峯島正行『評伝・SFの先駆者 今日泊亜蘭』(青蛙房) 今日泊亜蘭ってだれ? 本書は、10月に小部数出て、ネットでも話題となり、11月に2刷がでたという珍しい経緯の本。 今日泊亜蘭、日本SFの草創期から知られた名前であるのに、決してメジャーな存在にならず、その正体は謎。なんだか右翼の黒幕風なのに、実はアナーキストにして「体制」を極端に嫌うニヒリスト。高名な画家を父に持ち、多くの文人と知り合い、独学で学んだ外国語は7つとも8つとも。しかし、泉鏡花の影響を受けてから、日本独特の文化的背景を取り入れる。作品は数えるほどしかなく、斑気な気分屋…。 さまざまな作家の「SF幼年期」の思い出には、今日泊の名前が必ず出てくる(ペーパーバックをたくさん読んでいて、べらんめえ調の作品紹介が滅法うまかった云々)。ただ、その役割は今ひとつ定かではなかった。本書で、今日泊の業績を読むと、やはり黎明期のSF界への影響力の大きさが分かる。SFマガジンや宇宙塵以前の、既存の作家を束ねた最初期のSF組織「おめがクラブ」、その雑誌「科学小説」にまつわるエピソードは、後の歴史とのミッシングリンクでもあり貴重である。福島 正実の今日泊冷遇のエピソードなど、書きようは冷たいが事実だったようだ。 数少ない作品の存在感も無視できない。そもそも、強烈な批判精神を内在した、今日泊の作風を引き継ぐのは誰なのだろう。野阿梓の例えば『バベルの薫』あたりが近いのかもしれない。
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イアン・M・バンクス『ゲーム・プレイヤー』(角川書店) 表紙に惑わされてはいけない。そもそも、本書はスペースオペラではないだろう。 バンクスのSFは妥協がない書き方をするため、日常から非日常といった導入部などは設けない。冒頭100ページぐらいまで、本書の舞台である未来の異世界<カルチャー>が描かれる。結構読むのに苦しい。しかし、ゲームが世界自身でもある<帝国>に舞台を移して以降は、俄然面白くなる。<カルチャー>はある種の無階級社会。あらゆる人々が潤沢な資源の下で、自由に生活している。主人公は、各種ゲームの有名人だ。そんな彼に、<帝国>で行われているゲームへの参加が打診される。<帝国>は不平等で野蛮な社会構造を残した、<カルチャー>の対極となる世界だった。しかし、ここでのゲームには、彼らの存在/生存そのものが賭けられているのだ。 結末近くになって、<カルチャー>対<帝国>の理念の対決までが描写されているが、これはそのまま、理想対現実のデフォルメともなっている。とはいえ、作者の視点は、単純な社会批判にはない。帝国皇帝や酔っ払い大使、陰謀をたくらむ人々など、ゲームプレイヤーたちの多彩な書き分けにある。どの人物にもウラがあるので、そこが読み手にとってのポイントである。
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神林長平『永久帰還装置』(朝日ソノラマ) 『グッドラック』(1999)以来になるので、神林長平久々の長編といえる。 処女長編から続く特有の設定、たとえば「火星」「人工知性」「(永久追跡)刑事」といったおなじみの“言葉”によって物語は形成されている。 正体不明の脱出用宇宙艇から救出された男は、自分が刑事であり、秩序破壊者である犯人を追っているのだと称した。男が所有していたのは、千年も前の警察手帳と銃。そして犯人の名前は、火星の大統領と同じ…。 さて、ここで繰り返されるのは、
である。先にも書いたが、これらは神林の生涯1テーマに近い題材であり、どの作品も最後はここにたどり着く。本書では、後半3分の1以降、女性主人公が刑事である男に惹かれていく。たとえ変容された記憶や現実であっても、真実と見分けがつかないのは、この(奇妙な)ラブストーリーでも同様なのだと作者は主張している。
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瀬名秀明『虹の天象儀』(祥伝社) 瀬名秀明の中篇書き下ろし。五島プラネタリウム閉館のエピソードと、織田作之助(戦後まもなく亡くなった、『夫婦善哉』で知られる流行作家)を交えた、不思議な味わいの作品となっている。閉館するプラネタリウムに勤める初老の技師が、戦争で消失した天文館にタイムスリップ。さらに戦後の混乱期へと飛ぶ。注目は、カール・ツァイス製プラネタリウムをめぐる主人公の執着、作品中の表現では“思い”にある。織田作之助との接点もそこにある。 たとえば『ロボット21世紀』でも、瀬名秀明は、むしろメカニズム開発に携わる研究者の“思い”に興味を抱く。現状のメカ中心のロボットブームや、人工知能(死語?)の方向性に疑問を感じるコアなSFファンの感性とは、ちょっと違うかも知れない。 とはいえ、この「思いが残る」という概念は、最初期の『パラサイト・イヴ』で書かれた、ミトコンドリア20億年の残留思念や、『ブレイン・ヴァレー』で書かれた精神のミームに通底する。著者にとっては、“信念”と呼べるほど重要な観念なのだろう。
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山田正紀『日曜日には鼠を殺せ』(祥伝社) とある独裁国家で、統首の誕生日に行われるゲームでは、囚人から選ばれた数人が、ある種のサバイバルレースに参加させられる。迷路を抜け、カートに乗り、クレーンを使って、ついには奈落の谷を越えたものだけが、生きて放免されるのだ。もちろん、そのような例はかつてない。 単純な連想をするなら、本書は『バトルロワイアル』に近い。登場人物たちにそれぞれクセがあり、ニュースキャスター/テロリスト/公安/主婦/自閉症児と、極端に描写された人間模様がまず目立つからだ。しかし、もう1つ、作者がデビュー以来得意としてきた、ゲーム小説風設定があり、本書の場合、そちらが主体といえる。各章の題名でも明らかなように、ネズミの迷路実験と、それを出し抜く登場人物たちのゲーム性が重点なのだ。ただ、原稿用紙で200枚足らずの分量でそこまで盛り沢山に入れることは難しく、かなり苦しい終わり方をしている。
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田中啓文『星の国のアリス』(祥伝社) 田中啓文の、SF設定で書かれたホラー風ミステリ。いつものように設定からして人を食っている。宇宙船の蜜室殺人で、犯人は吸血鬼とくれば、なぜそこまで類型的な設定を選ぶのかと、疑問を感じるほどだが、実際のところ、読者の気にはなるまい(というか、気になる暇もない)。 たとえば、飲んだくれの船長、追従者の船員、老いぼれの機関士、場違いの高慢な美女、得体の知れない作家、睾丸そっくりの宇宙人、旧式のロボットと、登場人物がやたらに多い。主人公のアリスにしても、清純な少女という訳ではない。彼らは次々と殺されていく。誰が犯人なのかを、人物の奇矯さと話術で持たせている。先の山田正紀より、なお短いのに、こちらはちゃんと終わっているのは立派。
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北野勇作『ザリガニマン』(徳間書店) 2001年度日本SF大賞受賞作家の、受賞作『かめくん』と設定を同じくした世界。デュアル500円文庫は、祥伝社の400円文庫よりもやや長くて300枚になる。奇妙な工場に勤める主人公が、“人類の敵ザリガニマン”と同化してゆく様子が描かれている。 主人公は、生物の合成を商売にしている企業で、ある種のオペレータをしている。生命合成には危険が伴う。汚染されれば、自分の体に変容が起こるからだ。何のための仕事なのか、誰からの仕事なのかも明かされない――という設定だが、企業の描写は中小企業そのまま。主人公たちが了解しているのは、おもちゃ会社に巨大ザリガニを作ること。しかし、記憶の欠落や異様な幻想が紛れ込む中で、彼の意識は“戦争”へとつながっていく。 お得意の離散的文体で書かれたもの。「現実から非現実」は、よくあるスタイルだが、北野勇作の場合、これらはシャッフルされて存在する。この手法については、かねてより評価が分かれる。 さて、SF大賞は、これまで対外的な顔と、SFジャンルに向いた顔との2面性を持っていた。たとえば、第1回『太陽風交点』は、SFコアな部分の評価だろうし、昨年の『日本SF論争史』もSFジャンルにとっての意味を考慮したものだった。対して『吉里吉里人』や『アド・バード』は、むしろ外を内に取り込むもので、外部読者を意識した動きだ。これらは、結構政治的(と書くと悪印象になるので「戦略的」と言い直してもよい)な色合いが強いように思える。新人賞はともかく、概して賞にはそういう面があり、必ずしも悪いことではない。選評はまだ公にされていない。今年はどのような趣向で選ばれたのか、興味がわく。
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菅浩江『アイ・アム』(祥伝社) I (am) Robot.ではなく、I am. なのである。 アイ・アムで終わる言葉には、どういう意味があるのか。端的に書けば、本書のテーマそのものがこの表題「私自身」にある。 新型の介護ロボットが、外科病棟、小児科病棟、ホスピスと経験を深めていく中で、自身のアイデンティティを知る物語。ロボットの一人称で書かれる、という時点で、本書がチューリングテスト云々の人工知能の問題を主眼としていないことは明らかだ。主人公(ロボット)は、自分がロボットであり、人間の下僕であることを認識している。しかし、さまざまなほころびから、感情や思い出の切れ端を甦らせ 、答えを見つける。不思議なことに、無数のSFでグロテスクに書かれてきた本書のような設定が、菅浩江の目を通すと全く異なったものに映る。この認識の変容こそが 、本書最大の価値であるといえる。
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菅浩江『夜陰譚』(光文社) 2001年度日本推理作家協会賞受賞作家の、受賞第1作( オリジナル・アンソロジイに収録された短編を中心とした作品集)である。 ホラーを中心としているが、幻想小説を目指したものだという。本書の主人公はすべて女性である。そしてまた、人称はともかく、自分自身に語りかける内省的な物語の集成といってもいいだろう。
女の狂気という表現があるが、本書の場合、それは実は“狂気”ではない。 それぞれの設定で生きる主人公たちに対する、作者の共感である。ホラーといいながら、冷酷さや残虐さが感じられないのも、さまざまな生き様を作者が否定しないからだ。1つ1つの言葉の間合いや音感も絶妙。多作とはいえない菅浩江だが、独自の頂点を極めつつある。
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谷甲州『ダンピール海峡航空戦(上下)』(中央公論社) 「シリーズ覇者の戦塵」の第10作目(18冊目)に相当する。 このシリーズの最大の特徴は、どこにも“超兵器”が存在しないこと。また一方的な勝者は存在せず、片方が大勝利を収めることもない。そのため、現実の戦史に存在しなかった(しかし、ありえたかも知れない)ロケット兵器や、 (日本軍の)海兵隊、大型工作機械を保有する工兵隊などは、登場までの背景を説明するだけで数巻を費やしている。とはいえ、18冊ともなると、積み重ねられた架空の事実も相当な数に上り、着実に歴史に影響を与えつつある。ラバウル周辺を巡る戦争でも、山本長官の撃墜死は起こり、ニューギニアの敗戦はあるが、ガダルカナルの敗退はない。主役の陸軍戦闘機「飛燕」(上巻の表紙)も、本来ならば、この戦争には間に合わなかったとされているもの。 戦況は1度や2度の奇跡では逆転せず、1人の英雄ぐらいでは意味がなく、運の良し悪しではないが故に、架空戦記は、本当はここまでのパワーを要するのである。という意味でも、本シリーズは、ますます存在価値が高まってきた。 架空歴史部分の動きが気になる。
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田中啓文『ベルゼブブ』(徳間書店) 『水霊 ミズチ』(1998)に続く、著者の長編ホラー第2作、枚数も1000枚を超える。前作は1200枚だったので、長編はとにかく大作になるようだ。 遺跡に封印されていた悪魔、“蝿の王”ベルゼブブが蘇る。完全復活のために、都内に複数の“地獄”を現出し、犠牲者の怨念を凝集する。主人公は昆虫学者の両親を持ち、幼いころのトラウマで虫を極端に恐れていたが、夢魔による受胎を体験する。この子供の正体は何か、そして生まれ出る悪魔との間で何が起こるのか。 作者お得意の生理的嫌悪(虫の襲撃、さまざまな虐殺場面)と、隠れキリシタン、悪魔崇拝にあこがれるロックスター、悪魔教団など、滑稽な登場人物を配してのハルマゲドンを描く。 牧野修の言葉による精神崩壊と対照的に、人体の崩壊を主体とした表現が際立つ。何れにしても、特徴を存分に発揮した力作といえる。ただ、ギャグ(ダジャレ)とマジとの境界線が微妙で、この枚数の中で、その分布が安定していないように思える。つまり、終幕に向かってお話が盛り上がっていく中で、ここは笑ったものかマジなのかが分かりにくい(という点こそ、作者の狙い目なのかも知れません)。
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日本SF作家クラブ編『SF入門』(早川書房) 「SF入門」とあるが、本書はSFの読み手に対する入門書ではない。あとがきに「SFをいかに創るか」に焦点を当てた、とある。そういうことは帯にも書かれていないので、少々不親切ではある。とはいえ、「作家志望者だけに意味がある本」とまではいえないだろう。 さて、かつて巽孝之の『ジャパノイド宣言』(1993)が、石川喬司の推理作家協会評論部門受賞作『SFの時代』(1977)を意識したように、本書は元祖福島正実の『SF入門』(1965)に準拠している。 SFの歴史解説は、元祖版が50年代までだったものを40年分追加、地域も拡大した。基礎教養であり、有用ではあるものの、もう少しリファレンスを完備する必要がある。既訳か未訳かの区別もつかないからである。 昔の『SF入門』にも、「ファンタジーの退屈」という違和感漂うSF批判が混じっていて、ワサビを利かせていた。本書では、それが3連発もある。「SFはフィクションだ。実践するな」 、「SFは時代遅れの(ヘーゲル的)哲学だ」、「SFは宗教のようなところがダメ」。まあしかし、SFはアングラで若く、大人はその真価を知らず、世界の秘密を説明できる文学はこれだけ、と思っていた時代のほうが幸せだったはず。いまやSFはどこにでもあり、オッサンが平気でそのネタを使っていて、実践すれば犯罪者、と分かれば盛り上がるまい。 サブジャンル解説と作品紹介は、内容も対象読者もさまざまといった印象 。あらすじ紹介もあるし、(知っている人向けの)パロディや作品と関係のない記事まで雑多。執筆者のネームバリューで成立しているものも多い。「自らを形作った名作を語る」という趣旨が、十分伝わっていないようである。そもそも、どんな作品だか分からない記載もある。内容が公平だった『総解説 世界のSF文学』(最終1990)は絶版になって久しいので、早川関係の翻訳書に偏るけれど、『新・SFハンドブック』(2001)あたりを読んで、知識を補完する必要がある 。 ベストアンケートは、かつて「SF宝石」誌が1979年に行ったアンケートや、「SFマガジン」誌が1998年に行ったアンケートと、ほとんど変わらない結果である。 79年のアンケートでは、参加者の平均年齢は24歳(従って1955年生まれ)だった。98年のほうは年齢に関するデータがない。本書のアンケート参加者の名前は不詳ながら、執筆者の平均年齢がおおよそ45歳であるところを見ると、宝石当時の参加世代が、そのまま持ち上がったものと推定できる。となれば、驚くような結果ではない。たぶん、マガジンアンケートも、平均年齢がマイナス3されるだけで同じだろう。 そもそも、今の10-20代前半以前の世代にとって、これら作品はわれわれの世代の、夏目漱石や島崎藤村あたりに相当するのではないだろうか。読んだら面白いかもしれないが、なんとなく権威主義的でイヤ、しんどそう、というような。今の世代には、森岡浩之や上遠野浩平の方がベストなのに違いない (少なくともウチの中学生は、星新一にも小松左京にも関心を示さない。まー例外かもしれませんがね)。 元祖『SF入門』は、36歳の福島が無からわずか半年で作り上げた。本書の編集委員は、それより5-10歳前後年上、本書も2年をかけて作られた。情熱から熟成へ、良し悪しはともかく、中身から受ける印象も、当然異なってくるのである。
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