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『フェアリイ・ランド』が紹介されてから既に6年が経過しているが、本書は(クラーク賞やキャンベル賞受賞作ながら、我が国では売れなかった)前作とは、印象が異なる作品である。英国生まれのニュー・スペースオペラ作家らしく、単純さ(スペースオペラ)と複雑さ(さまざまな文明と人種・種族)の輻湊した雰囲気が感じられる。 赤色矮星の軌道に浮かぶ辺境の惑星、そこは本来生命が生まれるはずのない世界だった。しかし、百万年前に何者かがテラフォーミングし、別世界の生き物が混在する環境となっている。エイリアンとの遭遇後、戦争状態に陥った人類は、ここに敵種族の痕跡がないかを調査している。主人公は日系の共感覚者で、異生物の中に潜む知性を探り出そうとしていた。しかし、最前線を探査中事故で移動手段を失い、はるかな目的地まで徒歩で踏破することになる。 シェイクスピアを引用する日系人(もっとも、日本人に関わる描写はややステレオタイプ)、敵は明確な姿を見せず、地球人の来訪とともに姿を見せる巨大建造物には、謎めいた文字が刻まれるばかり。地球連邦、宇宙軍、異星人との戦争、科学者と軍人との対立、共感覚者への差別意識、異星文明起源の秘密と、類型パターンのみでできているように見えて、登場人物の性格描写も独特、お話は予測可能な展開とはならない。ただ、結末はちょっと強引かも。
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『クリスタルサイレンス』(1999)でSF年間ベスト(『SFが読みたい!2000年版』)第1位に選ばれた作者の、2000枚に及ぶ書下ろしSF長編ということで、期待が高まる。確かに99年以来、『蛍女』(2001)や『ストーンエイジCOP』(2002-04)などは書き継がれてきたが、本格SF作家というニュアンスはやや薄れていたからだ。 ハイドゥナンとは南与那国島(実在しない架空の島)のこと。かつて圧制に苦しめられていた奄美−沖縄の人々が夢見た、伝説の楽園を指す。2032年、ムヌチと呼ばれる巫女の家系に生まれた与那国島の娘と、東京に住む大学生とが夢の中でお互いを知り合う。その体験の共有は次第に強まっていく。彼らには常人以上の共感覚能力があったのだ。一方、沖縄近海では深海に異変が生じていた。大深度の地下で何かが起こっている。既存の理論や政府機関だけでは危機を救えない。“隠れマッドサイエンティスト”という名前で集まった異端の科学者たちは、ムヌチの女性とともに沖縄の救出に立ち上がる。 作者は、宇宙よりも海が得意分野という。本書では、森や環境そのものに意識があるとする、ある種のガイア理論がもう少し壮大かつ明瞭に描き出される。そのため、登場人物の一部は『蛍女』から30年後の姿で描かれているし、ある意味、同書の続編とも読める。物理的な地殻変動/日本民族を主眼にした『日本沈没』(1973)と対比されるが、生物的要因/沖縄固有文化にこだわった本書は十分にユニークである。 結末が谷甲州『パンドラ』と同じなのは偶然だろう。今の極東情勢が反映されているようだ。ただ、永続性のない現在の“政治”を設定に使っても、科学以上に早く古びてしまうので少しもったいない。
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あいにく評者は「さいたまチェーンソー少女」(SFマガジン04年9月号)くらいしか読んでいないのだが、『よくわかる現代魔法』シリーズで知られる作者の新作長編。WS時代からのプログラマらしく、SKK(Emacsを使っているのかどうかは知らない)という単語変換システムで執筆しているようだ。このシステムは、変換のコントロールが入力者側に強く依存する。ある意味、本書の性格の一端を表しているのかもしれない。 主人公はリアル世界では目的もなく大学に通うだけの怠惰な学生。しかし、バーチャルなネットワークゲームの中では、ベストを争うカラテ使いである。ある日、彼はゲームの実力者を次々に襲う辻斬りの存在を知る。やがて、リアルな世界で出会った2人の女性と、ゲーム世界とが奇妙な係わり合いを持ち始める。 「さいたま…」は、恋人を転校生に取られた少女(現実)が、チェーンソー片手に殺戮を始める(非現実)。本書の場合、現実と非現実の間はゲームと新宿なので、もう少し明瞭に分離されている。ただし、本書でリアルなのは、もちろん格闘技系のゲーム世界の描写で、大学のある新宿周辺は、はるかにふわふわと存在感が薄い。“青い猫”を探す女友だち、ゲームセンターで出会う水商売らしき女との会話は、異世界ファンタジイのようだ。ゲームが現実認識の“接点”であるという意味で、スプラッタホラーが主人公の認識の一接点となる「さいたま…」と、同じ構造を持ったお話なのかもしれない。
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小川一水の処女中編集。もともとデビューが1993年で10年以上のキャリアがあるが、本書に収められた作品は古いものでも2003年の近作である。著者にはまだ数編の短編があるので、これらもそのうちまとめられるのかもしれない。 ギャルナフカの迷宮(2004):政治犯が投獄される巨大な地下迷宮、その目的とは何か 老ヴォールの惑星(2003):木星型惑星に棲む巨大な知性体が知る、世界破滅の予兆 幸せになる箱庭(2004):地球の危機を救うため、異星人とコンタクトを試みたチームの視たものとは 漂った男(書下ろし):表面がくまなく海で覆われた惑星で遭難した男の運命 それにしても、本書から感じ取れるのは、著者の“あくまでもポジティヴ”な姿勢である。「ギャルナフカ」では、食糧が最低限満たされた地下社会で、芸術と知識があれば、地上の社会体制がなくとも人々は生きていけると説く。「老ヴォール」では知識の集積が種族の危機を救い、「幸せになる箱庭」は人の感知しえる現実の意味を問い、「漂った男」は漂流する男が何を糧に生きていくのかを問う。 常識的な見方では、芸術や知識が人間の行動や社会を律する規範になるとは思えないだろう。同じシチュエーションでも、利害に基づく政治的な要素が加わるため、こうは動かないはずだ。政治と聞くと一般人は関係ないように感じるけれど、たとえば“近隣住民の苦情”も立派な政治要素である。しかし、著者は人間の持つ善意を信じているようだ。理性を持って、待ち続け/生き続けることで、道は必ず拡がると、本書の各作品は主張している。小川一水を読む場合、このポイントを肯定的に読むか、非現実と否定するかが肝要になる。
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