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新訳版銀河ヒッチハイク・ガイドシリーズの第4作目にして、本邦初訳の長編。新潮文庫版の旧訳はほぼリアルタイムに刊行が進んでいたものの、当初の3部作完結以降ストップしてしまっていた(といっても、もう21年前のことだ)。映画化をきっかけにして、今度は5部作全てが出るようで喜ばしい。 主人公が遥かなヒッチハイクの旅を終え、最後にたどり着いたのは、宇宙バイパスの立ち退き工事のため“撤去”されたはずの地球だった。何もかも変わらず、ただ留守にしていただけのように見える故郷のありさま。そこで、運命の恋人と出会った彼は、謎を追求しようとするが。 評者などは、まさに20年ぶりでヒッチハイク・ガイドを読んだ。本書は舞台の大半が地球で、お話の筋も「ラブストーリー」ではあるものの、いかにもアダムスの作品という雰囲気は変わらず読み取れた。もともとアダムスのこのシリーズ自身、時代を超越したセンスで貫かれていたせいで、ほとんど古びていない点も評価できるだろう。
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第7回日本SF新人賞受賞作(加筆修正版)。作者は1965年生まれで、大阪豊中市出身。石森章太郎のサイボーグ009を思わせるということで、話題になった作品。 バブルが崩壊しなかった日本は、隕石による東京壊滅からも立ち直り、巨大な塔に新東京を再生していた。一方アメリカは無敵のサイボーグ部隊を擁し、世界に抑止力を利かせていたが、それを操るのはハリウッドのメディア産業だった。その彼らの前に、日本が開発した究極のアンドロイドが立ち塞がる。 発想は面白い。しかし、妙に読みにくい。明らかにコメディ(例えば、政策を御神籤で決める政府)と思える内容で、唐突な内面描写(例えば、サイボーグたちの生い立ち)が書かれている点などに、違和感の要因があるのかもしれない。書き直しでも、その点は払拭しきれていないようだ。
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作者は1964年英国生まれで1986年頃から短編を発表、2003年の本書が初長編となる。『4000億の星の群れ』のマコーリイや、『啓示空間』のアリステア・レナルズと同様、新しいタイプのスペースオペラを書く英国作家でもある。 辺境の恒星系に築かれた新共和国の植民星に侵略者が現われる。新共和国は直ちに反撃艦隊を派遣するが、彼らは必勝を期するあまり、侵してはならない戒律“過去改変の禁忌”を破ろうとしていた。 ちょっと『ストリンガーの沈黙』を思わせる。ただ、林譲治は人間対人間のお話だったが、本書の敵はもはや人間とはいえない。この世界では究極のAI(人工知性)エシャトンにより、人類は再編されている(シンギュラリティ後の世界)。遥かな銀河空間に分散させられ、原初から文明を再興していた。新共和国は東欧(旧ロシア)の帝政を元に、圧制を布いている。植民惑星では、それに対抗してソヴィエト(評議会)が結成され、反抗を起こそうとしている。そこに、肉体を捨て(情報化された)人類の末裔“フェスティヴァル”が接触するのである。主人公は、地球から派遣された女性国連査察官と民間の宇宙船技師で実は…、というオチも付いている。類型のパロディのようで、複雑な伏線が絡み合うなど、思わぬ切り口を見せてくれる。
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SF翻訳の世界では、知らぬ者はいないという著名な翻訳家の初エッセイ集。例えば、ヴォネガットの大半は、初期作から最新作まで著者が翻訳しているし、ディックの主な作品(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』、『ユービック』等)も浅倉訳が定番である。他でも、ハリイ・ハリスン、ジャック・ヴァンス、R・A・ラファティ、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、ジョージ・アレク・エフィンジャー、コードウェイナー・スミス、ヘンリー・カットナー&C・L・ムーアなどマニアックなものまで含めて、SFの真髄を極めた作家たちの熱心な翻訳者でもある。これら作家に共通するのは、過度にコアではなく、プロフェッショナルなエンタティメントの語り手という点だろう。 SFに関係した翻訳家が書いたエッセイでは、宮田昇『戦後「翻訳」風雲録』などがある。1928年生まれの宮田昇(内田庶)と浅倉久志は、たった2歳しか離れていない。しかし、本書には宮田の著作で書かれていたような、戦後秘話的な逸話はほとんど書かれていない。そこが本書を類書と異なった味付けにしている。あくまでも、浅倉久志の作品なのだが、どこか別に作者がいて、その解説を読んでいるような感覚に囚われる。しかし、考えてみれば、それこそが浅倉流、翻訳SFという特殊なジャンルを黎明期から育ててきた著者のスタイルなのだ。最近の、紹介なのか自己主張なのか良く分からない、独善的な“解説”を読むたびに、著者の客観的で公平な書き方が際立って見えるのである。
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椎名誠の未来史もの。1990年に出た『アド・バード』、『武装島田倉庫』、『水域』や97年の『みるなの木』等、最終戦争で崩壊した未来の(あるいは並行世界の)日本を舞台にした、ある種のSFファンタジーである。この共通設定の作品は、これまでも断片的に書かれてきたが、本書は雑誌連載をまとめた連作長編。 3人の退役兵が、スクラップ寸前の砲艦を使って海賊をはじめることを思いつく。戦後の混乱が続き、十分な交通機関がない島嶼部で、物資を運ぶフェリーや漁船を襲うのだ。しかし、彼らの前にはまともな相手は現われない。瓦礫寸前の施設や廃墟で、奇怪に変形した人間や機械が潜んでいるからだ。 不思議な語感で表現される人名(灰汁、可児、鼻裂)、地名(長恨島、汗馬諸島、巣熨斗島)や固有名詞(ツガネ、泥豚、カルタ船)は椎名風SF世界特有のものだ。このような影響を別の作家の作品に認めることもできる。とはいえ、今回の作品は、もともとの濃密な異世界描写から比べると、ちょっと小さくまとまりすぎているかもしれない。
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『日本沈没』(1973)が書かれて33年がたった。時代は1周期を経て、『日本沈没』がリメイクされ、『日本以外全部沈没』と“競作”になるというのも、なんだか歴史の繰り返しのように思える。これで来年2作が星雲賞をとったら、MIYACON(1974)の再現になるけど、まあそれはないだろう。 巨大地震の予言書と勘違いされる『日本沈没』ではあるが、もともとの構想は「民族としての日本人を、その揺り籠(日本列島)から追い出したらどうなるか」だった。国を追われた民族は、歴史上無数に存在する。一億人近くの21世紀の流民はどのような形で存在しうるのか。本書に至って、その主題が始めて検証されるのである。 日本沈没(原作では197x年)から25年後、国連から立ち入り制限区域に指定されている、かつての日本列島があった海域で国際紛争の火種が生じる。残された岩礁に恒久基地を据え付けようとする日本に対し、中国の艦艇が干渉してくるのだ。21世紀初頭、脱出した邦人は各国に入植し、成功した地域も多かった。しかし、戦乱で離散する入植地や差別から生じる軋轢など、民族の統一性は徐々に失われつつあった。その中で、日本の首相は、各国に分散された日本人の再統合を宣言する。 小松左京の場合、壮大な構想であるほど完結する確率が低下する。『日本沈没』もそうだし、『虚無回廊』も完結しなかった。その設定をシェアして、第三者がプロジェクトチーム形式で完結させたのが本書。森下一仁や谷甲州らとのコラボによるものだ。スタートから3年、小説は谷甲州によって1年がかりで書かれた。ありがちな国際謀略小説とならず(日本人以外の主要な人物は描かれない)、ラストに日本から地球規模のお話へと展開していく点は、単純な民族主義テーマを凌駕するSFならではの視点といえる。
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長編としては、全5巻の『引き潮のとき』(1995)、や『カルタゴの運命』(1998)以来ということになる。このあと作者は『日課・一日3枚以上』
(2000-2001)に収められた作品に専念するようになり、その経緯は『妻に捧げた1778話』(2004)に凝集されている。本書は、そういう意味での8年間を超えた、新しい眉村卓を象徴する作品となっている。 定年を間近に控えた大学の客員教授である主人公に、かつての教え子から奇妙な手紙が届く。教授はもともと作家であり、教え子は自分の書いた異世界ファンタジー世界に念力で転移するというのだ。念力は本当に作用し、教授もろとも転送は成功する。そこは願望だけで出来上がったご都合主義的な世界だった。 主人公は黒いズボンに捲り上げたYシャツスタイル。大学教授で妻を亡くし、世間から正当な評価を受けていないという不満を抱いている。そのフラストレーションが、異世界の中で不思議なパートナーを呼び寄せる。人語を解する猫もどき(翼はないが“空飛び猫”)と、旧式ロボット(まさかこれがXXXXとは)。著者も認めるように、これらは作者や既存の作品の、デフォルメされた分身なのだ。彼らと主人公は力を合わせて、異世界の暴力に立ち向かうのである。眉村卓は筒井康隆と同い年であるが、この二人が70歳を契機にして、ともに枯淡の境地からは対極にある“老人小説”を書いた点は注目に値するだろう。
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さて、筒井、眉村ときて、関西最後の巨頭小松左京の(聞き書き)自叙伝が本書である。ここでも明らかなように、著者は小説に囚われず、あらゆること、 高橋和巳らとの文学活動→ 漫画家/漫才台本作家→ SF界デビュー(『日本アパッチ族』)→ 比較文明論/京大人脈(『果しなき流れの果に』)→ 万国博プロデュース/ラジオ出演→ 未来学の提唱→ 『日本沈没』→ 映画プロデュース(『さよならジュピター』)→ 花博プロデュース(『虚無回廊』)→ 阪神大震災の体験と取材 を手がけてきた。この間のできごとは、著者のさまざまな著作でまとめられてはいるのだが、あまりにも多岐に渡るため、よほどの小松マニアでもないかぎり網羅はできない(本にまとめられたものは、オンデマンド全集で読むことができる。ただし、完結までには10年近くがかかりそうだ)。「オッチョコチョイ」と自身で書いている通り、若いころの活動は際限がなかった。また、それこそが小松流だった。 しかし、文書に残らない(アンドキュメンテッドな)大半の活動は、拡散したまま見えなくなりつつある。新書の250枚という短い分量で、全貌に行き着くのは、そもそもが無理である。もっと詳細な、本当の自叙伝が欲しいところだ。
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6年前に著者の作品がホラーとして出版されたことがある。主な活躍の舞台は文芸誌であり、本来ならば純文学の範疇で出版されるのが順当だろう。ところが、本書でも顕著なように著者の手法はSF的なのである。 希望ホヤ(2002):幼い娘が罹患した癌に効果があるとされる奇形のホヤを巡る顛末 冬至草(2002):強い放射線を放つ植物標本と、その採取者の戦前戦後の運命を探る 月の…(1999):ある日男の右手に幻の小さな月が憑くが デ・ムーア事件(書き下ろし):火の玉を見たと訴える患者たちには奇妙な共通点があった 目をとじるまでの短かい時間(2004):田舎の病院を継いだ医師の周辺で起こるさまざまな出来事 アブサルティに関する評伝(2001):天才的な勘を持った研究者は、しかし捏造された実験を繰り返していた ホヤに隠された秘密、なぜ冬至草に放射線があるか、火の玉を見る理由などは、最終的に解明される(そのように読める)。他の物語でも、それぞれ主人公の行動の意味が書かれており、文学的にも(「目をとじるまで…」は芥川賞候補作)科学的にも解釈できるのだ。Jコレクションと石黒達昌の組み合わせは、異色だが不自然ではないだろう。
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