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深堀骨(ふかぼりほね)は、1992年のハヤカワ・ミステリ・コンテストに佳作入選後、数作をミステリ・マガジンに掲載、99年以降SFマガジンに舞台を移して活動している。ミステリとSFといっても、作風に大きな変化があったわけではない。このペンネームから分かるように、きわめて特異な奇想小説なのである。本書は、デビュー以来10年間の短編を集めたものだが、小説の舞台(柴刈天神駅前界隈と)/登場人物(時代劇「闇鍋奉行」を含む全作)共に同じなのが特徴。
R・A・ラファティ(エピクト・シリーズその他)や、フィリップ・ホセ・ファーマー(ポリトロピカル・パラミスという訳分からないシリーズ)などを連想するが、だからといって、それらに似ているわけでもない。ナンセンス/ユーモア風の面白さの度合いが、常識を大きく逸脱している点が共通なのである。ちょっと難しいのは、ミステリ/SFファンの多くは、ほどほどの理屈を好むということだろう。本書のような徹底したナンセンスを、受け入れられない場合がある。上記ラファティやファーマーのシリーズも同様だった。そこに拒否反応を示す人にはお勧めできない。逆のケースの人はハマる。
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小川一水入魂のプロジェクトSF。 2025年、極限下でのプラント開発を専門とするとある総合建設会社に、レジャー会社から新規の引き合いが入る。それは、月に民間人が宿泊できる恒久施設を作りたいというものだった。今から20数年後、日本の宇宙開発事業はすべて民営化されている。だが、経済効率だけを追求するドライな競争の中で瀕死の状態、月への往還で起死回生を図る。月は、中国が辛うじて基地を維持するだけ、アメリカは火星に注力し見向きもしない。果たして、有人飛行の経験もない彼らの事業は、経済的/技術的に立ち上がるのか。プロジェクトの期間は10年…。 ロケットビジネスが当たり前になっていながら、誰も経済価値のない月には興味がない。しかし、月ビジネス立ち上げに執念を持った男がいて…というお話は、ハインラインの有名な短編「月を売った男」(1950)を連想する。アポロどころか、スプートニク以前に書かれた古典ではあるが、民間人がお国の力を借りずに独力で月事業を成し遂げる点は、むしろ今風に読めるだろう。本書の場合、その“個人”の執念に加えて、世界に対する“性善説”が特徴になる。地域紛争やエネルギー問題が収束し、政治/貿易面で深刻な国家間の対立もない。中国やロシア、NASAも登場するが、彼らも良きライバルであって、敵ではない。いやしかし、この楽観的世界観があるからこそ、本書は純粋なプロジェクトSFとして読めるのだ。 そう、この設定でもう一つ連想する作品がある。ジェームズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』である。本書の月面施設で発見された“装置”の顛末は、同書の結末に似て、人類も捨てたもんじゃないという感慨を味わわせてくれる。 やはりSFには、こういうスケールアップも必要だろう。 気になるのは、10年1500億円というプロジェクト予算。いくら画期的なエンジンを使用したにせよ、これだけの研究開発を伴い、少なくとも100名程度(?)の現場スタッフを要する事業にしては、ちょっと少なすぎるように思える。まあ、これ以上の金額では、テーマ上無理が生じるのだろうが(何せ、月に作るのがアレですからね)。
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牧野修の、バイオレンス・ホラー。 ポルノ映画の古典(60-70年代)をそれぞれの短編の表題に掲げ、内容も男性至上主義の殺戮者(男に対立する女をSM風に調教)対、女性性の守護者にして惨殺者(男を誘って生かして返さない) の果てしのない戦いとする、血で血を洗う4短篇からなる連作集。 理不尽な女性差別に反抗した女は、男性原理の支配を脅かす存在。太古から存在する秘密組織のメンバーは、世界中に隠れ住んでおり、危険な女を誘拐しては調教/拷問する。しかし、そんな支配体制を覆す存在が生まれようとしている。それは、生物としての人間=男の存在に終焉をもたらすかも知れない。男側の守護者<使徒>と、女性側に生まれた<ドゥルガー>の最終対決が迫る…。 この表題の“黒娘”(なぜ黒かは、結末で明らかにされる)というのが主人公で、なぜかアトム(クールで長身)とウラン(ロリ系)と呼ばれる。得意の聖書ネタ がメインだが、今回はインド神話まで取り入れられている。 中に込められたジェンダーテーマ自体は重いが、ここまで思いきり誇張すれば、ポルノかつバイオレンスであり、ホラーにもなるという実証例なのかも (最近は、何でも追及すればホラーになる)。牧野修の筆の多彩さも楽しめる。
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今日泊亜蘭のオリジナル短編集。クラシックな作風や、西欧的な開発を批判するテーマではあるが、今日泊という人は別に国粋主義者ではない。インターナショナルな、どちらかといえばアナーキストだったようである。そうでなければ、アメリカの影響が濃かった黎明期の日本のSF界に関わるはずもないだろう。 本書には、既存の作品集で未収録だった、希少な短編が収められている。ホラー風ミステリ、昔風に言うなら“怪奇サスペンス”に分類される3編、「夜想曲」(1954)/「くすり指」(1955)/「死を蒔く男」(1957)は戦争直後の荒廃した雰囲気を反映している。 SFでは、ウェルズ/ザミャーチン風の暗黒の未来「東京湾地下街」(1963)、SF定石ネタの先駆的作品「見張りは終わった」(1960)、1966年の3編「確率空中戦」「みどりの星」「御国の四方を」は、雑誌「丸」掲載の未来戦記もの。 一方、現代に生きる河童を描いた「河太郎帰化」(1957)は、ストレートに作者の主張を伝える風刺ファンタジイである。「SFマガジン」に掲載されたファンタジイ、根岸物語の2編「瀧川鐘音無」(1967)「新版黄鳥墳」(1970)は、さらに時代を遡って、江戸が東京に変貌しつつあった頃の根岸(台東区鶯谷駅周辺)を舞台にしている。最後のマガジン掲載作「玉手箱のなかみ」(1973)は、タイムパラドクスをからめた浦島太郎譚。 発表後30年から50年を経た作品が中心。この後も、作者は『わが月は緑』(連載開始1987)などを書いているので最新作ばかりとはいえないが、作風に大きな差はないだろう。さて、しかし今年で91歳になる作者を、どのように位置づけるかは難しい。既に『光の塔』(1962)を出版した時点で、長老だった人である。かつて作者を「たぬきじじい」と称した若き日の野田昌弘も、もう老人だ。本書収録の短編は、古色蒼然とも読めるし、時代を超越しているともいえる(趣旨としては後者だが)。ミステリやSFには古さが、独特の文体で書かれたファンタジイには望郷色が感じられる。結局その味の混交が、今日泊亜蘭を現在読む意味になるのだろう。
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『アラビアの夜の種族』から1年半、古川日出男の新作が出た。前作を凌ぐボリューム、舞台は近未来の東京、主人公はさまざまな少年と少女。 たった6歳でサイバイバルを叩き込まれた少年(小笠原諸島で育ち、やがて東京の移民区で外国人たちの中に溶け込む)、4歳半で母親から棄てられた少女(中高一貫の女子校で、見るものの認識を崩壊させる舞踏を体得する)、14歳で少女と少年を演じ分ける移民の子(鷹匠のように1羽のカラスを操り、手に入れたビデオカメラ/投影機を文字通りの“武器”に変える)、その他、少女を取り巻くさまざまな踊り子/少女たち、念写少年、遺棄された結婚式場を根城とする娼婦と外人医師たち。 近未来、ほんの5年後、東京はヒートアイランドによる熱帯と化す。安価な労働力を得るために大量に受け入れた移民たちがモザイク状に異国(神楽坂)を形成する一方、日本人だけの移民排斥区(西荻窪)が生まれ、人種的対立は至るところで暴力に転化する。東京に侵入しているのは、人間ばかりではない。高度な知性を有するカラスの群れ、そして古代から地底に棲む先住民たちまでが登場する。そして、ついに最終決戦の日が…。 シオドア・スタージョン『人間以上』のホモ・ゲシュタルト(欠陥を持った落ちこぼれが集合して、超常能力を発揮する)を、J・G・バラード『沈んだ世界』(熱帯に文明が侵され、滅んでいく様子を肯定的に描いた物語)に投影したイメージか。後半は、相当にお話が走る。疾走するというより、暴走に近い展開。前半の稠密な構成と比べ、ちょっと強引すぎるかもしれないが、そこが古川流文体とも調和して一気に読める要因でもある。
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