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林 譲治の書き下ろしSF長編。 2040年、奈良県の遺跡発掘現場で、おかしな文字板が発見される。そこから得られた情報は、既存のどのデータとも一致しない。しかも、遺跡は何者かに爆破され消し去られてしまう…。 原発テロによる核汚染から立ち直った日本は、厳格な個人認証によるセキュリティで管理されている。認証者と非認証者が区分けされ、個人のプライバシはオープンが当たり前となっている。世界もまた、リングと呼ばれる巨大な衛星システムで情報共有されている。矛盾するデータが存在できるはずがない。謎を追う主人公たちの前に、その背後に潜む巨大な何者かが浮かび上がってくる。 本書には、いくつかのテーマが含まれているようだ。ウェアラブル・コンピュータによる厳密な認証社会の功罪、人間の情報処理能力と入力=感覚の関連性(人間は視覚/聴覚などの感覚入力の100万分の1しか、脳で利用していない)、歴史認識というある種の“記憶”の脆弱性、イメージを入出力する並列プロセッサの可能性など、テクノロジーから社会体制に至るまで、非常に多彩で刺激的な内容だろう。例によって既存SFとの類似を指摘するなら、眉村卓『幻影の構成』(1966)を連想させる。本書のワーコンは、『幻影…』に登場する、人々のあらゆる行動を指導/監視する携帯端末イミジェックスを思わせる。 ただ、本書の場合、未来の暴力的な政治闘争や謎の集団の行動と、前記のテクノロジーによる社会改変との関係がやや不明確である。本来、社会対社会/集団対集団のお話が、個人対個人に縮退している点に無理があったのかもしれない。
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『黒娘 アウトサイダー・フィメール』の直後に書かれた作品。『黒娘』の内容は下記を参照していただくとして、本書は「ジャンヌ・ダルク」を題材に――というか、エピソードをそのままSFに移し変えたもの。あとがきを読むと、リュック・ベッソンの“美少女映画”(「ジャンヌ・ダルク」も、主人公は17-18歳)に対する、牧野流アンチ・テーゼ(反論)ともいえるようだが、もちろんそんなことを意識する必要もない。 いつとも知れない未来、人類はかつての下僕である擬人種の反乱に遭い、社会の片隅で細々と生きているにすぎない。そんな生き残りの人類の中で、少女ピュセル・アン・フラジャーイル(フラジャーイル家の乙女)は神の啓示を聞く。神の声に従い、人類の王を救い、擬人種たちに打ち勝てと。少女は、4人の擬人種の部下を引き連れ、圧倒的な敵たちに戦いを挑むが…。 例によって、独特の名称と奇怪な姿を併せもった生き物や、物語域/記述式無限選択航法などの説明が、いかにも著者らしい世界を描き出している。お話は淀みなく進み、枚数不足かと思われた結末も、ジャンヌ・ダルクの最期を示唆して終わるなど、計算通りといったところ。牧野修の多才さを思い知らされる。
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陰山琢磨のシミュレーションノベル。著者が専業作家になって以降の2作目にあたり、前作『蒼穹の光芒』の続編に相当する(とはいえ、本書単独で読むこともできる)。以前から書いているように、評者はシミュレーション・ノベルの専門家ではないので、厳密に本書の位置付けを論じる立場にはない。そこで、比較対象として谷甲州“覇者の戦塵”を置いた評価である点に注意いただきたい。 零戦の撃墜王坂井三郎は、その名声を疎んじられ、満州の奥深くに設けられた実験施設のテストパイロットとして、ロケット機の試験飛行を命じられる。折りしも、世界は戦闘機のジェット化と核武装に揺れており、日本帝国でも早急な防衛体制の要として、ロケット機の開発が急がれていた。巨大な爆撃機に懸架されたその実験機は、ついにマッハ7で成層圏を飛翔し、世界最初の宇宙弾道飛行を成し遂げるが…。 このお話の大半は、パイロットと設計者による技術開発の物語である。ロケット機の描写は非常に執拗かつ精密。作者のこだわりはそこにあって、戦闘シーンは最小限しかない。全体分量の10分の1を占めるラストのクライマックスでも、主眼は作戦と経過にある。やはり、評価の分かれ目は、その点の好悪にあるだろう。世界の政治的な成り立ちには、やや疑問点がないではないが、よく考えられており破綻は感じられない。
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著者初のSF長編にあたる。1995年のファンタジーノベル大賞受賞以来8年になるが、その間の2作はファンタジーだった。もともとSF(ファングループ)をベースに活動してきた作者だけに、待望の長編といえるだろう。 はるかな異世界、そこでは砂漠の中にオアシスがあり、都市とオアシスの村の間を交易人が行き来し、物々交換で商売を行っている。村を生かしているのは、巨大な移動する人工装置<ハハ>だ。それが砂漠を耕し、種子を撒き、灌漑を行って人々を養っている。村の少年は、交易人について砂漠を越え、都市を目指そうとするが…。 植物が専門の著者らしく、本書に出てくるガジェットは徹底して生物的。電脳空間、宇宙船すら、従来の鉱物的(非生物的)な雰囲気はない。作者自身意識したという、巨大な移動都市の物語プリースト『逆転世界』(1974)は、オアシスの村に相当するのだろうし、生物の名前も、ブライアン・オールディスが『地球の長い午後』(1961)で描く、温室効果で常夏となった遠未来の多様な生き物を思わせて新鮮。 ちょっと気になるのは、早い段階で正体を見せる都市の実情や世界の現実と、表題とも結びつく結末との関連性。このあたりの説明がもう少しほしかった。
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雑誌「電撃hp」に連載されたのが2000年の6月から03年5月、文庫が01年の10月から03年の8月という、3年がかりの大作。 8月31日から10月26日まで、夏休み直後から再演されるもうひとつの夏休みの物語。設定は現代だが、この世界では日常的に戦争が継続されている。主人公たちは、基地の町の中学生。夏休みが終わり始業式を迎えた日に、基地内に住む少女“伊里野”が教室に現れる。彼女は誰とも打ち解けず、コミュニケーションを拒絶する。いったい何のために転校してきたのか。その背後に見え隠れる軍の目的は何なのか…。 ――という、物語の設定とは別に、主人公と少女との出会いの物語がメインに据えられている。たとえば、プールでの出会い、防空壕での騒動、映画館でのデート(その1)、学園祭(その2)、大食い競争、戒厳令前夜(その3)、駆け落ちめいた逃避行(その4)などなど。お話は、最終的に、この戦いの意味/理由と終戦/離別をもって結論とする。昨今、それほど珍しくはないかもしれないが、明らかに病的な少女(オタク的/マンガ的な女子中学生の象徴ではなく、異常な戦争の象徴でもある)も、気の弱い少年とのプラトニックな恋という設定では自然に見える。 本書は、おそらくその1、2の段階では、閉じられた少女の心が開いていくお話であったのだろう。それが、その3の後半から少年と少女だけに収斂し(かつ、心理描写はほぼ少年に絞られる)ため、1本の長編としてのバランスに欠く。世界の秘密も、説得力があったとはいえまい(背景のままで、説明はなかったほうが良かったかもしれない)。ただ、それがために、感情的に盛り上がる物語に仕上げられている点は評価できる。
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山本弘初の書き下ろしハードカバーSF長編。ヤングアダルト向けの著作や、と学会系ノンフィクションを手がけてきた作者が、(溢れる情報量を見ても、文字通り)満を持して書き下ろした1300枚の大作である。 主人公は幼いころ両親を災害で失う。それ以来、神の存在/神の意思について強い猜疑心を抱きながら成長する。やがて彼女は、フリーのライターとなって、神に憑かれた人々の追跡をはじめる。さまざまなカルトは、何の事実にも基づかない詐欺まがいの存在でしかなかった。しかし、合理的な説明のできない、奇妙な現象が彼女を襲う。一方、主人公の兄は、この世界を取り巻く“壁”の存在を予測する。やがて、神の存在を印象付ける、驚くべき事件が世界を揺るがす…。 本書のメインアイデアについては、既存のSF(たとえば、イーガン)を感じさせる。ただ、それらと山本弘の違いは、膨大なUFO/UMA/超能力/超常現象の“事実=あるがままの事件”の蓄積だろう。著者は、事実に個別の説明を加えるのではなく、総体としての解釈を試みる。そういった冷静な分析と、神に人生を翻弄された主人公たちのたどり着くある種の諦観とが、本書の結末に置かれる。イーガンやテッド・チャンら現在を代表する作家とも共通する、人間という物理現象の限界と人という“個”の葛藤は、多くの読者の共感を呼ぶことだろう。デビュー当時から、山本弘のストーリーテリングには定評があった。本書の場合、データ/情報があまりにも多すぎるが、テーマを補強する意味はあったと思われる。
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もうひとつの太平洋戦争が戦われた並行世界の物語、というイメージだが、本書から受ける感触は、カズオ・イシグロが書いた日本物(たとえば『浮世の画家』)に近いようだ。ネイティヴな日本人から見て、違和感がないとはいえない。著者は日系人でもなく、アジア系でもなく、純粋に文献から知った日本文化をお話のベースに置いている。 男爵である島津家の当主とその息子(英国留学の経験があり、英連邦との戦いに苦悩)、愛人のユダヤ人女性(男爵によってドイツから助け出される)らと、数奇な出会いを果たすその子供たちの物語である。 第2次世界大戦前、ドイツとの未来を危ぶんだ島津男爵は政策の転換を進言する。日本は南へと進路を変え、太平洋の覇権を握る。本書のユニークさは、単に過去の政治をそのまま拡張しただけ(たとえばドイツ第3帝国が世界制覇したとか)、現代の政治状況を敷衍/ひっくり返しただけ(韓国/北朝鮮が攻めてくるとか、アメリカの代わりにロシア/旧ソ連が世界を支配しているとか)のアルタネートものではない点。作者が創造した登場人物は、それぞれ深い苦悩を背負っており、それは西洋対東洋(日本)、親対子、貴族対庶民といった対立関係の中で顕在化する。異質な美意識で描かれた、アメリカ人によるこの日本人像こそ、並行世界そのものと言えるかもしれない。
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晶文社版“異色作家短編集”の第3作目に相当する。イーリイは1927年生まれで現役作家だが、著作はわずか9冊。最新作は92年の近未来もの長編だった。短編作家とはいえ、短編集も本書(第1短編集)を含めて2冊のみ。ただし、その中身はSFやホラー、ファンタジイ、ミステリを混在させた、ちょっと変わった都会小説であり、異色作家にふさわしいものといえる。300ページに15編を収録。60年代前半の作品が中心。短いものが多いので、代表的なものから2、3抜き出して見ると、著名な名士の集う秘密倶楽部の目的「ヨット・クラブ」、核兵器の誤射で壊滅したイギリスを復興する計画「タイムアウト」、俺は神だと自覚した男の知る真実「G.O'D.の栄光」、完璧な音楽を演奏するパイプオルガン「オルガン弾き」などなど。 作品によっては、意外なオチで読者を驚かせるものもある(たとえば、火星ロケット打ち上げの結末「カウントダウン」)。このあたりは、昔ながらのショートショート風。とはいえ、冒頭の「理想の学校」の、学校の正体を匂わせるある意味上品な(執拗さのない)終わり方は、古いスリック雑誌(高級なグラビア雑誌)に似合う内容だ。今の読者に新鮮に映るかもしれない。本書はSF/ファンタジイとしても十分楽しむことができる。反面、ジャンルとしての動向とは全く関連がない。やはり、そういった意味でも、分類を意識しないこのような出版が似つかわしいのだろう。
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