ティドハーの改変歴史もの。といっても、本書は類書とは大きく異なる構成をとっている。ここで描かれる世界は、アウシュヴィッツの絶滅収容所で死を待つ一人の作家の夢なのである。
ヒトラーはウルフと名を変え、ロンドンで私立探偵を営んでいる。仕事は順調ではなく、娼婦がたむろする貧民街の個人事務所で家賃を滞納するほど生活が苦しい。ある日富豪の夫人が、行方不明の妹の捜索を依頼しにやってくる。ユダヤ人からの仕事は嫌悪感を誘うが、契約金には代えられない。ドイツは今では共産主義者に支配されている。権力闘争に敗れたファシストやユダヤ人たちは、難民となってイギリスに流れ込んでいた。依頼者の妹もその一人だった。難民の増大は治安の悪化を招き、反動で難民排除を叫ぶ英国ファシストの党が支持を集めるようになる。一方、ウルフの周辺では猟奇的な連続娼婦殺人事件が発生する。
ナチスドイツに征服、または自らファシスト化した英国を舞台としたミステリは数多い。代表的なものに、レン・デイトン『SS-GB』(1978)やジョー・ウォルトン《ファージング三部作》(2006-08)などが挙げられる。別の人生をおくるヒトラーものも多く、最近では『帰ってきたヒトラー』(2012/映画化2015)などが話題になった。ただ、イスラエルに生まれロンドンに住むティドハー(親戚の多くが家族ごと収容所で亡くなっている)にとっては、ヒトラーは単なる歴史上の人物ではない。この作品の多層的な仕掛けは、現実の重さとエンタメ小説の軽さとの均衡を取るため、あえて設けられたものかもしれない。
著者には《ブックマン三部作》(2010-12)や『完璧な夏の日』(2013)があり、その流れで2014年に本書が書かれている。前作も並行世界の第2次大戦が舞台だったが、より幻想味が減りリアルな設定になった。本書の中でのヒトラーはユダヤ人嫌いはもちろん、冷笑的、倒錯的な人物として描かれる。一度は頂点を極めたものの転落は激しく、猜疑心に苛まれる。亡命したかつての部下(ヘス、ゲッペルス、ゲーリング、ヒムラー)たちや、成り上がりの英国ファシスト、援助を申し出るアメリカ人らを信用していない。彼らには別の目的があり、ヒトラーを駒として利用しようとするだけなのだ。
収容所でヒトラーの夢を見る作家は、世俗的な流行小説を書いていた。名の残るような作家ではない。だから彼の夢みるヒトラーは偉大さからはほど遠く、次々と世俗的な事件に巻き込まれ、極めて皮肉な結末へと導かれていく。