2008/6/1
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文芸社は自費出版で有名だが、そこからSF作家の翻訳が出るのは珍しい。個人出版とはいえ、版権も取られていて海賊版ではない。本書はマイクル・ビショップの1短編(100枚に満たない)を単行本化したものである。
ショッピングモールの主任を勤める主人公のところに、セールスマンが訪問する。しかし、主人公の気を引いたのは、セールスマンの売り物ではなく、その男が失われた恋人に似ている点だった。男には何の目的があるのか。
この作品は1978年に発表された後、各種のホラー・アンソロジイに収録されている。同年の世界幻想文学大賞候補作にもなった。訳者はプロフェッショナルではないので、日本語がこなれているとはいえないものの、希少価値をまず評価すべきだろう。ただし、訳題にはちょっと問題あり。
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さまざまな文学賞を受賞したアメリカの作家ブロックマイヤーの長編。ネビュラ賞の候補になるなど、SF界からも注目される作家だが、ケリー・リンクらと同様、その作品はジャンルを意識しなくとも読める。日本初の紹介はSFマガジンだった。海外の短編を毎月翻訳するのはSFかミステリくらいなので、まずこういった作家はジャンル専門誌で読めることが多い。
死者の街がある。そこには死んだものたちが住んでいるが、生活は生きていたときとどこか似ている。しかし、ある時大量の死者たちが消えてしまう。元の世界では、新種のウィルスにより世界が壊滅したという。死に絶えた世界では、一人の女性が南極の氷原で基地を目指して彷徨っていた。
スリップストリーム(傍流)、スプロール・フィクション(無秩序に拡散した小説)という言葉は、20年前から始まった文学の“拡散”を説明する表現である。SF/ミステリ/ホラー何でもOK、すべて混ぜ合わせ可能になった。主流があって傍流がある/中心があって周辺がある、というわけだが、最近はSFからの支流が逆に文学ジャンルで評価される。本書も、パンデミックで滅びる現実世界と、死者の国という幻想世界とが密接に関係するものとして描かれる。リアル世界で生き残った女性(なぜかコカ・コーラのプロジェクトで南極に派遣される)と、彼女を知る多くの人々が出会う死者の街との対比(生きている人間の“思い出”が死者の命なのだ)という、科学と非科学の対照が何とも不可思議。
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2008/6/8
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訳者古沢嘉通による、日本オリジナルのベスト作品集。長年マイナーな作家に止まっていたプリーストも、映画化の話題から注目され、年間ベストに顔を出すようになった。過去の埋もれた作品も再刊が進んでいる。
限りなき夏(1976):テムズ川に架かる橋からは、時間凍結された19世紀初頭以来の“活人画”が見渡せる
青ざめた逍遙(1979):時間を超えられる公園を巡って、大人に成長する少年が見かけた少女の正体
逃走(1966):戦争の影が忍び寄る世界、上院議員の前に少年たちの集団が立ち塞がる
リアルタイム・ワールド(1972):隔絶された宇宙基地で、情報操作により隊員たちをモニターする主人公
赤道の時(1999):赤道上空にある時間の渦の中は、目的の時間をめざして無数の航空機が旋回している
火葬(1978):異文化を持つ島の弔問に訪れた男は、人妻からあからさまな誘いを受ける
奇跡の石塚(1980):10台の頃、島の叔母の家で受けた忌避すべき思い出を追体験する主人公の葛藤
ディスチャージ(2002):3000年に渡る戦争から逃れようとする兵士の体験した群島の出来事
66年のデビュー作「逃走」から、主に70年代の作品を収めている。夢幻群島(ドリーム・アーキペラゴ)シリーズの最新作「ディスチャージ」や「赤道の時」が比較的新しいが、これは特別に書き下ろされたものなので、全体のバランスを崩すものではない。80年代以降の作者の活動が長編に移っていった関係で、もっとも作品数が多かった30年前に書かれたものが中心になる。「赤道の時」以下の4編は、夢幻群島を舞台にした連作の一部だ。
プリーストの日本での紹介は『スペース・マシン』(1976)→78年翻訳、『ドリーム・マシン』(1977)→79年、『伝授者』(1970)→80年、『逆転世界』(1974)→83年という順番だった。当時は、『逆転世界』の設定(巨大都市が“最適線”に沿って移動する)が強烈で、ハードSF/数学SFの一種と思われていた。しかし、実際のプリーストの関心は、むしろ「リアルタイム・ワールド」に見られる“現実と幻想の相関関係”を描くことにある。改めて本書を読むことで、作者の意図が分かるようになる。
それにしても、本書からは少し変わった印象を受ける。一つは、まるで自分の既刊本のように冷静に編集意図を述べる、プリースト自身が寄せた日本語版の序文。もう一つは、本書が安田チルドレン(安田均による海外SF紹介に影響を受けた世代を指す)の産物と説明する訳者あとがき。現実なのか虚構なのかを問う著者の作風から、本書がまるで架空のオリジナル作品集のように思えてくるから不思議だ。
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2008/6/15
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戸梶圭太の著作を取り上げるのは初めてだが、ちょっと変わったミステリ作家として、既に10年のキャリアと20冊以上の著作がある。初期の作品『溺れる魚』(1999)など、映画化もされたものも多い(自ら映画も撮る)。SF的なアイデアが含まれ、主人公たちがハイテンションで暴れる展開が特徴。
6層からなる世界。無数の異種族が混在し、極端な貧富の差も生まれている。主人公はスラムに生まれた女性。愛犬(知能を持った犬)、中年童貞の叔父と組んで違法な仕事/事件をこなしていく。海賊放送局根絶、老婆殺人事件の犯人探し、幼なじみの救出…と順調に進みそうに見えた生活も、友人の裏切りで頓挫、ついに宇宙刑務所に連行されることになるが。
すごくSF的なようで、設定はチープにできている(この雰囲気は、ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』の無責任さに少し似ている)。ほぼ現代と同じようなコンビニや犯罪者が異星人と混在し、そもそもこの世界そのものが「あり得ない」。しかし、軽薄な主人公の活躍をメインにした場合、これほどふさわしい設定もないわけで、人工的であることが十分プラスに働いている。ラノベ風だが、この作者にそういったレーベルは似合わないだろう。
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2008/6/22
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2005年の世界幻想文学大賞受賞作(短編部門の「沈んでいく姉さんを送る歌」と、短編集部門の本書)。作者はオーストラリアの作家で、SFマガジンに短編が1作紹介されたのみ。
沈んでいく姉さんを送る歌:処刑のため、タールの池に沈められる姉を見守る家族たち
わが旦那様:森の奥、ならず者の集団と踊り明かす奥様を追う旦那様
赤鼻の日:道化師たちが集まる街で、彼らを次々と狙う2人のスナイパー
愛しいピピット:脱走した象の群れは、かつての飼育係を探して街へと侵入する
大勢の家:共同生活が営まれる吟遊詩人の家で、神聖視される“家”の正体とは
融通のきかない花嫁:教会へ向かう花嫁の一人に降りかかる災難の数々
俗世の働き手:死を迎えつつある祖母のために、天使を見つけ出す旅に出た少年
無窮の光:故人の遺言に従って、汚染された街への埋葬旅行に出た親族たち
ヨウリンイン:のけ者の少女が見た、破滅を呼ぶ生き物の到来
春の儀式:山上に登り、呪文を唱えることを命じられた少年の得たものとは
著者はこれまで、色を表題にした短編集3冊を出している。白(White Time,2000)・黒・赤(Red
Spikes,2006)の2冊目が本書だ。通勤電車の中で書かれたという書き下ろしばかりで、1つのビジュアルなイメージから紡ぎだされた作品が多い。だから、理に落ちたものより、感性に訴えかける小品が多数を占める。タールに沈む姉、森の奥で踊る奥方、狙撃されるピエロ、牢獄を襲う象の群れ、教会で祝福される花嫁の集団、野生の天使、山上の呪文が生み出す光景…と、説明のない、しかし印象的な場面が作品を形作っている。本来、ワンシーンがいくら優れていても、それだけで短編は成り立たない(フィクションの説得力が出ない)。マーゴ・ラナガンは登場人物の描写で、その特異な想像のシーンを、ありえたかもしれない現実に変換してくれている。
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2008/6/29
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クラーク&バクスターの共作<タイム・オデッセイ>3部作の第2弾である。“眼”が創造したモザイク地球を描いた前作から、舞台は一転して近未来の地球−宇宙へと変わる。
さまざまな歴史をパッチワークのように縫い合わせた世界「ミール」から、1人主人公だけが元の時空に帰還する。2037年の地球は、しかし、未曾有の危機に襲われようとしていた。太陽から吹き出た電磁嵐が地球を襲い、あらゆる電子機器を狂わせるのである。ネットワークで結ばれた脆弱な現代社会は、ひとたまりもなく崩壊する。しかも、それは単なる予兆に過ぎなかった。地球を焼き尽くす太陽嵐が、わずか5年後に迫っていたのだ。人類は嵐を防ぐため、莫大な資源を費やし巨大な“盾”を建設しようとする。
晩年のクラークには数人の共作者がいた(『時の眼』のレビュー参照)。その中では、バクスターがお話のスケールアップという点でベストのように思える。特に月、ラグランジュ点、火星を描き出した本書は、両者の魅力が重畳された秀作だろう。
さて、90歳を迎えたクラークが亡くなって(3月19日)、もう4ヶ月近くになる。その間、SFマガジンでは2回にわたって追悼特集が組まれた。特に2回目の特集号は、増大号で値段も高いのに、売り切れが出るくらい注目されている。専門誌を買うコアなファンにとって、クラークの位置付けには特別な思い入れがあるのだ。
まず、第1にクラークは科学者ではなく技術者だった。だから、理科系の素養があれば(例え、学校や仕事が文科系であっても)、基本アイデアが理解できる。20世紀後半は技術の世紀だったから、工学に注目する人は多かった。しかし、先進国ほど、技術に対する憧れは早くに薄れる。収入面から見ても、自分が技術者になりたいと思うほどの魅力がなくなったからだ。クラークを好むSFファンの多くは技術者である。社会的にマイナーな技術者(人口の10〜20%)とマイナーなSFファンの立場には、苦労の割りに報われない階層という共通点があり、爵位まで得たマイナーチャンピオン=クラークの存在は特別に映る。だからこそ、クラークの死は、20世紀の工学が生み出してきたさまざまな派生物(SFもそうだ)にとって、終焉/新たなる始まりを意味するように感じられる。まさに、死と誕生を象徴する『2001年宇宙の旅』のスターチャイルドなのである。
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