2013/9/1

中村融編『時を生きる種族』(東京創元社)
E for Effort and Other Stories(中村融他訳)

カバーイラスト:鈴木康士、カバーデザイン:東京創元社装幀室

 出版業は、毎年新しいものが投入されないと成り立たない。いくら傑作だからといっても、古いものだけで飽和すると、新作が入る余地がなくなるからだ。結果的に、“年間消費”される以上の本は、文字通り捨てられていくのである。市場の小さな中短編では特にそうだ。中村融による翻訳アンソロジイは、そういう隙間を照らし出す視点で編まれている。本書でも「埋もれている佳作を世に出したい」という観点から、マイナーでほぼ忘れられている、しかし復権させるべき作品が選ばれている。

ロバート・F.ヤング「真鍮の都」(1965/1986):シエラザードを連れ出した男は真鍮色の都市に迷い込む
マイケル・ムアコック「時を生きる種族」(1964/1977*):時を知らない異邦人が訪れる時間が支配する街
L.スプレイグ・ディ・キャンプ「恐竜狩り」(1956/1971*):恐竜狩りツアーで客が引き起こすトラブル
ロバート・シルヴァーバーグ「マグワンプ4」(1959/1974):間違い電話から男は奇妙な時間線に拉致られる
フリッツ・ライバー「地獄堕ちの朝」(1959/*):自身の正体を知らない男は女に導かれるままに部屋を出る
ミルドレッド・クリンガーマン「緑のベルベットの外套を買った日」(1958/*):似合わない外套が紡ぐ恋
T.L.シャーレッド「努力」(1947/1964*):歴史を自在に覗ける装置はやがて知られざる真実を暴きだす
 (初出年/初翻訳年)で記載。*とあるのは、本書での新訳または初訳

 編者には、先に時間SFアンソロジイ『時の娘』(2009)がある。そちらは、副題「ロマンティック時間SF」とあり、ロマンスものを意識した編み方だったのに対し、本書は「ファンタスティック時間SF」なので、時間旅行をやや不可思議/ビターに捉えたものが中心になる。50〜60年代SFが中心のなか、1作だけ、第2次世界大戦直後の1947年に発表された中編「努力」が異色作である。ここでのタイムマシンは、ある種のタイムカメラなのだが、オフィシャルな歴史と真実の出来事との乖離を予言的に描き出した力作だ。真実を知ったとき何が起こるかは、半世紀後のインターネット社会で現実化した。ウィキリークスなど、その事例は事欠かないだろう。もちろん本作は予言の書ではなく、人間社会の本質を描きだしているのだ。

 

2013/9/8

東浩紀『クリュセの魚』(河出書房新社)


装画:大槻香奈、装丁:川名潤(Pri Graphics Inc.)

 オリジナル・アンソロジイのシリーズである《NOVA》に、2年間で4分載されていた東浩紀のSF長編を加筆訂正したものが本書。

 25世紀の未来、人類は火星をテラフォーニング化する過程にあった。主人公は11歳の時、社会見学の一環で偶然年上の少女と知り合い、どこか惹かれるものを感じとる。やがて、年を重ねていくうちに、その思いは強まっていく。折しも、太陽系外縁のオールト雲では、異星人の作ったと思われるゲートが発見され、地球圏と火星との関係は急転しつつあった。戦争とテロ行為の泥沼に、彼らもまた巻き込まれていく。

 本書は基本的に2部に分かれている。前半ではヒロインと主人公との恋愛小説が描かれ、一転後半では異星人のテクノロジーが人類にもたらす異変をSF的視点で描き出す。さらには、ヒロインは滅んだ国(日本)の末裔であり、情報的に再生された存在とも示唆される。天皇に係る微妙なナショナリズムや、宇宙的な政治/地政学などを大胆に取り入れ、少年のぎこちない恋愛小説と対比させたところが、本書最大の特徴といえるだろう。ただ、この対比のギャップは強烈で、本来のテーマと思われる異星文明の正体が、ずいぶん曖昧に感じられる。

 

2013/9/15

酉島伝法『皆勤の徒』(東京創元社)


Cover Illustration:加藤直之、Cover Design:岩郷重力+WONDER WORKZ。

 第2回創元SF短編賞の受賞作、受賞第1作に中編、書下ろしを加えた初短篇集である。短編集ではあるものの、一貫した世界観で書かれた長編のようにも読める。

「皆勤の徒」(2011):海上に聳える塔のような建物で、従業員はひたすら何物か分からないものを作り続ける
「洞の街」(2012):漏斗状に作られた洞の街では、定期的に天降りと呼ばれる生き物の雨が降る
「泥海の浮き城」(書下ろし):海に浮かぶ城、二つの城が結合する混乱の中で、祖先の遺骸が消える
「百々似隊商」(2013):何十頭にもなる百々似(ももんじ)の群れを引き連れ、交易をおこなう隊商の見たもの

 短編賞の受賞作「皆勤の徒」は、一見現在のサラリーマンをデフォルメ化した風刺小説のように見える。幻惑されるのだが、“寓意”や“教訓”もない全く異質のものだ。世俗的な単語による既成概念と、描かれる生き物の差異が眩暈を呼ぶ。「洞の街」は異形化した山尾悠子「夢の棲む街」、「泥海の浮き城」はエリック・ガルシア《鉤爪シリーズ》のような昆虫人によるミステリ。「百々似隊商」に至ると、ノーマルな人間世界とこの世界とが対比的に描かれ、世界の成り立ちを仄めかす内容となっている。大森望解説では、酉島世界のSF解釈が詳細に述べられており、これはこれで価値があるものの、ふつうのSFに還元できない部分にこそ本書の特徴があるのは間違いないだろう。

 

2013/9/22

 本年6月(『たそがれ・あやしげ』)、8月(『自殺卵』)に出た著者の最新作品集である。前者は、三菱UFJ「SQUET」という金融サービスの会員誌に掲載されたもの(市販はされていない)で、ショートショート21篇からなる。抗がん剤治療で入院する(現在は退院)、2012年の夏ごろまでの作品のようだ。これらは後者作品集と、共鳴しあうような関係にある。

「豪邸の住人」(1998):近所にできた豪邸に住む夫妻は、自分たちとそっくりの外観をしていた
「アシュラ」(2012):老化を抑える画期的なサプリメントを飲む主人公は、意外な副作用の存在を知る
「月光よ」(1999):重い病気を予感する主人公に、月光の光に乗って思念が流れ込む
「自殺卵」(2012)*:誰もの家に、何者かから簡単に自殺できる卵が送られてくるようになる
「ペケ投げ」(2012)*:無意識のうちに、相手にダメ出しできるX(ペケ)マークを投げつけられたら
「佐藤一郎と時間」(2012)*:平凡な主人公に、異世界から来た訪問者が質問を問いかけてくる
「退院後」(書下ろし):退院後、街を歩くうちに、夢のような、幻のような光景が次々と現れる
「とりこ」(書下ろし):なにげなく水晶玉を買った後、その中に自分自身の姿が見えるようになる
 *「とべ!クマゴロー」に期間限定で掲載

 前の短篇集から、著者とシンクロする主人公たちの年齢はおよそ10年進んでいる。これは著者の考える「私ファンタジイ」(私的体験の延長上で書かれたファンタジイ)と一致する。彼らは、定年や再雇用の時期をとっくに過ぎ、家族を失ったり別居した結果、今では一人暮らしになっている。気がつくと時間は瞬く間に過ぎ、集中力を維持するのに困難を覚える。深刻なのは病気で、入退院を繰り返しながら、残された時を考えることもある。本書の中で注目されるのは、書き下ろされた「退院後」「とりこ」など、一段と幻想色を深めた作品だろう。意識や気力を削がれる薬の作用の彼方に、これまで見えてこなかった光景があり、透徹した諦観があるからだ。

 

2013/9/29

スティーヴン・キング『11/22/63』(上下)(文藝春秋)
11/22/63,2011(白石朗訳)

装画:藤田新策、装幀:石橋健太郎

 スティーヴン・キングが描く時間改変小説。もしタイムトラベルにより、ケネディを暗殺から救えたらという設定で、上下1000ページ、2500枚超の大作になっている(長さ的にはいつものキングといえる)。2012年国際スリラー作家協会(ITW)ハードカバー賞、2011年LAタイムズ文学賞ミステリー/スリラー部門を受賞。ローカス賞(ミエヴィル『言語都市』が受賞)や、英国幻想文学賞(受賞作なし)などは最終候補に留まった。SFやファンタジイの要素は少ないのだ。このアイデアだけなら短編で書けてしまうところを、重厚なエピソードで全く異なる作品に変えてしまうところは、いかにもキングらしい。

 田舎町に住む高校教師の主人公は、偶然トレーラハウス食堂の奥に1958年に続く時間の穴があることを知る。そこは、常に同じ時刻、同じ日なのだ。行くたびに変化はリセットされ、何年滞在しても、戻ると2分時間が進んでいるだけだった。食堂の主人は、体調の悪化した自分に代わって、1963年に起こるケネディ暗殺阻止を託す。この暗殺がなければ、ベトナム戦争の泥沼も、60年代の混乱も避けられたというのだ。

 主人公はまず身近な過去を修正する。理不尽な暴力を、加害者の殺人で無かったものとする。犯人リー・オズワルドが帰国するまで(オズワルドはソ連に衝動的に亡命した後、ロシア人妻と子供を連れて再帰国する)は、経験ある高校教師として過ごそうとする。しかし、知り合った司書との恋におち、口にできない使命との板挟みに苦しむ。
 タイムトラベル自体、矛盾に満ちたトリックの宝庫、ケネディ暗殺はそれにも増して陰謀論の宝庫だ(著者のあとがきに詳しい)。両者を備えた小説では、高校教師がタイムトラベルするスタンリー・シャピロ『J.F.ケネディを救え』(1986)や、ケネディがもし暗殺されなかったら、というジョージ・ベアナウ『ダラス暗殺未遂』(1988)などがある。本書はバタフライ効果やストリング理論など、科学的な用語を使いながら、あくまでも超自然的なドラマに仕上がっている。「過去」は改変を許さず、物理的な妨害を仕掛けてくる。破天荒ながら、なぜそうなのかという理由は物語の最後に明らかにされる。また著者は、20世紀初頭への憧れを描くジャック・フィニイ『ふりだしに戻る』(1970)の影響に言及している。60年代初め(ベトナム戦争前のアメリカ)に対する郷愁が色濃い本書と、呼応するものがあるからだ。時間改変の矛盾を、個人的な記憶の物語に縮退させたフィニイ的結末は、しかし意外に悪くはない。