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第3回(2002年)の小松左京賞を、『神様のパズル』で受賞した作者の最新書き下ろし長編。前作は、このようなSFの賞としては異例なほど売れたようだ。宇宙創造のアイデアと、大学生のゼミ研究という対照的な組み合わせが鮮やか(かつ分かり易かった)せいもあるだろう。ちょうど1年を費やし、ほぼ900枚に達する大作となった本書のテーマは“救世主の創造”である。 主人公はヒマラヤの奥地で行われていた砂防ダムの工事で、偶然“方舟”を発見する。それは氷河の中で5000年近く埋もれており、まるで人類に発見されるのを待っていたかのように姿を現す。しかし、方舟に詰め込まれていたのは無数の木簡だった。木簡にはあるパターンで模様が印されていた。これは果たして文字なのか、それとも何らかの記号なのか。2030年、いまから25年後。世界は遺伝子操作に係わる巨大企業に牛耳られていた。閉塞感漂う世相の中で、主人公たちは“メシアを創り出す”計画に手を染めるが…。 前作と同様、本書の主人公も気の弱い巻き込まれ型。今回は妙に強気で薄情な謎の考古学者に振り回され、世紀の大陰謀へと引き込まれてしまう。犯罪ミステリ風に、まず記号の解読、陰謀の手順(根回しと道具立ての準備)と進み、最後は解明されたメシアの正体についてまで言及される。その点、前作の宇宙創造テーマと同様で逃げはない。 とはいえ、この結末には疑問も残る。そもそも“創造主”のメッセージが、なぜ木製の方舟に乗せられ、木簡に書かれたのか。もうちょっと説明がほしいところ。
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2003年のファンタジーノベル大賞、大賞受賞作。選考委員も(ほぼ)絶賛。 京都大学の5回生である主人公は、振られた後輩の女子大生を“研究”している。彼女の行動を観察するため、執拗に追跡するのである。主人公は、万博公園にある太陽の塔の驚異に魅せられていた。しかし、その秘密を教えた途端、彼女は主人公への関心を失うのである。クリスマスを迎え、底冷えの中に震える主人公の周りには、偏在化して京都の裏小路を走りすぎる叡山電鉄の姿や、四条河原町で巻き起こる“ええじゃないか”の叫びとともに、遥か彼方に太陽の塔の幻影が浮かび上がる…。 京都を舞台にした(現役)大学生の幻想と聞いて、SFファンなら山尾悠子(「夢の棲む街」)を連想する。しかし、徹底した幻想を追及する山尾悠子とは違って、本書の舞台は現実の地名を鏤めた京都の街並みであり、いかにもありそうな学生向けの古びた下宿である。主人公はストーカーなのであるが、エキセントリックというより憎めない間抜けな人物として描かれている。この幻想の質は既存の何者にも似ておらず、確かにユニークだろう。うーん、でも京大生的リアリズム小説が、一般人にマジックリアリズムに見えてしまっただけかも。
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スタージョン・オリジナル短編集の第2弾。10編中初訳は3編ながら、大半が新訳である。『海を失った男』(若島正篇)は、作者のさまざまな才能を一望できる幅広いセレクションだった。本書は、同じような意図ながらむしろ均質な印象が残る。昔流のロマンチックSF傑作選とでも言える内容である。 代表的なものとして、安アパートで覗き見た奇妙な隣人の正体(「もうひとりのシーリア」)、継母のいじめから逃避する男の子の影絵遊び(「影よ、影よ、影の国」)、誰からも注目されず、目立たない人生を送る男女が見た人魚(「不思議のひと触れ」)、核戦争後滅び行く人々が下した決断(「雷と薔薇」)、小さな円盤が女に伝えたメッセージ(「孤独の円盤」)などなど。 50年代では、スタージョンの描くさまざまな出会いは、日常から弾き出された少数の弱者にとってのささやかな救いだった。それが21世紀の今日では、誰もが弱者になりうる。子ども虐め、性格異常者、社会的孤独、成功者(ほんの少数)と日陰者(大多数)、そういった人々に対する文字通り“癒し”(肯定)をテーマにしているように読める。 それにしても、A Touch of Strange 初訳時の邦題「奇妙な触合い」(非現実=奇妙)を、「不思議のひと触れ」(日常の隙間=不思議)と訳し直すだけで、本来50年代の感性だった疎外感が、そのまま21世紀でも共感できるものに変貌するとは。
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2003年のファンタジーノベル大賞、優秀賞受賞作。 大賞に比べると、むしろ分かりやすい作品。21世紀後半の日本。国力は衰退し、アメリカと中国により分割統治されている。人口は半減したが、その大半は封鎖された巨大なスラム東京に集められている。主人公は、その町の中でいかがわしい商売をしながら、どこかで密かに飼われているという巨獣“象”を目にしようと画策する。 世界の雰囲気は、椎名誠の『武装島田倉庫』や『アド・バード』に似ている。繁栄が終わり、全体が闇市と化した社会で、しかし主人公は飄々と(絶望もせず)生きていく。無感動に事実だけを受け入れていく姿勢は、無駄に考える時間を惜しむかのようだ。スラム化する未来というビジョンは、最近の世相を反映してか新人賞(下記)に多い。未来社会の成り立ち(なぜ日本人を東京に集めるのか)や、かつての人口爆発SF(たとえば、映画『ソイレント・グリーン』の原作、ハリスン『人間がいっぱい』(1966)など)と比較したオリジナリティがもうちょっとほしいように思うが、著者の興味はそのような設定の厳密さにはないので、むしろファンタジイ的要素をもう少し付加すべきなのかもしれない。
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評者が最初に高井信の作品を読んだのは、本書に収められた「シミリ現象」の原稿です。ほぼ30年前。比喩の現実化を扱ったこのショートショートは、筒井康隆さんの同人誌NULLに応募された一編でした。という、懐かしい一編を含めた10篇のショートショートとエッセイを収め、日本語の乱れをテーマにしたのが本書。何しろ言葉をテーマにするだけに、「言葉尻を捕らえた」(この表現は悪口ですね)ようなオチが中心で、その強引さでも結構楽しめます。作家表現のベースである言葉が誤用/単純化されてしまうと、コミュニケーションのインフラが破壊されるのと同じなので、文藝的テロ行為といってもいいくらいです。冗談めかした本書のテーマは、真剣に考えると結構深い。 うーむ。でも、本書で指摘されているさまざまな誤用は、ナナメ読みをしていると、もはや気にならないレベルなんですね。さすがに書くときには注意しますが。それぐらい、乱れが日常化しているわけです。
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昨年11月に出た、13編を収めた作品集。アンソロジイ既出の作品が中心で、約15年のレンジがありながら(1985〜2003)、牧野修の極北に位置する代表的な短編集になっている。 お話は、夢を見ないという独白に始まる――悲惨な半生を送る女と仮想の航海、子どもの生まれなくなった街の最後の子、2流で孤独な中年男に授けられる卑猥なインキュバス語、社会の最底辺に潜む神ドギィダディ、内的時間を早める薬バロック、妄想の中に展開する兄弟の愛憎、島を埋め尽くす生きている家具の世界、演歌と薔薇十字の黒魔術、異星のバーサーカー(殺戮者)に立ち向かう落ちぶれた漫才師、自殺寸前の女に憑依した霊的存在、非合法化され逃亡する物語たち――そして、物語を自由に語ることを禁じられ、夢を喪失した作家の独り語りで終わる。 本書を通読すると、“電波系狂気”描写や“マゾヒスティックな残虐”描写だけではない、牧野修の別の面を知ることができる。自身に責任のない不運、強者に圧殺される弱者への詩的な共感(物語が人間の姿で逃げていく描写は、ある意味“詩的”としかいいようがない)は、これまで長編の一部で書かれてきたが、本書ではメインテーマに位置付けられる。詩的ホラーコレクションという意味で、本書は21世紀の『10月はたそがれの国』(レイ・ブラッドベリの代表的ホラー/ファンタジイ短編集)といえるのでは。
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