って完結した。これまでと違って、一挙に舞台は5000年先の未来に飛ぶ。

 5000年後、人類は地球軌道上に広がる環に無数の居住域ハビタットを設け、新たな文明を築いていた。人口は30億を数え、7人のイヴを始祖に持つ遺伝子改変された人種として分かれ住んでいる。一方、荒れ果てた地球では1000年間試みられたテラリフォームにより、海や大気が蘇ってさまざまな生命が再生しつつあった。そんなある日、主人公たちは重大な使命を受けて、七人のイヴ(種族)の代表とともに、新たなる地上ニュー・アースに降り立つ。

 テラフォーミング(地球化)を地球に施して「テラリフォーム」とする表現は面白い。方法は火星のテラフォーミングと似ているが、たしかに地球相手の方が短期間に効果がでるだろう。地球の環はハビタット・リングと呼ばれる巨大な生命圏になる。地上とハビタット・リングとはある種の宇宙エレベーターで結ばれている。このエレベータの地上側は固定されておらず、吊り下げられた重りのように動く岩塊=クレードルになっていた。

 前作の結末でイヴだけが生き残った宇宙では、やがて遺伝子改変により男が生み出される(染色体の関係で、女から男は作れるがその逆はできない)。さらに活動に適した遺伝情報から、様々な能力を持つ新しい人種が生まれてくる。しかし、もともと対立していた祖先の影響を受けて、ハビタット内の人々には人種対立が生まれる。かれらは〈ブルー〉と〈レッド〉の2陣営に分かれ、お互いの影響力を5000年後の地上、ニュー・アースに広げようと抗争を続けている。

 さて、出てくるハードウェアのスケールの点では、3分冊中本書が群を抜いている。直系84000キロに5000個のハビタットを含むリング、宇宙エレベータのワイアを結ぶ〈アイ〉(形が瞳孔に似ている)は、ニューヨークを丸ごと飲み込む規模がある。まさに宇宙都市そのものだ。ただ、そういう巨大なスケールを擁しながら、本書は「人類SF」のように文明全体を総括するのではなく、あくまでも個人の物語になっている。個人が行った決定、行動が未来に大きな結果を残すのである。この世界観は物語の設定にも反映されている。生き残った子孫は祖先の行動を反復学習し、5000年を経ても文明は蒙昧な原始的状態に墜ちない。結末に置かれた劇的な再会が、そういった個人の物語と強く結びついているのが印象的だ。